
会社を出ると、すっかり日が落ちていた。地方都市の夜は静かで、ビルの窓に映る光がなんとなく心細さを助長する。俺は深いため息をつきながら、スーツのポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。
——19時過ぎ。俺は一人で飯を食うのが当たり前になっていた。料理をするのも面倒だし、コンビニ飯ばかりじゃ気が滅入る。そんな俺が唯一くつろげるのが、自宅近くの小料理屋だった。
暖簾をくぐると、いつもは静かな店内が妙に賑やかだった。カウンターはほぼ埋まっていて、空いているのはたった一席。店主の親父が俺を見つけると、にやっと笑った。
「お、智彦。そこの席、座んな」
「え? そこって——」
「いいからいいから。ゆかりの話し相手になってやってくれよ」
俺は少し戸惑いながら、すすめられた席に座った。隣には、長い黒髪を無造作に後ろで束ねた女性がいた。シャツの袖をまくり、タバコを挟んだ指を揺らしながらビールを飲んでいる。目元にほんのり笑みを浮かべていたが、どこか鋭さも感じさせる表情だった。
「こんなおばさんと飲んでも、つまんないでしょ?」俺はその言葉に少し驚いた。
「いやいや、そんなことないですよ。むしろ美人な方なので、こっちが緊張しますよ」
「ははっ、お兄さん、いい子だねぇ」ゆかりさんは、そう言ってビールのグラスをカウンターに置いた。その仕草が妙にサマになっていて、俺は思わず彼女を見つめてしまった。
店主の親父がニヤニヤしながら、「ゆかりはこの店の常連なんだよ」と説明してくれた。18歳で娘を産んで、女手一つで育ててきたシングルマザーで今は長距離トラックの運転手をしているという。
「娘も18になって結婚しちゃったし、今はもう自由気ままにやってんのよ」
そう言って、ゆかりさんは豪快に笑っていた。その無邪気な笑顔と、芯の強さを感じさせる雰囲気に、俺はどうしようもなく惹かれていた。
それから、俺たちは何度か店で顔を合わせるようになり、週に数度は一緒に晩酌をするようになっていった。
ある夜、俺は店の前で立ち止まった。給料日前で今月は財布が寂しい。今日はやめておこうか——そう思った矢先、後ろから声がした。
「ん? どしたん? 入らないの?」
振り向くと、そこにはゆかりさんがいた。いつものカジュアルなシャツに、スキニーデニム。髪はゆるくまとめられ、ほんのり香るシャンプーの匂いに、俺の心臓が跳ねた。
「いやー、今月ちょっとピンチで。今日はやめようかと思ったんですよ」
「そうかー。んじゃ、うちにおいでよ!」
「え?」
「私がなんか適当に作ってあげるからさ」まさかの誘いに、俺は一瞬固まった。
「いや、でも——」
「ほら! 行くよ!」そう言うなり、彼女は俺の腕を両手でがっちり掴み、そのまま引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと待って——!」結局、抵抗する間もなく、俺はゆかりさんの家へと連れて行かれた。
「ご飯作ってる間、お風呂、入ってきなよ」家に着くなり、ゆかりさんはそう言った。
「いや、さすがにそれは……着替えもないし」
「前の夫のスウェットならあるよ。パンツはー…まあ、1日くらい同じの履いても大丈夫でしょ」
そう言うと、俺の背中を押し、気づけば脱衣所に閉じ込められていた。
「ちょ、ちょっと……」
「はい、タオル置いとくからねー!」ドアの向こうで、彼女の陽気な声が響く。俺は観念して、シャワーを浴びた。
風呂から上がると、テーブルの上には色とりどりの料理が並んでいた。
「うわ……すげぇ」思わず感嘆の声が漏れる。手際よく盛り付けられた料理の数々。唐揚げ、煮物、サラダ、味噌汁。どれも家庭的で温かみのあるものだった。
「さ、食べて食べて」
「……いただきます!」俺は箸を取り、夢中で食べた。
「うまい……うますぎる」
「そんなガッついて食べられたら、作った甲斐あるわ」
ゆかりさんは満足そうに笑い、俺の食べっぷりを見ながらビールをちびちびと飲んでいた。
食べ終わり、コーヒーまで出してもらい、俺はソファに深く腰を沈めた。
「ゆかりさんありがとう!マジで美味しかった」
「……今日泊ってってよ」
「え?」いきなりの言葉に俺は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「別に変な意味じゃないよ?」そう言いながら、ゆかりさんは立ち上がり、風呂場へと消えていった。
俺は、返事も何も言えないまま、その場に取り残された。心臓がうるさいほど鳴っている。ここにいていいのか。いや、俺は——。
頭の中で理性と欲望がせめぎ合う。やがて、シャワーの音が止まり、脱衣所の扉が開く音がした。
「……泊まってくれるんだよね?」小さな声が聞こえた。俺がまだここにいることに、彼女は安心したようだった。
「こんなおばさんじゃ、嫌?」俺は、その言葉に衝動的に立ち上がった。
「そんなことないです!」彼女の腕を引き、抱きしめる。
「……うれしい」ゆかりさんは、小さくそう呟いた。
そして、そのまま俺たちは甘くて濃厚な時間を過ごした。
朝の光が薄暗いカーテンの隙間から差し込んでいた。目を覚ますと、隣にはゆかりさんがいた。彼女はシーツを軽く握りしめたまま、静かに眠っている。昨夜の余韻がまだ残っていて、心臓がじんわりと熱を持っている気がした。
ゆっくりと起き上がり、彼女の髪をそっと撫でる。
「……ゆかりさん」囁くように名前を呼ぶと、彼女のまつげがふるりと揺れた。
「……ん……」眠そうに目を開けると、ふっと微笑む。
「おはよ……」その笑顔に、胸が締めつけられた。
「……本当に、泊まっちゃいましたね」
「うん。……凄すぎだったよ。よかった」そう言って、彼女は俺の手を握る。
何かを確かめるように、指を絡めながら。
それから、俺たちは一緒に過ごす時間が増えた。仕事終わりに店で落ち合い、何気ない話をしながら晩酌をする。
ときには俺の部屋、ときには彼女の家で夜を過ごす。
それが、当たり前になっていった。だが、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある日、会社から辞令が出た。
「……転勤?」俺は信じられなかった。またか。また俺は、どこかへ飛ばされるのか。
「地方勤務の人員整理って言われてもな……」会社の都合に振り回されるのは、もう慣れたつもりだった。でも——今回は違った。
俺には、ここに居たい理由があった。帰り道、何度もスマホを見た。ゆかりさんに、どう伝えればいいのか、言葉が見つからない。
家の前に着くと、彼女がいつものように出迎えてくれた。
「おかえり。どうしたん? なんか顔色悪いよ」その笑顔を見た瞬間、胸が苦しくなった。
「……転勤になった」たったそれだけを伝えるのが、精一杯だった。
「そっか……」しばらく沈黙が続いた後、ゆかりさんは小さく微笑んだ。
「……じゃあ、頑張らないとね」
「……」
「頑張る子やもん。……行くしかないよね」強がったように笑う彼女を見て、俺は何も言えなかった。
「大丈夫。……私はもう、大人だし」
「……俺は」
「え?」
「俺は、行きたくない」その言葉が喉まで出かかった。でも——言えなかった。
彼女の瞳が、すべてを察しているような気がして。
「……うん。……行ってらっしゃい」ゆかりさんは、いつものように笑った。それが、痛いほど優しかった。
引っ越しの日。俺は彼女に別れを告げ、電車に乗った。駅のホームから見えたのは、彼女が小さく手を振る姿だった。俺は、こみ上げる想いを押し殺し、ただ電車の窓越しにその姿を見つめ続けた。
新しい街での生活は、思ったよりもすぐに慣れた。仕事も忙しく、考え込む暇もない。
それでも——ふとした瞬間に思い出してしまう。
あの時間。
あの温もり。
もう二度と戻れないのだろうか。いや、俺は——本当に、これでよかったのか?
そんなある日。自宅近くの通りを歩いていると、ふと目を上げた瞬間——俺は、思わず息を飲んだ。
——そこに、彼女がいた。トラックの前で、腕を組みながらこちらを見ている。
そして、にっと笑った。
「来ちゃったよ」俺の心臓が、跳ねた。気づけば、俺は駆け寄っていた。
彼女を抱きしめる。もう二度と、離したくない。
「……結婚してくれ」その言葉が、自然と口をついて出た。
しばらく沈黙があった。それから、ゆかりさんは、静かに俺の背中に腕を回し、くすっと笑った。
「……面倒みてなぁ」その瞬間、俺の目から涙がこぼれ落ちた。外では、トラックのエンジン音が静かに響いていた。
その音が、俺たちの未来へ続く道を示しているような気がした——。
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