私は塩田祐一、65歳です。妻と結婚してもうすぐ35年になります。他人から見れば、順調な人生に見えていたかもしれません。大手銀行に勤めることができ、家族を養い、周りの期待に応え続けていたとは思います。しかし、心の奥底に埋もれた私だけがかかえる秘密は、常に私を縛り続けていました。この秘密を誰にも話せないまま、ここまで来てしまいました。
私は本当は心の中は「女性」として生きています。それは、生まれつきからの感覚でした。幼い頃から、自分が他の男の子とどこか違うと常に感じていました。けれど、その違いを口にすることは許されないと知っていました。
子供の頃、私が一番好きだったのは、母が使っていた香水の瓶を手に取り、その優雅なデザインを眺めることでした。母の裁縫を手伝いながら、布の感触を楽しむのも好きでした。兄たちが野球に夢中になっているとき、妹と妹の友達とおままごとや、人形遊びをするのが一番の楽しみでした。けれど、それを言葉にすることはできませんでした。父の厳しい視線が怖かったのです。
成長するにつれ、私は自分の違和感を押し殺し、父の言いつけ通り「男らしく」振る舞うように努めていました。大学に進学し、社会人になると、より一層「男」としての役割を演じる必要がありました。それがどれほど息苦しかったかを誰にも話すことができませんでした。
結婚は、逃げ道のようなものでした。両親から「そろそろ身を固めるべきだ」と言われ、私は社会の期待に応えるように妻と結婚しました。彼女は私より5歳年上で、穏やかな人でした。妻を選んだ理由は、彼女の優しさに安心感を覚えたからです。そして何より、「この人なら私の秘密に気づいても許してくれそう」と思ったのがきっかけでした。まあ、それでもいまだに言えないままではありますが…
結婚生活は、早く子供を作ることを目的としたものでした。もちろん結婚当初は性生活もありましたが、それは義務のようなものでした。妻の生理周期を聞き出し早く子供が生まれるように努力もしました。ただ、子供が生まれると、その必要すらなくなりました。私はほっとする一方で、妻に対する罪悪感は心の奥にずっとわだかまりとして残り続けています。
そんな生活の中で、一度だけ私は自分の衝動を抑えきれなくなったことがあります。ある日、妻が買い物に出かけている間、私は彼女の鏡台に置かれていた真珠のネックレスに手を伸ばしました。
そっとそれを首にかけ、鏡の前に立ちました。ネックレスの冷たさと、鏡に映る自分の姿。その一瞬、私は自分自身に近づけたような気がしました。
けれど、その瞬間は長く続きませんでした。思いのほか早く帰宅した妻が、リビングの扉を開ける音が聞こえたのです。慌ててネックレスを外そうとしましたが、指が震えて外せないまま、妻が寝室に入ってきました。
「祐一さん…何してるの?」
妻の目は驚きとも戸惑いとも取れる表情でした。私は顔が真っ赤になり、何か言い訳をしようとしましたが、声が出ません。妻はしばらく私を見つめていましたが、やがてふっと小さく笑いました。
「似合ってるわよ。でも、それ壊さないでね。結構高かったんだから。」
その軽い調子の言葉に、私はさらに何も言えなくなりました。彼女の本当の気持ちは分かりませんでしたが、それ以上触れられることはありませんでした。
あの日から私は、秘密を守ることの難しさを痛感しました。同時に、妻がどれほど優しい人なのかを改めて思い知ったのです。けれど、彼女が何かを感じ取っているのではないかという不安は、それ以降も私の胸を離れることはありませんでした。
子供が独立し、夫婦二人だけの生活になった今、私たち夫婦の間には深い沈黙が流れています。会話はほとんどなく、家事を分担しながら、同居人のように暮らしています。そんな日々の中、妻がぽつりとこう言いました。
「ねえ、あなたはいつも何かを隠しているみたいね。私、たまにあなたがどこか遠くにいる気がするの。」
その言葉は私の胸に突き刺さりました。妻は気づいているのだろうか? それとも、ただの勘なのだろうか? 私は「そんなことないよ」と必死に笑ってごまかしましたが、喉の奥が乾いて仕方ありませんでした。
最近のある日、夕食の後で、妻と何気ないやり取りをしました。食卓を片付け終えた妻が、珍しくソファに腰を下ろしながら言いました。
「あなた、これ見て。そうちゃんの写真。」
スマートフォンを覗き込むと、孫が幼稚園の運動会でかけっこをしている写真が映っていました。その笑顔は、まるで時間が巻き戻ったかのように、私たちの子供たちが幼かった頃の姿を思い出させました。
「元気そうだな。」私は短く答えました。
「そうね。でも、あなた、全然嬉しそうじゃないのよね。」妻は小さくため息をつきながら笑いました。「あなたって、いつも感情が顔に出ないのよね。」
「そんなことないよ。」私は慌てて言いましたが、自分の表情をコントロールできていないことは自覚していました。
「ねえ、昔はもう少し何でも話してくれた気がするの。何か悩みがあるなら、いつでも聞くからね。」妻のその言葉に、一瞬、心臓が締め付けられるような感覚を覚えました。
「ありがとう。でも、本当に何もないよ。」そう言うのが精一杯でした。
妻との何気ないやり取りは、私の心を少しだけ温めました。彼女は気づいていないのかもしれないけれど、あの短い会話で私は救われた気がしました。長い年月の中で、彼女はいつも私を気遣い続けてくれていた。私はそれに十分応えていなかったことを痛感しました。
そして、その夜、長い間しまい込んでいた日記を取り出しました。そこには、自分がどれほど孤独だったか、どれほど女性として生きたいと思っていたかが書かれていました。その日記を閉じるとき、私は一つの決心をしました。
「いつか必ず、この秘密を妻に打ち明けよう。」
すぐにではありません。時間がかかるかもしれません。それでも、私の心に小さな灯がともりました。これまで逃げ続けてきた人生に、ほんの少しでも向き合う勇気を持ちたい。妻に、そして自分自身に、正直でありたいと。
私はまだ迷っています。恐れもあります。でも、その恐れの中で、ほんの少しだけ前に進む気持ちが芽生えました。この灯が消えないうちに、少しずつでも前に歩み出そうと思います。