私の名前は伊藤久美、58歳です。先月定年を迎えた夫の秀和と、静かに二人暮らしをしています。最近では、夫が家にいる時間が増えたせいか、小さなことで喧嘩になることもしばしばです。そんな私たちの生活に、少しだけ賑やかな風が吹き込む日がやってきました。それは娘が、結婚後初めて夫を伴って帰省すると言うのです。
私達の娘は30代になって先日ようやく結婚しました。昔から穏やかで優しい子でしたが、仕事に没頭していて恋愛にはあまり興味がないように見えました。それでも、私たち夫婦を大切に思ってくれているのは感じていて、大きな休みには必ず帰省してくれるのが何よりの楽しみでした。顔合わせ時に初めて会った婿の弘樹くんは、とても落ち着いた雰囲気の優しい人で、ご両親もとても優しい方達でした。娘の選んだ人だから間違いないとすぐに思えました。その婿殿が今回、初めての大型の連休と言うことで我が家に泊まるのです。
「やっぱり婿殿が来るとなるといろいろ気が引き締まるわね」と言いながら、私は数日前から掃除や料理の準備に大忙しでした。夫は「いつもの感じでいいんだよ」と気楽そうに言いましたが、やはりどこかそわそわしている様子でした。
そしてその日がやってきました。玄関を開けると、娘と弘樹くんが笑顔で立っていました。「お父さん、お母さん、久しぶり!」と娘が声をかけてきて、私は思わずほっとした気持ちになりました。弘樹くんも「お世話になります」と頭を下げ、前に会った時と変わらない穏やかな笑顔を見せてくれました。私は「ようこそ、ゆっくりしていってね」と声をかけながら、彼がしっかりとした人柄であることを再確認したような気がしました。
その夜、食卓には私の自慢の料理が並びました。夫はいつもより饒舌で、婿殿に仕事のことや趣味の話を次々と聞き、婿殿も終始にこやかに答えてくれて、和やかな雰囲気が続きました。娘は「お父さんったら、質問が多すぎるわよ。飲みすぎ!」と笑いながら夫をたしなめていましたが、そのやりとりも微笑ましく、久しぶりに心が満たされるような時間でした。
食事の終盤、私はふと娘に「そろそろ子どものことは考えているの?」と聞いてしまいました。今この質問はしたらダメなんですよね。でもつい聞いてしまいました。それくらい孫の顔を見るのが私の小さな夢だったのです。娘は少し困った顔をしながらも、「まだ考え中だけど、そのうち…ね」と答え、婿殿も「家族が増えるのも楽しみです」と言ってくれました。その言葉に、胸が温かくなりました。
食事が終わり、みんなで後片付けをしていると、娘が「あーやっぱり実家は落ち着く~」と言いました。その言葉に、私は小さな喜びを感じながら、「ゆっくり休んでね」と送り出しました。
その夜、私は布団に入りながら、今日の出来事を反芻していました。娘夫婦が一緒に泊まるなんて、なんだか新鮮で不思議な気持ちです。こんな日がもっと続けばいいのに…そんなことを考えながら、いつの間にかうとうとし始めたその時、二階から「ギシッ、ギシッ」と微かな音が聞こえてきたのです。
二階からの音に、私は思わず耳を澄ませてしまいました。「まさか…」と思う反面、こういうこともあるかもしれないと自分に言い聞かせようとしました。だって結婚したばかりの若い夫婦ですもの。でも、自分の娘がそういう場面にいるかもしれないと思うと、どうしても心がざわついてしまいます。
音が止まる気配はなく、ますます気まずくなった私は、ふと隣を見ると夫も目を開けていました。あの人も気づいたのかしら?と思っていると、夫が小さな声で「なあ、聞こえるか?」と囁いてきました。「しっ、声が大きいわよ」と私は慌てて返しましたが、夫はニヤニヤしながら「いやぁ、若いっていいなあ」と、まるで他人事のように言うのです。
「何がいいのよ!」と軽く小突こうとした時、ふと昔のことが頭をよぎりました。そういえば私たちも新婚当時、義両親と同居していました。あの頃は部屋も壁も薄くて、もしかしたらあの時も聞かれていたのかもしれない…そう思うと急に恥ずかしくなり、顔が熱くなりました。「そんなこと考えると余計眠れなくなるじゃないの」と私は夫に文句を言いましたが、すぐにその感情はどこか懐かしさに変わっていきました。
そんな私の様子を見ていたのか、夫がぽつりと「俺たちも昔みたいに思い出してみるか?」と冗談を口にしました。「何言ってるのよ!」と私は即座に返しましたが、なぜか笑いがこみ上げてきてしまいます。そして気づけば、久しぶりに二人で寄り添う形になっていました。音に触発されたのか、それとも単に懐かしい気持ちが湧いたのか、自分でもわかりません。心も体も夫を受け入れていました。ただ、こうしてまた夫婦の時間を持つのも悪くないな、と心のどこかで感じていました。
翌朝、娘夫婦が降りてきましたが、どこかそわそわしている様子です。もしかしたら私たちの音も聞こえていたのではないかと考えると、こちらも気恥ずかしくなりました。特に何か言われたわけではありませんが、いつもと少し違うぎこちない空気が朝食の席に漂っていました。それでも娘が「昨夜はゆっくり休めたわ」と笑顔で言ってくれた時、私は何となくホッとしました。
その日の午後、娘夫婦を見送ると、夫がポツリと「俺たちもまだまだだいけるな」と言いました。「何いってんのよ!」と返しなましたが、私も心の中で同じことを思っていました。これからの夫婦の時間をもっと大切にしよう、そして健康を維持して孫が生まれたら元気に相手ができるようにしよう、と決意しました。
それ以来、私たちは毎朝ラジオ体操をするようになりました。きっと娘夫婦も今頃、夫婦で新しい生活を作り上げているのでしょう。私たちも、負けずに仲良くやっていこうと思います。