
私の名前は太田美佐江、58歳です。
夫が定年を迎え、家にいる時間が長くなりました。私は今も夕方から小料理屋でパートをしています。夫は昔気質な人で、家事は一切しません。私が仕事に行く前に食事を用意し、帰る頃にはすでに酒を飲んで寝てしまっています。毎日同じ繰り返しで、会話らしい会話もほとんどありません。
夫は悪い人ではありません。でも、ただの同居人のように感じることが増えました。特別何か不満があるわけではないはずなのに、なぜか心が満たされないのです。
そんな日々を送っていたある日、私はパート先で思いがけない人と再会しました。
「……みさちゃん? みさちゃんだろ?」懐かしい名前を呼ぶ声に振り向くと、そこには見覚えのある顔がありました。一瞬、時が止まったように感じました。
「……隆史さん?」記憶の中にあった彼の顔は、もっと若く荒々しかったはずなのに、目の前にいる男はすっかり雰囲気が変わっていました。白髪が混じる髪、落ち着いたスーツの着こなし、渋みのある声。昔のやんちゃな隆史ではなく、年齢を重ねた大人の男になっていました。私は戸惑いました。
隆史さんは、私が夫と付き合う前に関係を持っていた人です。正直、決して良い人ではありませんでした。無責任で、自分のことしか考えないような男でした。でも、それでも離れられなかった。理由は、ただひとつ。彼はとてつもなく夜が強い人だったのです。私はどうしようもなく彼に溺れていたのでした。
彼のテクニックは異常なほどに巧みで、私は何度も彼に抗えなくなり、自分を見失いそうになっていました。最後は結局、彼に捨てられました。それでようやく彼と別れることができたのです。
あれから35年。
彼と再会したことで、封じ込めていた過去の記憶が、一気に蘇りました。
「久しぶりだな、元気だったか?」彼は笑っていました。昔と変わらない、あの余裕のある笑みで。
私は仕事中でしたし、無駄に会話を交わしたくありませんでした。ただの偶然、昔の男が店に来ただけ。そう割り切ろうとしました。
しかし、店主が気を遣って「今日は早めに上がっていいよ」と言いだしました。
「せっかくだし、話しておいで」私は心の中で、これはまずいと思いました。でも、ここで「いや、結構です」と言うのも不自然でした。私は仕方なく、隆史さんと店を出て、近くの居酒屋に入りました。
「みさちゃん、全然変わってないね。びっくりしたよ」隆史さんは、座るなり私を見て笑いました。
昔と変わらず、甘い言葉を口にするのがうまい人でした。わざとらしいと分かっていても、どこかくすぐったい気持ちになってしまいます。
「もう58よ、変わってないわけないでしょ」
「いや、ほんとに。相変わらず綺麗だよ」何度も聞いたその言葉。軽い冗談のはずなのに、どうしてか胸の奥がざわつくのを感じました。いけない、この人は危険だ。そう思い、私は早々に席を立ちました。
「もう帰るわ」
「おいおい、まだ何も話してないだろ」
「話すことなんて、ないわ」
「そんな冷たくするなよ」彼の声が、少しだけ寂しそうに聞こえました。でも、私は絶対に深入りしてはいけないと分かっていました。
これ以上関わると、私はまた昔と同じように彼に溺れてしまう。
その日は無理やり帰りました。しかし、次の日から、彼は頻繁に店に来るようになりました。
「今度はゆっくり飲みに行こうよ」何度も誘われました。そのたびに断りました。一度許してしまったら、もう戻れなくなる。それが分かっていたから、どれだけしつこく誘われても、仕事以外で会うことはありませんでした。
私は強いはずでした。もう彼に流されることはないと思っていました。でも、それは突然、崩れることになりました。
ある夜、仕事を終えて店を出たところで、外国人観光客に絡まれました。繁華街のため、こういうことがたまにあるのです。困っていると、後ろから低い声がしました。
「おい、やめとけよ」振り向くと、そこに隆史さんがいました。
彼はスッと私の前に立ち、毅然とした態度で外国人たちを追い払いました。
「大丈夫か?」
「……うん」緊張が解け、私はほっと息をつきました。
「怖かっただろ? ちょっと一杯、いくか」彼は自然な流れでそう言いました。私は断ろうとしました。でも、今夜だけならいいかという気持ちが、ほんの少し芽生えてしまいました。私は、ついて行ってしまいました。
最初は、ただお酒を飲んで話をするだけのつもりでした。でも、彼の視線が、仕草が、言葉が、すべてが、私の理性を少しずつ奪っていきました。ふと気づいた時には、ホテルの部屋にいました。そして、私は彼に抗えませんでした。
一度、唇を重ねた瞬間、すべての理性が崩れ落ちました。
彼の指が触れるたびに、昔の感覚が蘇っていきました。熱が、奥から湧き上がってくるようでした。私は何も考えられなくなり、ただ彼の腕の中で、長い時間を忘れてしまいました。
目を覚ますと、見慣れない天井が目に入りました。柔らかいシーツの感触、微かに香るアフターシェーブの匂い。すぐに、ここがどこなのかを理解しました。隣には、隆史さんがいました。
彼はまだ眠っていましたが、その寝顔は穏やかで、どこか満ち足りた表情をしていました。私は、ゆっくりと体を起こしました。シーツを胸元まで引き寄せると、昨夜の記憶が鮮明に蘇りました。そう私は、一線を越えてしまったのです。本能のまま乱れに乱れてしまったのです。
一度だけなら、偶然の過ちだったと片付けられたかもしれません。しかし、自分の中で分かっていました。この人と一度でも関係を持ってしまえば、もう戻れなくなると。それが怖くて、今まで何度も断ってきたのに、結局、私は彼に抗えませんでした。
彼のキスはすべてを忘れさせるようでした。指先が触れるたびに、過去の記憶が呼び起こされ、頭がぼんやりとしていきました。私はただ流されるまま、何も考えられなくなっていました。この歳で、私は何をしているのでしょうか。自嘲するように、そっと髪をかき上げました。情けなさと恥ずかしさが胸の奥に広がりました。それなのに、彼の腕の中で感じた熱を、まだ忘れられずにいました。
「おはよう」低く落ち着いた声が、背後から聞こえました。
いつの間にか目を覚ましていた隆史さんが、微笑みながら私を見つめていました。私は、とっさにシーツを握りしめました。
「……もう、起きたのね」
「ずっと見ていたよ」彼は、まるで昨日の続きを楽しむような口調で言いました。
「相変わらず可愛かったよ」その言葉に、私は胸の奥がざわつきました。
「……やめてよ」私は目を逸らしながら呟きました。
隆史さんは、まるで私の戸惑いなど気にも留めていないようでした。
彼は私の手を取り、優しく指を絡めました。その仕草が、昔と何も変わらなくて、思わず体が固まりました。
「すごいね。その年で、こんなに体をキープしているなんて」軽い冗談のように言われましたが、その言葉に、私はどうしようもなく動揺しました。
私は58歳です。この年齢になって、そんな言葉をかけられることはありませんでした。恥ずかしさと、満更でもない気持ちが入り混じり、自分の心の揺れに戸惑いました。
「……もう帰らないと」私は、何とか言葉を紡ぎ、シーツを引き寄せながらベッドから抜け出そうとしました。しかし、彼の腕が私を引き止めました。
「また会える?」その問いかけに、私はすぐに答えることができませんでした。ただ、腕をほどき、無言のまま服を拾いました。
「そんなに慌てなくてもいいのに」隆史さんは、余裕のある笑みを浮かべながら私を見つめていました。
私は、振り返ることなく、服を身につけました。これ以上、この人に深入りしてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、ホテルの部屋を後にしました。
それから、私は何度も隆史さんと会うようになりました。一度きりの過ちだったはずなのに、気がつけば、彼との関係を断つことができなくなっていました。彼が凄すぎて、私は正常な思考ができなくなっていました。
彼の手が触れるだけで、すべての理性が霞んでしまうのです。
罪悪感もありました。それなのに、彼と過ごす時間が、私の心を満たしていくのを感じてしまいました。
夫の隣で眠る夜と、隆史さんの腕の中で過ごす時間。
どちらが本当の私なのか、もう分からなくなっていました。
そんなある日、彼が言いました。
「次は、いつ会える?」私は何も言わずにスマートフォンを取り出しました。
分かっています。このままではいけないと。それでも、私は彼の連絡先を開いていました。
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