隆志が久しぶりに実家の玄関を開けると、そこにはかつての温もりが失われ、ひんやりとした空気が漂っていた。深く息を吸い、ゆっくり仏間へと足を踏み入れると、父・和夫の遺影が静かにこちらを見つめている。線香の香りが漂うその空間で、隆志は心の中で小さく詫びた。「もっと早く帰っていればよかった…」
数年ぶりの帰国を決心させたのは、父の訃報だった。海外で暮らしていた自分がこの家を長らく遠ざけていた間、父が再婚して築いた新しい家庭には、隆志には入り込めない別の時間が流れていた。父の後妻である真澄さんとはほとんど面識もなく、どう振る舞えばいいのかもわからないまま、ただ黙って仏前に手を合わせた。
その横で真澄も手を合わせていた。彼女の瞳は赤く腫れているが、涙をこらえるようにまぶたを伏せ、その表情は驚くほど静かで冷静だった。和夫が亡くなった悲しみを抱えながらも、隆志には見せられない何かがあるのかもしれない。彼女の抑えた悲しみと孤独がかえって痛々しく、隆志は視線を逸らさずにはいられなかった。
「…何か、僕にできることがあれば」と、隆志が声をかけると、真澄は少し驚いたように顔を上げ、遠慮がちな微笑を浮かべた。「ありがとうございます。でも、なんとか…」と小さく首を振る彼女。その遠慮がちな態度に、隆志は自分の無力さを感じながらも、ふと彼女の奥にある孤独に触れたような気がした。
ただ、隆志は帰国しても生活基盤がこちらには無かった。仕方なく「ずうずうしいのですが、しばらくお世話になってもいいですか?」と真澄にお願いすると、「もちろんです。隆志さんの実家なんですから。和夫さんも喜びます」と真澄は一緒に住むことを了承してくれた。
ただ、ほぼ初対面に近い二人はぎこちなく同じ屋根の下で生活を共にすることになった。しかし、会話は最低限にとどまり、どこかぎくしゃくした距離感が付きまとっていた。食卓で向かい合っても互いに視線を交わすことはほとんどなく、会話の隙間には何か重苦しい空気が漂っているようだった。
ある晩、リビングに戻った隆志は、台所で真澄が一人洗い物をしている姿に目を留めた。彼女の背中はどこか小さく見え、時折そっと涙を拭う仕草が胸を刺した。見なかったことにしようか、それとも何か声をかけるべきか…答えの出ないまま、隆志はその場に立ち尽くしてしまった。
意を決して、彼女に近づき、肩にそっと手を置いた。「…大丈夫ですよ、俺がいますから」。自分でも驚くほどの小さな声でそう伝えると、真澄は小さく息を吐き、肩がかすかに震えた。その震えに、彼女が抱える見えない悲しみの深さが伝わってくるようだった。隆志の胸の奥に、彼女を支えたいという温かい感情が静かに芽生え始めていた。
少しずつ二人の間に自然な会話が生まれ始めた。ある日、真澄がふと「和夫さんが好きだった料理、一緒に作りませんか」と声をかけてきた。「あの人が好きだった味なんです。でも…亡くなってから作る気になれなくて」と、彼女はどこか寂しげに呟いた。その言葉には、彼女が和夫の死をどう受け止めているかが滲んでいるようだった。
「じゃあ、俺も手伝います」と、隆志は頷き、二人で台所に立った。普段は口数が少ない真澄も、このときばかりは少しだけ和らいだ表情で、細かく指示を出してくる。包丁を握る手がふと重なったとき、二人は顔を見合わせて照れくさそうに笑った。目に見えない壁がほんの少しだけ崩れたように感じられ、隆志の胸がふっと温かくなった。
料理が完成し、食卓に並べられた懐かしい香りが二人の間に立ち込めた。真澄は料理を一口口にすると、微笑みながら懐かしそうに呟いた。「和夫さんは、これが好きで…いつも、少しだけ薄味にして欲しいって言っていたんです」。その声には、和夫への愛情と、亡き夫への想いが混じり合っていた。
隆志はそんな彼女を見つめながら、ふと自分の胸にある不思議な感情に気づいた。彼女が自分の中に入り込んでくることに戸惑いを覚えながらも、その感情がどこか心地よく、手放したくないとすら思っている自分がいた。
「真澄さんがそばにいてくれて、本当に助かっています」その言葉が自然と口をつくと、真澄は少し驚いたように彼を見つめ、わずかに頬を染めた。「私も…隆志さんがいてくれてるだけで、心強いです」と、彼女は消え入りそうな声で返した。
それからというもの、二人の間には少しずつ自然な会話が増えていった。お互いの生活のこと、父のこと、話題はさまざまだが、彼女と話す時間が隆志にとっていつの間にかかけがえのないものになっていた。彼女のふとした仕草や笑顔に、隆志は心を揺さぶられる自分を意識するようになっていた。
しかし、その想いが募るほどに、彼は一歩踏み出せない自分がいることにも気づいていた。父の後妻である真澄に対するこの気持ちは、果たして許されるものなのか…そんな思いが、彼の胸の奥に潜んでいる。
ある晩、真澄がぽつりと語った。「隆志さん、こうして話していると…和夫さんもどこかで笑ってくれている気がするんです」。その言葉に、隆志はふと視線を逸らし、窓の外に目をやった。秋の夜風がひんやりと頬を撫でる。
「そうですね…」とだけ返し、言葉が途切れた。心の奥に、真澄への気持ちがどんどん膨らんでいくのを感じていたが、伝えるべきか、伝えてはいけないのか、答えはまだ出ない。真澄もまた、どこか言葉を飲み込んでいるように見えた。
その夜、二人は並んで庭に立ち、どこか遠くを見つめていた。月明かりが静かに照らし出す庭の景色の中で、二人の影が重なり、やがてふと離れていく。隆志は一度、隣に立つ彼女の顔を見つめたが、言葉を飲み込むように視線をそらした。
冷たい風が吹き、真澄は小さく身震いをした。彼女を守りたい気持ちが胸をよぎったが、それ以上何も言えなかった。ただ、彼女の隣に立つことが今の自分にできる精一杯のことのように思えた。
二人の間に、まだ形にならない想いが揺れている。未来がどうなるのか、答えはまだ見えないまま、夜が静かに更けていった。