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母の友達

いつまでも若くひととき年の差

八浪……人生のすべてを賭けた挑戦だった。26歳の田村敦にとって、医大合格は生きる意味そのものだった。ただし、僕が目指しているのはただの医大ではない。全国屈指の最難関、医学界の頂点と呼ばれるその大学だけが目標だった。他の医大ならば数年前には合格できていただろう。けれど、あそこだけには届かない。それでも諦めることは考えられなかった。あそこに受かることでしか、自分の存在価値を証明できないような気がしていたからだ。
試験の結果が発表された日、僕は予備校の掲示板の前で立ち尽くしていた。真っ白な紙に印刷された合格者名簿……そこに「田村敦」の名前がないことを確認するのに、それほど時間はかからなかった。手応えはあったはずだった。それなのにまた、何かが足りなかったのだろう。合格者の名前が並ぶ中、僕はまるで自分がそこに存在しないかのような虚無感に襲われた。掲示板の前を離れるとき、後ろから聞こえてきた若い合格者たちの歓声が耳を突き刺した。彼らの笑顔や肩を叩き合う姿は、祝福のようでもあり、同時に僕への皮肉にも感じられた。
「まただ……」呟いた声は驚くほど乾いていた。手に持ったカバンの重みが、これからも続く浪人生活の重さそのものに思えた。家に帰る途中、ふと見上げた冬の空はどこまでも青く澄んでいて、僕の心の中に漂う暗闇とは対照的だった。玄関の扉を開けると、母が出迎えてくれた。キッチンから漂う煮物の香りと、湯気で曇った窓ガラス。父は無言でテレビを見つめている。僕の行動を察してかふたりとも多くを語らない。それが余計につらかった。沈黙の優しさが、僕の中の情けなさを増幅させる。
その日の夜、布団に横たわりながら天井を見つめる。これ以上浪人を続けることは、家族にとっても、僕自身にとっても限界ではないか……そんな弱気が頭をもたげる。けれど、最難関の医大を諦めるという選択肢は、心のどこにも浮かんでこなかった。ただ一つの目標を失うことは、僕にとって存在意義を失うのと同じことだった。

次回の試験をラストチャンスと決めた僕は、取り憑かれたように猛烈に勉強を始めた。そんな生活を続ける中、試験の四ヶ月前に事態は突然に訪れた。父と母が交通事故に遭い、救急搬送されたという連絡が入ったのだ。病院へ駆けつけると、意識はあるが大怪我をした二人がベッドに横たわっていた。なんとか幸い命に別状はないものの、骨折や内臓損傷で三ヶ月以上の入院が必要だと医師から告げられた。
病室の中、父がうめくように話す。「敦、すまないな……お前に迷惑をかける……」母も弱々しい声で、「大丈夫だから、家のことは志保さんにお願いしてあるわ」と続けた。
「志保さん……?」聞き慣れない名前だった。子育ても終わったシングルマザーで、母の友人だという彼女が、家に住み込みで世話をしてくれることになったと聞かされたとき、僕は困惑した。赤の他人が家に住む……そんな状況を想像したことすらなかった。

翌日、志保さんは大きなトランクケースを引いてやってきた。玄関の扉が開き、彼女が現れた瞬間、僕は思わず息を呑んでしまった。
彼女は48歳、母と同い年だというが、そんなことを感じさせない美しさを持っていた。茶色い肩までの髪がゆるく波打ち、上品なワンピースが彼女の立ち姿を一層引き立てていた。顔立ちは整い、控えめな化粧に紅いリップがよく映える。そして、笑ったときに浮かぶ目元の柔らかいシワが、彼女の人柄を物語っていた。
「田村敦くんね? 初めまして。志保といいます。お母さんから聞いてるわ。これからしばらく一緒に生活することになるけど、家事は任せて!よろしくね!」
彼女の声は柔らかく、けれど芯のある響きを持っていた。戸惑いながらも、「よろしくお願いします」と返した僕に、彼女は微笑みかけた。それは春の日差しのように暖かく、張り詰めていた心がほんの少しだけ緩むのを感じた。

志保さんが家に来てから、僕の日常は急速に変わっていった。朝起きると、台所から漂う味噌汁の香り。リビングには掃除が行き届き、母が倒れてから荒れていた家が嘘のように整っていく。彼女は明るく、細かいことにも気が利き、僕が不器用に洗濯物を干していると「手伝うわ」と自然に声をかけてくれた。最初はただ感謝の念を抱いていた。けれど、次第にそれ以上の感情が心の中で芽生えていることに気づいた。彼女の微笑みや仕草、髪をかき上げる仕草ひとつひとつに目が奪われる。僕が彼女を見つめる時間は次第に増え、逆に勉強に集中する時間は減っていった。
その想いが最高潮に達したのは、ある夜のことだった。彼女はいつもと同じようにお風呂に入り、二階のバスルームから水音が聞こえてきた。その音が僕の心をざわつかせる。湯船の水が波打つ音、浴室を歩く足音……それら全てが僕の頭の中で大きく膨らんでいく。その時「敦くーん」お風呂場から声が聞こえる。恐る恐る声を掛けると、石鹸を取って欲しいとのことだった。僕は見ないようにしながら石鹸を渡したのだが、すでに体の芯まで熱く火照ってしまった。
「集中しろ……勉強だ……!」そう自分に言い聞かせるものの、一切内容が頭に入らない。気づけば、心臓が早鐘のように鳴っていた。

そして、彼女がお風呂から上がってきた姿を見て、僕は抑えきれない感情がついに爆発した。
「志保さん……僕……もう我慢できません!」勢いのまま、彼女の肩を掴み、押し倒してキスをしてしまった。自分でも驚くほど衝動的な行動だった。志保さんは驚いた表情を見せたが、次の瞬間には大人の余裕で微笑み、そっと僕の手を解いた。
「敦くん、女性にそんなに乱暴にしちゃだめよ。」柔らかな声でそう言いながら、彼女は僕を見つめる。そして、静かに続けた。
「あなたがあの医大に受かったら、考えてあげる。今はそれで頑張りなさい!」その言葉に、僕は情けなさと申し訳なさに打ちのめされた。そして同時に、このままではいけないと思った。彼女に相応しい自分になりたい……!その思いが、急速に僕を変えた。

それからの僕は、これまで以上に勉強に没頭した。これ以上の浪人は許されない……志保さんの言葉を胸に、ただひたすら机に向かった。そして試験の日を迎え、全力を尽くした。その3カ月後、ついに最難関の医大に合格することができた。通知を握りしめ、真っ先に彼女に報告しに行った。志保さんは心から喜んでくれた。「おめでとう」と微笑むその顔を見た瞬間、これまでの苦しみが一気に報われたように思えた。そしてその夜、静かなリビングで彼女は僕の顔をじっと見つめた。そして小さく笑いながら、ぽつりと呟いた。
「敦くんが医大に合格して、私がもうここにいる理由もなくなっちゃったね。」その言葉に、僕の胸が痛んだ。彼女の微笑みの奥に隠された寂しさが、どうしようもなく伝わってきたからだ。けれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、「じゃあ……約束ね…お母さんには内緒よ」とだけ告げて、そっと僕の頬を撫で、二人の夜は更けていった。

翌朝、彼女は荷物をまとめて玄関先に立っていた。
「これからが本番なんだから頑張ってね」その声は優しく、けれどもう届かない遠いもののように感じられた。
僕は涙をこらえながら、ただ一言だけ、「ありがとうございました」と頭を下げた。顔を上げると、彼女は春の光を浴びながら静かに手を振っていた。

彼女との日々は、僕にとって一生忘れられない宝物だ。そしてその想いを胸に、僕は医者として歩き出す。彼女に誇れる自分になるために……彼女が信じてくれた僕であるために。

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