私の名前はオオミヤサチコ65歳。22歳の時に結婚をして子育てや義両親の介護など、さまざまな出来事を乗り越えてようやく落ち着いたと言っても過言ではありません。
夫も定年をして、悠々自適な生活とまではいきませんが特に不自由のない生活で過ごしています。これから60代後半、70代、そしてどちらかが亡くなるまでこの穏やかな生活は続くのだと信じて疑いませんでした。
「離婚して欲しい」
だから、夫から言われた言葉もすぐに受け入れることはできませんでした。
だってそうでしょう?結婚して43年、夫は真面目な人であまり冗談すら言わない人です。そんな人から突然「離婚して欲しい」と言われても、すぐに受け入れられるはずがないじゃないですか。
「どうしたの?今日はエイプリルフールでも何でもないんだけど」
冷静さを失わないように言ったつもりでしたが、自分でも分かるほど私の声は震えていました。
そのため、きっと夫にも声が震えていることが伝わっていることでしょう。だけど夫は何も言わず、じっと私を見つめるばかりでした。
「冗談でもウソでもない。突然こんなことを言って悪いとは分かっているが離婚して欲しい」
悪いと思っているなら最後まで言葉にしないでほしいと言いたかったけれど、自分で思っている以上に混乱しているのか上手く言葉さえ紡げませんでした。
何か言わなきゃいけないと、ただ口をぱくぱくとさせるばかりできっと夫から見れば滑稽な姿だったことでしょう。
「理由は?」
突然離婚をしたいなんて言いだすには何らかの理由があるはずです。
私が問いかけると、夫は答え始めました。理由はとても簡単なもので、先日行われた大学の同窓会に出席したからだそうです。
当時好きだった人に「あの時好きだったんだよ」と言われて、夫はその女性に恋をした結果、私と離婚をして一緒になりたいと思ったのだとか。
まるで若い男性が不倫でもするかのような口ぶりに呆れてののしることさえできませんでした。
「つまり、あなたはその人と不倫をしているということなのね」
「不倫はしていない。きちんと独身に戻ってから気持ちを伝えるつもりだ」
つまり、相手の女性は夫が自分のために離婚をしようとしていることさえ知らないのでしょう。
どんな年齢であっても既婚者に軽々しい言葉を言った女性にも腹が立ちますが、それを真に受けて離婚を決意した夫にはもっと腹が立ってしまいます。
相手の女性にしてみれば思い出のような意味で意味なんてなかったのかもしれません。
きっと夫は真面目過ぎる部分もあるせいか、冗談を本気にしてしまったのでしょう。
「不倫はしていないと言っても、その女性のために離婚をしようと決めたのなら私にとっては不倫されていることと同じよ。いいえ、もしかしたらもっとタチが悪いのかもしれないわ」
普通に不倫をされた方がもっとののしることができました。
夫のタチの悪いところは、まだ不倫をしていないという中途半端な誠実さを見せているところです。
しかも、それを本人は悪いと思ってもいないのだからタチが悪いのだと言えます。
女性と関係を持たなければ不倫にならないとでも言うのでしょうか。はっきり言って夫がしていることは心の不倫と同じことです。
「お前には悪いことをしていると分かっている。だけど、これは本気の恋なんだ」
夫は私より1歳年上の66歳。
はっきり言って人生も終着点に近づいている中で本気の恋と言う言葉を恥ずかしげもなく言う姿が気持ち悪く感じてしまいました。
「言っておくが、お前が反対するなら俺は家を飛び出してでも彼女と一緒になる」
恋は盲目とはよく言ったものです。
目の前の夫は脳内お花畑で現実が見えていないのでしょう。どうしてこんな男を好きだと思っていたのか、そんな気持ちを持っていた自分にさえ嫌悪感が出てくるほどでした。
例え、夫が目を覚ましたとしても私はこのことを忘れられません。1度こんなことがあれば、2度や3度と繰り返す可能性さえあるのですから。だったら、もう私が選ぶべき道はひとつしかありません。
「分かりました。離婚は受け入れます。ただ、しっかりと支払うべきものは支払ってもらいます」
この年齢から働き始めたとしても、すべての生活費を担うことはできません。
そのため、ある程度のお金は渡してもらわないと困ります。夫婦の共有財産は半分にするとしても、慰謝料的な物を多少はもらわないと気がすみません。
夫は私の気が変わらないうちに離婚をしようと思ったのか、私が言う条件はすべて飲んでくれました。
恋とはここまで人をおろかにさせてしまうのだと、怒りを通り越して呆れるばかりです。
その後、私と夫の離婚が決まりました。
子供たちにも離婚や原因のことを伝えたのですが、全員が「気持ち悪い」と夫を嫌悪していました。
そりゃそうでしょう。子供たちも親という立場になったからこそ、夫の言動の気持ち悪さが分かるのです。
私たちが離婚しても、子供たちは私には孫を連れて遊びに来てくれると言っていましたが、夫に対しては孫を二度と会わせるつもりもないと言っていました。
軽率な言動で夫は子供や孫と会う機会すらもなくしたことに気づいていないのでしょう。
夫と離婚をしてから私はアパートで独り暮らしを始めました。
子供たちは同居を提案してくれましたが、私がそれを断ったのです。
今までは誰かと一緒に暮らすのが当たり前だったからこそ、離婚した後は自分だけの時間を楽しみたいと思いました。
それに、子供たちの家の近くに住んでいるので会おうと思えばいつでも会えるので寂しさもありません。
ちなみに夫はと言えば、現在はひとりで暮らしていると聞いています。私と離婚をした後、本気の恋をしたという女性に告白をしたのだと聞きました。
だけど断られたそうです。
それもそうでしょう。同じような年代であれば夫や子供、孫がいる可能性が高いです。元夫の暴走で相手の女性の家庭も揉めに揉めたと聞いていますが、結局元夫の妄想や暴走によって被害を受けたということに落ち着いたと聞いています。
「やっぱり俺にはお前しかいない」
相手の女性に断られた後、どうやって調べたのか私のアパートにまで押しかけてきました。
離婚をして相手の女性にフラれたことでひとりぼっちになってしまったという現実に気づいたのでしょう。
当然ながら私が元夫を許すはずも受け入れるはずもありません。追い返した後は子供たちに私を説得してくれるよう頼みに行ったそうですが、子供たちは誰一人元夫の話を聞く人はいなかったそうです。
「俺が悪かった。もうひどいことはしないから」
何度も元夫から連絡が入りましたが「これ以上付きまとうなら警察に相談します」と言うと、ぱたりと連絡をしてこなくなりました。
それから元夫とは会っていないのでどうなっているか分かりません。
正直、元夫に軽率なことを言った女性に恨みがないかと言えば素直にないとは言い切れません。彼女が軽率なことを言わなければ、私たち夫婦は離婚することはなかったかもしれないのですから。
ただ、元夫があんなことを真面目にできる人だったということで、遅かれ早かれ離婚にはなっていたのかもしれませんけどね。
テレビで熟年離婚のことを見たことはありましたが、まさか自分がそれを経験するとは思いませんでした。
穏やかな老後を過ごしたかったという本音はありますが、あんな人と人生の最後を共にすることがなくて良かったのだと思うようにします。私や子供を裏切るようなことをした元夫には天罰が下り、孤独な老後を過ごすことになるでしょうから。それが復讐の代わりになると思うことにします。