「ごめんね、こんな歳なのに…私、初めてだったの。大丈夫だった?」
夜の静けさの中で、美咲のかすかな声が耳に届いた。その瞬間、僕たちの鼓動が重なり、まるで一つになったかのように響き合っていた。美咲が見上げるその瞳には、少しだけ不安と恥じらいが混じっていて、僕は彼女をそっと抱きしめた。
僕が美咲に初めて出会ったのは、小学生の夏の日だった。友人の拓也に誘われて、彼の家に遊びに行ったときのことだ。何気なく上がった二階で、彼女がふっと振り返った。その瞬間、僕は思わず息を呑んだ。拓也の二つ年上の姉、美咲。彼女を見た瞬間、まるで眩い光をまとっているかのように感じた出来事だった。
長い黒髪が肩にさらりと落ち、涼しげな瞳が僕を見つめている。少し上がった唇が、なぜか得体の知れないドキドキを僕に与えた。小学生の僕にとって、美咲は「美人」とか「憧れ」といった言葉では表せない、どこか別の世界から来た人のようだった。彼女が「こんにちは」と微笑んだとき、胸の奥で小さな音が鳴ったことを、今でも覚えている。まあ彼女もその時は小学生だったのだが…
それからというもの、拓也の家に行くときには、心のどこかで「美咲さん」に会えるかもしれないという期待があった。無邪気に「美咲さん!」と声をかけては、彼女に微笑まれて、「かわいいね」と頭を撫でられる。その仕草が、子どもの僕にはたまらなく嬉しくて、少し誇らしかった。拓也の姉である美咲に、特別な存在として見られているような気がしていたのだ。
でも、僕が中学生、高校生と成長するにつれて、その「弟みたい」という扱いがどうしようもなく恥ずかしく感じるようになった。彼女の視線の先にいる自分が、ただの「年下の子ども」に過ぎないと感じることが、心に刺さるようだった。拓也の家に行くたびに、彼女の一言一言に一喜一憂し、いつしか「弟」としての扱いに傷つく自分が嫌になって、僕はだんだんと拓也の家に足を運ぶ回数が減っていった。
そして大学生になり、僕は上京して一人暮らしを始めた。新しい生活に夢中になり、美咲のことは自然と記憶の片隅に追いやられていった。拓也ともだんだんと疎遠になり、会うのは年に一度の帰省のときだけ。次第に僕の心の中で美咲の存在は、どこか儚い思い出のように遠のいていった。
そんな中、拓也から久しぶりに連絡があったのは、彼の結婚式の招待状だった。結婚式場で、僕は何年かぶりに美咲と再会した。彼女は変わらず美人で、黒髪も当時と同じように肩で揺れている。だけど、そこに昔感じた可愛らしさは影を潜め、代わりに大人の女性の静かな落ち着きが漂っていた。僕は彼女を目にした瞬間、言葉が喉に詰まった。あの小さな頃の淡い憧れが、再び胸を騒がせていた。
「久しぶりだね、浩太君」と、彼女が声をかけてくれた。その優しい笑顔と、名前を呼ぶ声に、僕は思わず顔が熱くなるのを感じた。この時の美咲も眩く光って見えた。周りの視線がこちらに集まっている気がして、僕はまともに返事をすることさえできなかった。そのとき何を話したのか、正直ほとんど覚えていない。ただ、彼女の視線を感じるたび、心臓が早鐘を打つように鳴り響いていたことだけは鮮明だった。
それから十数年の間に、僕にも「結婚」を意識した女性が二人いた。しかし、どちらも結局はうまくいかなかった。時間はいつの間にか過ぎて、気づけば僕も三十代も半ばに差しかかっていた。そんなとき、拓也から年末以外では久しぶりに連絡があった。「話があるんだ。こっち来る予定は無いか?」とだけ告げられ、なぜか嫌な予感がして、僕は急遽帰省することにした。もしかして離婚でもするのか……そんな不安もよぎった。
帰省した夜、指定された店に行くと、拓也の隣に美咲が座っていた。僕の心は一瞬にして高鳴った。彼女は変わらず綺麗で、しかもどこか柔らかい微笑みを浮かべていた。
「浩太君、久しぶり。私も参加しちゃったけど、いい?」と、無邪気に笑う美咲。その笑顔に僕は言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。僕と美咲は久しぶりに同じテーブルを囲んで、くだらない話で笑いあった。彼女は下戸の為ジュースを飲んでいるのに、まるでお酒を酌み交わしたように盛り上がっていた。美咲はもうすぐ三十九歳になると言っていたけれど、僕にはその年齢が信じられないほど、彼女は美しく、そして魅力的に見えた。
つい気が緩み、お酒が進んでしまった僕は、いつの間にか酔いつぶれてしまった。目が覚めると、夜の街灯に照らされた車内で、僕と美咲が二人きりで座っていた。驚いて謝る僕に、美咲は微笑みながら「拓也は酔い潰れたから、家に送ってきたのよ」と告げた。そして続けて、「ねえ、浩太君の家まで送る前に、少しドライブに付き合ってくれる?」と、彼女は優しい笑顔で僕を誘った。
そのまま僕たちは車を走らせ、たどり着いたのは、二人が通った母校が見下ろせる静かな丘の展望台だった。夜風が心地よく、二人で並んで座り、懐かしい思い出話に花を咲かせた。時が経つのも忘れ、昔の話に笑い合いながら、僕たちはどこか子どもに戻ったような気分になっていた。ふと、僕が「そろそろ帰りますか」と口にしたとき、美咲が僕の腕を掴んだ。そのまま僕を見上げ、少し震える声でこう言ったのだ。
「浩太君、私と付き合ってほしい」
一瞬、頭が真っ白になった。信じられなかった。あの美咲が、自分に「付き合ってほしい」と言っている。驚きに目を見開く僕に、美咲はさらに続けた。
「実はね、ずっと昔から、浩太君のことが好きだったの。ずっと忘れられなかったの」
僕の胸に込み上げてきたのは、驚きと喜びと、少しの戸惑いだった。小さな頃から憧れていた彼女が、こんなふうに自分に想いを告げてくれる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「他の人と付き合おうとしても、やっぱり無理だったの。ずっと、浩太君だけだった」
僕は何も言えず、美咲をそっと抱き寄せた。二人の間に言葉はいらなかった。静かな夜の闇に包まれながら、僕たちはただお互いの温もりを確かめ合った。美咲の肩が微かに震えているのが伝わり、僕はその彼女の背中にそっと手を回した。そしてその夜、二人の鼓動が一つになって響いていた。
「ごめんね、こんな歳なのに…私始めてだったの。大丈夫だった?」
「美咲さんが眩く光って見えたんだ。」何言ってるのと言わんばかりの呆れた顔をしている美咲に
「ほんとだよ。今だけじゃなくて、初めて美咲さんに会った小学生の時、結婚式の時も美咲さんのことが光って見えたんだ」
この言葉に美咲を顔を真っ赤にして僕の胸に顔を隠し恥ずかしがっていた。
東京に戻ってしばらくして、拓也から連絡があった。「ありがとうな」と短く伝える彼の声には、どこか涙が滲んでいるようだった。僕は茶化すように「いいのかよ?俺とお前、兄弟になるんだぞ」と言ったが、電話越しに拓也は少し鼻をすする音を漏らし、「…あぁ、お前らが結ばれて、俺は嬉しいよ」と静かに答えた。きっと彼は、ずっと美咲の気持ちに気づいていたのだろう。僕はそのことには触れず、ただ彼に「ありがとう」とだけ伝えた。その後、美咲はすぐに上京しすぐに同棲を開始した。そして結婚式の日、そのときの美咲は四十歳になっていた。そして奇跡のように、彼女のお腹には僕たちの子供が宿っていた。あの丘の上での勇気が、こうして新しい未来を紡ぎ出している。
これが、僕と美咲の馴れ初めだ。