妻との関係が悪くなって、もうどれくらい経つでしょうか。私の名前は新田真一、63歳です。結婚してから何十年も共に歩んできた妻の恵子とは、最近どこかぎこちない、すれ違ったままの生活を続けてきました。子どもたちが家を出た後も、ほとんど会話もなく、寝室も別にし、お互いの生活に踏み込まないようにするのが暗黙のルールになっていました。
関係が悪くなったきっかけは、あの頃の私の生活でした。仕事のストレスもあって、私は会社の同僚たちと飲みに行くことが増え、帰りが遅くなる日が続いたのです。最初はただの気晴らしのつもりでした。仕事の付き合いだから仕方ないと思っていましたし、家に帰れば無言で妻と顔を合わせるばかりで、正直、気まずい空気が重く感じることもありました。それが週に何度も続き、夜遅くから朝帰りになることが増えた頃、ある日とうとう妻が不満をぶつけてきたのです。
「いい加減にして、家のことも考えて!」と、普段は穏やかな妻が強い口調で言いました。私は驚きつつも、「俺が仕事して稼いでるんだから、好きにさせてくれ」と言い返してしまいました。そこから話が大きくなり、口論に発展し、それが私たち夫婦の間に決定的な溝を作りました。それ以来、必要最低限の事務的な会話以外、言葉を交わすことがなくなったのです。寂しいと感じつつも、どうすればいいかわからず、そのまま月日が過ぎていきました。
子どもたちがまだ家にいる間は、家庭を維持しようと何とか努力してきましたが、彼らが巣立った今、「家族のために」という言い訳も通用しなくなりました。妻も私との関係を諦めかけているように見えましたし、実際、私も自分たちの関係に区切りをつけるべきなのかと考えたことが何度もありました
そんな時、ふと「このままで本当にいいのか?」という思いが浮かんだのです。きっかけは、去年のことでした。同僚の一人が突然倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。彼はまだ50代で、家庭もあって、これからも仕事を続けていくはずだった彼が、あっという間にこの世を去ってしまった。その出来事は、私の心に深く突き刺さりました。もし自分が同じように急にいなくなったとしたら、何もかもが中途半端なままで終わってしまう。そう考えると、今までの自分が妻の恵子にどれだけ冷たかったか、否応なしに思い知らされました。
その同僚とは昔からの仲で、仕事帰りに一緒に飲みに行ったり、たわいもない話をしたりしてきました。彼も家庭との折り合いが悪かったようで、「うちもさ、今じゃただの同居人みたいなもんだよ」なんて笑って話していました。でも、その彼がある日、突然いなくなってしまったのです。何もかもが「そのまま」になったままで、二度と家族と向き合うことができなくなった。それを思うと、私も「このままでいいのか?」と強く考えさせられました。
そして、少しずつでも変わってみようと思いました。妻に対して、今までできなかった「気遣い」を示してみようと、そう決意したのです。
ある日の夕方、キッチンで夕食の準備をしている妻に、思い切って声をかけてみました。「今日の夜、外でご飯でも食べに行かないか?」と。
最初は、冗談だと思われたのか、妻は驚いた顔をしていました。「どうしたの?急にそんなこと言って」と、不思議そうに聞いてきましたが、私は「たまには外でゆっくり話がしたい」と伝えました。妻は少し戸惑いながらも「そうね」とうなずいてくれました。
その夜、久しぶりに二人で外食をしました。私は、できるだけ穏やかな笑顔で妻に接しようと心がけました。「最近、よく眠れてるか?」とか、「何かやってみたいことがあれば教えてくれよ」と、どれもぎこちない質問だったかもしれませんが、本心からの言葉でした。妻も少しぎこちない様子ながら、笑顔を浮かべながら応えてくれました。昔の優しかった頃の自分に戻ったような、そんな気持ちで彼女と向き合いました。
そして、帰り道。妻が少し先を歩いていた時、私は思い切って彼女の手をそっと握りました。「恵子、最近いろいろ考えることがあってさ、もっとお前のこと大事にしたいと思ってる」と伝えると、妻は驚いた顔をしながらも、「ありがとう」とだけ言ってくれました。その一言に、胸の奥に温かいものがじんわりと広がりました。
その日を境に、私は日常の中で少しずつ、彼女への気遣いを増やすようにしました。朝、彼女のためにコーヒーを淹れたり、スーパーで彼女の好きなお菓子を見つけて買ってきたりと、小さなことですが、これまでの私にはなかった行動でした。そんな小さな変化にも、妻は少しずつ笑顔を見せてくれるようになり、彼女の表情が柔らかくなっていくのを感じました。
それだけでなく、久しぶりに夫婦としての親密な時間も少しずつ戻ってきました。長い間、途絶えていた夜の生活も自然と再開し、私自身、驚きと戸惑いが入り交じっていましたが、妻がどこか優しく接してくれるのが嬉しく、安心感を覚えました。まるで、もう一度やり直すチャンスをもらったかのような気持ちで、彼女と向き合うことができるようになりました。
これまで冷え切っていた関係が、少しずつ温かみを取り戻していくのを感じていました。離婚の話が頭をよぎっていた私たちですが、今はその必要もなく、ただ一緒にいる時間が心地よく、また楽しいものに変わってきています。
ある日、子どもたちが久しぶりに帰省してきました。家族で食卓を囲むのはやはり嬉しいものです。その日は特に和やかな雰囲気で、昔話にも花が咲きました。ふと孫の綾が「お爺ちゃんとお祖母ちゃん、最近すごく仲が良いね」と言い出したのです。その言葉に一瞬ドキリとしましたが、私は「まあ、そうだな」と微笑んで答えました。孫たちは「どうしたの?」と不思議そうにしていましたが、妻と私は顔を見合わせて、「まあいろいろあったんだよ」と笑ってごまかしました。
子どもたちが帰った後、ふと彼女が「どうして最近急に優しくなったの?」と私に尋ねてきました。その質問に、少し驚きながらも、私は正直に話すことにしました。
「お前には、ずっと我慢させてきたんだと思う。昔の俺は、仕事のことで頭がいっぱいで、お前に優しくする余裕がなかった。帰ってきても、何も話さなかったし…」と。妻は黙って聞いていましたが、少し胸が痛そうな顔をしていました。
「実は、去年のことなんだが、俺の仲の良かった同僚が突然倒れて、そのまま亡くなったんだ。まだ若いのに、あっという間だったよ。このままでいいのかって…もし俺が急にいなくなったら、お前に何もしてやれないままだった。だから、今からでも少しずつでも、お前にちゃんと向き合おうって決めたんだ」と話すと、彼女は涙ぐんでいました。
「ごめんな、恵子。今さらこんなこと言っても遅いかもしれないけど…お前には本当に感謝してる。だから、これからはお前をもっと大事にしたいと思ってるんだ」と伝えると、妻は私の手を握り返し、「ありがとう。私も、これからはちゃんとあなたと向き合うようにするね」と優しく答えてくれました。冷たかった彼女の手が、今はこんなにも温かく感じるなんて、以前の私には想像もできなかったことです。
そしてその夜、彼女が引き出しから離婚届を取り出し、それを私の目の前で破いて捨てました。私は驚きながらも、それが彼女の心からの決意であることを理解し、胸の奥が熱くなりました。
これから先、どんなことがあっても、今度こそお互いを支え合いながら生きていきたい。そんな思いが、私の中に強く根付きました。
再び手を取り合った私たちは、これからも一緒に歩んでいきます。長い時間をかけて築き直したこの関係を、二人で大切に守っていこうと決心しています。