
俺の名前は田中徹。三十八歳。代々続く庭師の家に生まれ、今は親父から仕事を引き継いで、小さな造園会社を回している。
子供の頃から、親父についていっては色んなお宅の庭を見てきたけれど、中でも特別だったのが、九条家の庭だった。
広くて、どこか優雅で、花が風に揺れるたびに香りがふわっと鼻先をかすめてくるような、そんな庭だった。整いすぎず、かといって無秩序でもない、まるで“計算された自然”ってやつがそこにはあった。
でも、俺にとってその庭が特別だったのは、単に美しいからじゃなかった。そこに、紗耶香さんがいたからだ。
ひとつ年上。休み期間になれば親父の仕事にくっついていった小学生の頃、俺は、まだツンとすました顔をしていたあのお嬢さんに、なぜだか惹かれていた。もちろん、その頃は「好きだ」とか「憧れ」とかそんなものじゃない。なんだか住む世界の違う、別世界に迷い込むような感覚だった。親父が「今日は九条さんのところだぞ」と言えば、それだけで少し浮かれていた。
紗耶香さんは、いつもワンピースを着ていて、バルコニーで本を読んだりしていた。俺みたいなクソガキにも分け隔てなく接してくれて、「お花が好きなの?」「この木の名前知ってる?」なんて笑いながら話しかけてくれた。俺は口下手だったけど、その時間が、たまらなく好きだった。
でも、そんな日々も長くは続かなかった。彼女は中高とは海外に留学しており、そして帰国後は、若くして結婚した。親が決めた相手だと噂で聞いた。地元では名の知れた家だ。親父は「あの子はそれでよかったのかな?」とどこか寂しそうに言っていた。俺は、それを聞きながら妙に胸の奥がズシリと重くなっていた。
それからというもの、彼女はこの屋敷を出ていき、俺がいくら庭の手入れで訪れても、その姿を見ることはなかった。
あれから、二十年近くが経つ。親父が腰を痛めて現場を退いたのをきっかけに、俺がこの現場を任されるようになった。昔ほど定期的な手入れではないけれど、月に二回、この九条家の庭を任されている。
俺はいつも通り、門から道具を持ち込み、馴染みのある庭の奥へと足を運ぶ。
変わらない緑の匂い。陽を浴びて咲き誇るバラ。石畳の端には苔がふんわりと根を張っていて、それを優しく削り取る感触が手に馴染む。
そんな、ある日のことだった。ふとした瞬間、背後から視線を感じた。剪定バサミを握る手を止めて振り返ると、二階のベランダに、ひとりの女性の影が立っていた。
一瞬、時間が止まった気がした。艶のある長い髪が、柔らかな風に揺れている。薄手のカーディガンの下には、控えめな色のワンピース。遠目でも分かるほど、姿勢のいい立ち姿と、少し寂しげな微笑み。あの頃の面影を残しながらも、どこか大人びた表情をしていた。
俺はすぐに、それが紗耶香さんだと分かった。信じられなかった。もうこの家には戻ってこないものだと、勝手に思っていたから。
見惚れていたのがバレたのか、彼女はふっと目を細めて、ゆっくりと手を振ってきた。俺は慌てて帽子を取って頭を下げた。子供の頃と同じように、言葉なんて出てこなかった。ただ、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
その日、庭の手入れをしている間中、俺は心ここにあらずだった。作業は手についているのに、意識はどこか、彼女の視線の残り香みたいなものを追いかけていた。仕事を終えて、工具を片付けていると、執事の田中さんがぽつりと教えてくれた。
「お嬢さんは、離婚されて戻ってこられたんですよ。まあ、色々とあったようでして…」多くは語らなかったが、「色々」という言葉には、重たい意味が滲んでいた。後から耳にした話では、旦那は手を挙げるような人間だったらしい。誰にも相談できず、長い間、ひとりで我慢していたんだとか。
俺は、あの笑顔の奥にそんな痛みがあったなんて、想像すらできなかった。けれど、だからこそ、あのベランダでの穏やかな手の振り方が、妙に胸に沁みたのかもしれない。
また会えるだろうか。そう思いながら、俺は九条家の門を後にした。
次に九条家を訪れたのは、その再会からちょうど二週間後のことだった。
季節は、ゆっくりと初夏へ向かっていた。太陽の角度がほんのわずかに変わって、木々の影が昼過ぎには少しだけ長くなってくるのが分かる。そんな小さな変化に気づけるのが、この仕事のいいところだと、俺はいつも思っている。
いつも通り道具を並べ、背の高いクスノキの枝を整えていたときのことだ。
ふと気配を感じて顔を上げると、二階のベランダに、またあの姿があった。
白いブラウスに、薄い水色のスカート。日に透ける布地が、柔らかく揺れていた。
紗耶香さんだった。その日は、手を振るでもなく、ただ柵に手をかけて、じっとこちらを見ていた。
俺が気づいたのを確認すると、彼女はゆっくりと微笑んだ。それは、どこか試すような、いたずらっぽい笑みだった。
「お久しぶりですね」作業中、ふと聞こえた声に驚いて振り向くと、今度は彼女が庭まで降りてきていた。
日傘をさして、控えめなヒールの音を立てながら、砂利の小道をゆっくり歩いてくる。
「…お久しぶりです、と言った方がいいんでしょうか」彼女は少し笑いながら、俺の方へ近づいてきた。
俺は何と返せばいいのか分からず、帽子のツバを下げるようにして軽く会釈した。
「お久しぶりです」
「そうね。…でも、もう30年くらい前になるのね。お互いおじさんおばさんになっちゃったね」
紗耶香さんの言葉に、喉が乾いたような感覚になった。何年も会っていなかったのに、彼女はまるで、時間なんて存在しなかったかのように、自然に言葉をかけてくる。あの頃と変わらない声。けれど、柔らかさの奥に、知らない艶が潜んでいた。
俺は、少しだけ距離を保ちながら、いつもより丁寧に枝を整え続けた。手元を見ながらも、意識の大半は彼女に向いている。
「…あの、大丈夫ですか?」
「え?ええ。もう済んだ話ですから」淡々とした口調だった。でも、声の揺れはわずかにあった。
「大変でしたね」その言葉が、どうしようもなく薄っぺらく聞こえて、自分に腹が立った。
「今はもう大丈夫よ。父も亡くなって、家も広すぎるくらいだけど…やっぱり、ここは落ち着くのよね」紗耶香さんは、そう言って小さく笑った。
「この庭、好きなの。いつもきれいにしてくれてありがとうございます。」彼女が言葉にした瞬間、俺の鼻の奥にもその匂いが広がったような気がした。
「覚えてる? 昔、ここで捕まえたトカゲを私に見せに来て、トカゲのしっぽがちぎれたでしょう?」
「…ありましたね」
「あれのおかげで今もトラウマよ?」
「すいません」二人して、ふっと笑った。たったそれだけの会話なのに、まるでどこかにタイムスリップしたかのような不思議な感覚があった。
その日以来、紗耶香さんは手入れの日は必ず庭に顔を出すようになった。
決まって日差しの和らぐ午後遅く、白い日傘を片手に、静かに歩いてくる。
そして、どこか決まり文句のように、俺に「こんにちは」と声をかける。
言葉を交わすのは数分だけ。でも、それが日常の中で、特別な時間になっていった。
俺は仕事をしているはずなのに、彼女が視界に入ると、どうしても意識が逸れる。
シャツの胸元から覗く鎖骨、風に揺れるスカートの裾、微かに感じる石鹸の匂い。そういったすべてが、俺の理性を少しずつ溶かしていくのを感じていた。
そして、ある日――俺は、いつもより早く現場に着き、裏手の花壇に回っていた。
そこは屋敷の奥にあって、ふだんは誰も通らない静かな場所だ。
ふと目を向けた先、二階の窓が少しだけ開いていた。薄いレースのカーテンが風に揺れて、隙間から見えたのは、濡れた髪を拭く彼女の姿。白い肌、肩のライン、タオルを胸元に巻いて…鏡越しに髪を梳いている。瞬間、俺の喉が音を立てた。
…見ちゃいけない。そう思っても、目が離せなかった。何かが引っかかったまま、俺はしばらくその場から動けなかった。
結局、彼女が気づいたのかどうかは分からない。ただ、あの姿が俺の脳裏に焼き付いて、ずっと消えなかった。
その日の帰り際、
「…ねぇ、見てたんでしょ?」そう言って笑った紗耶香さんの目は、どこか試すような光を湛えていた。
俺は何も言えなかった。ただ、顔が熱くなるのを感じた。
「ふふっ。…嘘はつかないのね。そういうところ、昔から変わらないのね」そう言って彼女は、日傘の影からちらりと俺を見上げて、微笑んだ。その笑みが、妙に艶っぽくて。俺は、その日以降、彼女の雰囲気がいつも目に浮かびなかなか寝つけなかった。
次に彼女と目が合ったとき、俺の中の“何か”は、もう元には戻らない気がしていた。
その日も、九条家の庭に夏の陽射しが降り注いでいた。地面に照り返す熱気はじっとりと肌にまとわりつき、額に滲んだ汗が首筋を伝ってつつっと落ちる。花の香りも、湿った空気に押されて少し重く感じるようになっていた。
そんな中、彼女はふいに現れた。
いつものように日傘を差すわけでもなく、ふらりと庭の小道に現れた紗耶香さんは、薄手のロングシャツの前をボタン一つだけ留めて、ゆったりと歩いていた。
「徹くんは…暑くないの?」唐突な声に振り向いた俺は、思わず言葉を失った。
額にうっすら汗を浮かべた彼女は、まるで別人のように、少しだけ息を切らしながら立っていた。
「こっち、来てくれる?」彼女の言葉に導かれるように、俺は剪定バサミを地面に置き、軍手を外した。
長靴のまま、砂利を噛む音を気にしながら後を追うと、彼女が向かったのは庭の一番奥。木々が重なり合って陽の光を遮り、草の匂いが濃く漂う場所だった。
東屋。
いつもは誰も使わない、古い藤棚の下にある、木製の小さな物置小屋。
「ここ、覚えてる?」
「ええ…昔、よくここでかくれんぼしたりしましたね」空気が少し、変わった気がした。
彼女は、東屋の木の長椅子に腰を下ろし、すっと足を組んだ。
スカートの裾が静かに落ちて、膝がちらりと覗いた。その動き一つひとつが、まるで誰かに見せるための演技のようで…いや、俺にだけ見せているのだと、そう思った。
「再婚しなさいって言われたの…」彼女がぽつりとこぼす言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
「叔父様たちに『いい歳なんだから再婚しなさい』って…」
「……そうですか」
「でもね、私…もう誰かに縛られたくないの」俺はその言葉の意味を、黙って受け止めるしかなかった。
彼女の指先が、そっと自分の手の甲に触れた。その手は、わずかに震えていた。
「何も言ってくれないの?」その言葉は、小さな声だったのに、雷のように頭の中に響いた。
「…俺なんかで、いいんですか」
「“なんか”じゃない。私は、あなたが良いの」もう、逃げられなかった。
手を伸ばすと、彼女の肩がほんのわずか震えた。肌越しに伝わる熱が、すぐに心の奥まで流れ込んでくる。
ゆっくりと彼女を引き寄せると、彼女は何も言わずに、ただ目を閉じた。
胸の中に納まる彼女の体は、とても軽くて、でもどこか張り詰めたものがあるように感じられた。ぎゅっと抱きしめると、彼女の吐息が、俺の首筋にそっとかかった。
「覚えてないかもしれないけど、小学生の時もこうしたことあるんだよ?もう離さないでね?」
その言葉に、俺はどうしようもない感情が込み上げてきた。
もちろん覚えていた。でもあれは夢だったんだとずっと思いこんでいた。
俺たちは何も言わず、そっと唇を重ねた。初めてだったはずなのに、まるで何度も夢で繰り返したような感触だった。
熱を帯びた息づかい。肌と肌が触れ合うたびに、言葉にならない想いが、互いの中に流れ込んでくる。
そして、俺たちは東屋の中、そっと身体を重ねた。誰にも見つからないように。誰にも知られないように。
でも、それでも確かに存在する“ふたりだけの時間”を、ぎゅっと抱きしめた。
背徳感と幸福感が混ざり合う中で、俺は確かに感じた。
この人を、もう手放さない。彼女の小さな声が、首元で震えた。
「ずっと…そばにいて、ほしいの」その願いが、どれだけの孤独と痛みをくぐり抜けてきたものか、俺にはもう、分かっているつもりだった。だからこそ、彼女の手を握る指先に、俺はすべての想いを込めて、強く、けれど優しく応えた。
それが、俺たちの“はじまり”だった。
夏の終わりが近づいていた。あれから、紗耶香さんとの関係は、誰にも知られないように静かに続いていた。
月に二度の庭の手入れ。そのたびに交わす言葉。指先に触れる熱。唇の感触。東屋の木の柱に残った彼女の爪の痕。どれもが、俺たちの密やかな証になっていた。
それでも、変わらない日常の中で、俺の心は少しずつ焦り始めていた。どこかで、この時間がいつか終わってしまうような、そんな気がしていた。その予感は、突然現実になった。
「……今日、少し良い?」庭に現れた紗耶香さんは、いつになく沈んだ表情をしていた。
木陰のベンチに腰掛けると、ふぅと小さなため息をつき、まっすぐ俺を見た。
「親戚がね、また“再婚しろ”ってうるさくて。『いい年して実家にいるなんてみっともない』『元お嬢さんだったんだから、それなりの男と落ち着きなさい』って」俺は、思わず拳を握っていた。
「この家も、父が亡くなってからは実質、親戚連中が口を出してくるようになって…私がどんな想いなのか誰も気にしてないの」
彼女の声は、感情を抑えているのが分かるほど、落ち着いていた。だけど、目だけが、どこか怯えているようにも見えた。
「どうするんですか」俺は、平静を装いながら訊ねた。
「分からない…」俺は、何も言えなかった。
今の俺には、彼女を守るだけの肩書きも、財力も、世間体に打ち勝つだけの武器もない。
ただ、庭を手入れして、泥にまみれて、汗をかいて、彼女に会える日を数えているだけの男だ。
「……俺なんかじゃ、ダメなんですよね」その言葉を口にしたとき、彼女がふっと表情を曇らせた。
「また、それ言うのね」
「だって現実です。俺にあなたを守れるだけの――」
「違うわよ」彼女の声が重なった。
「私、守ってもらおうなんて思ってない。ただ、この時間が、ずっと続けばいいの」その言葉に、胸が詰まった。
「でも、それじゃダメなのかな…」俯いた彼女が、小さく笑った。
俺はもう、自分の気持ちをごまかすのをやめた。
「……紗耶香さん、やっぱり俺、あなたを誰にも渡したくないです」言った瞬間、彼女の肩がわずかに揺れた。
「やっと言ってくれたのね」
「俺は子供の頃から、あなたに会えると思って付いて来てたんです。バカみたいな話ですけど…」彼女は、俺の手をそっと握った。
「あの日、ベランダからあなたを見つけたとき、ほんの少し期待したの。あの頃みたいに無邪気に話せるかなって」風が吹いた。庭の草木が、さわさわと静かに揺れた。
そのときだった。ふいに彼女が、俺の肩に顔を埋めた。
「…もう、逃げたくないの。今度こそ、自分の意志で、誰かを選びたい」その言葉に、俺は胸の奥が熱くなった。
俺は彼女の背中に腕を回して、ただ強く、強く抱きしめた。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
「え…?」
「親族の目なんか関係ない。俺と暮らしましょう?」紗耶香さんの目に、涙が浮かんでいた。
「いいの…?」
「ありがとう、…嬉しい」
それから数ヶ月が経ち、俺たちは人知れず小さなマンションでの暮らしを始めた。
九条の名前を離れ、ただの“紗耶香さん”として、俺の隣で笑ってくれる。
朝、隣で目覚めるその顔を見るたび、俺は何度でも思う。
この人と出会えて、よかった。
誰にも知られず、誰にも見られず始まった恋は、いつしか、誰よりも強くて、温かくて、
本物になっていた。
もう覗くだけじゃない。もう、手を伸ばしていいのだ。彼女は、俺のそばにいる。
俺たちの物語は、ここから始まる。
ただ、静かに。確かに。