
「ねぇ、あんた。結婚はしないの?」
仕事を終えて帰宅し、いつものように缶ビールを開けた瞬間、スマホが鳴った。画面には「母」の文字。何の気なしに出ると、いきなりこの話題だ。
「……なんだよ、急に」
「だってもう36でしょ? 相手もいないの?」
「いないよ」
「そう、それならちょうどいいわ! お見合いしなさい」母は俺の返事も待たずに、一方的に話し始めた。
紹介したいのは母の友人の娘で、名前は麻衣さん。以前付き合っていた男にひどいことをされ、それが原因で二年間引きこもっているらしい。
「いやいや、そんな人を俺と結婚させようとしてるの?」驚いてそう言うと、母は悪びれることもなく、「すごく良い子なのよ!」と力説し始めた。
「家事も得意だし、それにむちゃくちゃ美人なの!」
「だからっていきなり結婚はないだろ……」
「それに、彼女、男の人が怖いみたいだから、あんたみたいに頼りないのがちょうどいいのよ」
「…おーい…」なんて親だ。俺のことをどんな目で見てるんだ。
「でもね、いきなりお見合いって言うとプレッシャーになるでしょ? だから、ちょっと作戦を考えたの!」
「…嫌な予感しかしないんだけど」
「彼女には、家政婦として卓也の家の掃除を頼むことにしたわ!」
「は?」思わずスマホを持つ手が止まる。
「そうすれば自然に会えるでしょ? 週に二回、卓也の家に行くことになってるから。ちゃんと話すのよ!」
「いやいや、ちょっと待って。なんで俺の家を勝手に……」
「じゃ、決まりね!」
母の言葉を遮る間もなく、電話は切れた。……はぁ。ため息をつき、ぬるくなったビールを飲み干した。
そして、約束の日。仕事を終えて帰宅すると、家の前に女性が立っていた。
黒髪のロングヘアに、シンプルな白いブラウスとロングスカート。どこか控えめな雰囲気なのに、遠目でも分かるほど整った顔立ちをしている。
「あの……中村卓也さん、ですか?」彼女は俺を見ると、少し戸惑いがちに口を開いた。
「今日からお世話になります、麻衣です」
「え?ああ。」想像以上の美しさに、言葉が詰まる。
「えっと……」不思議そうに見つめられ、慌てて我に返る。
「ごめん、こっちこそよろしく」玄関のドアを開けて家の中へ案内すると、彼女は静かに室内を見渡した。
「きれいにされていますね」
「まあ、最低限はね」
「何をしたらいいですか?」
「えっと……できれば、食事を作ってくれると助かるんだけど」
「分かりました。じゃあ待ってる間お風呂でも入っててください」そう言うと彼女はすぐにキッチンへ向かい、冷蔵庫の中を確認すると、迷いなく包丁を握る。手際の良さが見ているだけで分かる。しばらくして、食卓に料理が並んだ。
「出来ましたよ。どうぞ」煮物に味噌汁、焼き魚。シンプルだけど、ほっとするような料理だった。
「うまい!」思わず口にすると、麻衣さんは少し驚いたように目を見開いた。
「……よかった」その日から、彼女が週二回、俺の晩飯を作り、片付けをして帰る生活が始まった。
最初はぎこちなかった会話も、少しずつ自然になっていく。
そして、ある日のことだった。リビングで書類を整理していると、キッチンからバリン!という音が響いた。
「大丈夫!?」思わず立ち上がり、キッチンへ駆け込む。すると、麻衣さんがシンクの前で固まっていた。
…次の瞬間、彼女はびくっと肩をすくめ、目をぎゅっと閉じた。まるで、今から叩かれるとでも思っているかのような反応だった。俺は思わず足を止めた。何が起きたのか、一瞬理解できなかったが——まさか、俺が怒鳴ると思ったのか?
「…麻衣さん?」声をかけると、彼女はハッとしたように目を開けた。
「あ……ごめんなさい……」ぎこちなく呟くと、慌ててしゃがみ込み、割れた破片を拾おうとする。
「待って、危ないから」俺は咄嗟に彼女の手を掴んだ。その瞬間、細い指が強張るのが分かった。
「どこか怪我してない?」俺は彼女の手をそっと開く。血はついていない。
「…よかった」安堵の息を吐くと、麻衣さんは俺の手をじっと見つめた。少し驚いたような、戸惑ったような表情。
「俺が片付けるから、座ってて」麻衣さんは言葉を飲み込み、ゆっくり頷いた。それから、ほんの少し。
麻衣さんの態度が変わった気がした。目を合わせる時間が長くなった。俺が話しかけると、以前より自然に返してくれるようになった。
ある日、食事をしていると、麻衣さんがふと俺の方を見て言った。
「卓也さんって、ずっとこの町に住んでいるんですか?」
「ううん、もともとは東京で働いてたよ。」
「でも、派閥争いで負けてさ。また地元に飛ばされたってわけ」
「…そうなんですね」彼女は、ふっと微笑んだ。
なんだろう。何か言いたげな顔をしていた。微妙な沈黙が流れたが、不思議と居心地は悪くなかった。
—彼女の中の「恐怖」が、少しずつ溶けているのかもしれない。そんな手応えを、初めて感じた。
それから、俺と麻衣さんの関係は、少しずつ変わっていった。
週二回だった食事作りも、俺の要望で一緒に食べるようになり、週三回、四回と増えていった。最初は控えめだった会話も、いつの間にか普通に雑談するようになっていた。
「卓也さんって、お酒は飲むんですか?」少し強張った表情で質問してきた。
「ビールが多いけど、まあ何でも飲めるよ。でもあんまり飲み過ぎないようにはしてる」
「どうしてですか?」
「泣き上戸」
「え?」「…だから…酔っぱらいすぎると泣いちゃうらしいんだよ」
その言葉を聞いて麻衣さんは安心したのか柔らかな笑顔で笑っていた。
「恥ずかしいから、飲み過ぎないようにしてるだけだよ」そんな何気ない会話が、妙に楽しく感じるようになっていた。
そして、ある夜のことだった。食事を終えた後、麻衣さんがなかなか帰る素振りを見せない。
「あの……今日、もう少しいてもいいですか?」
「え?」「すぐに帰るつもりですけど、ちょっと……」
そう言って、彼女はソファに座る。
「……なんか、あったのか?」
「いえ、違うんです。ただ……今日は、もう少しだけいたいなって……」俺は、黙って彼女を見つめた。
少し俯いた横顔が、どこか不安げに見える。
「……じゃあ、コーヒーでも飲む?」
「はい」コーヒーを淹れ、二人で静かに飲んだ。
時間がゆっくりと流れる。やがて、麻衣さんがふと俺の方を見上げた。
「卓也さん……」
「ん?」
「…あの、抱きしめてみてもらってもいいですか?」
「…え?」思わず聞き返した。
「その…試してみたいんです。私…」彼女の手が、ぎゅっと握られているのが見えた。俺はゆっくりと立ち上がり、そっと腕を伸ばす。
彼女の肩に手を置いた瞬間、一瞬だけ強張る気配があったが、そのまま俺の胸にそっと寄りかかってきた。
…震えてない。
「…大丈夫?」
「はい…」声が、少しだけ震えている。でも、怖がっている震えじゃない。どこか、安堵したような、そんな感触だった。俺は、そっと腕に力を込めた。
それから、俺たちはさらに距離を縮めていった。
ある夜、食事の後、麻衣さんが帰る素振りを見せずに、俺の方をじっと見つめた。
「…帰らなくていいの?」
「…はい」小さく頷くと、麻衣さんは顔を赤らめながら俺を見た。俺は、ゆっくりと近づき、そっと顔を寄せる。
唇が触れ合った瞬間、彼女の瞳がかすかに揺れた。けれど、逃げようとはしなかった。
キスを終えて、俺はそっと彼女を抱きしめた。
「…大丈夫?」「…はい」
「むしろ、安心します」俺の胸に、麻衣さんがそっと顔を埋めた。
…もう、彼女は大丈夫だ。そう確信した。
それから、俺たちはトントン拍子に結婚の話を進めることになった。母に報告すると、「ほらね!」と大喜びされた。でも、俺は黙っておくのが嫌だった。だから、ある晩、俺は麻衣さんに打ち明けることにした。
「実はさ……この家政婦の仕事、母さんの希望だったんだ」
「…え?」
「最初から俺と真衣さんをくっつけたかったみたい…そう仕向けたんだ」麻衣さんは、驚いた顔をした。でも、次の瞬間、ふっと微笑んだ。
「…なんとなく、分かってましたよ」
「え?」
「卓也さんのお母さんが、すごく私のことを心配してくれていたのは分かっていたし……それに、卓也さんのことも、よく聞いていたんです」
「俺のこと?」
「はい。いつか会ってみたいなって、ずっと思ってました」
「…そうだったのか」
「だから、家事を手伝ってあげてって言われたとき、頑張ってみようって思えたんです」
「でも…来て本当によかったです。思っていた以上に優しくて、全然怖くなくて」彼女は、俺の手をそっと握った。
「だから…あなたに会えて、よかったです」俺は、何も言わずに彼女を抱きしめた。
結婚して、しばらく経った頃。麻衣さんが、ふと俺に聞いてきた。
「ねえ、卓也さん」
「ん?」「今、幸せですか?」
「……ああ、めちゃくちゃ幸せだよ」
「よかった」麻衣さんは、安心したように微笑むと、そっと俺の手を握る。
俺は、その手をぎゅっと握り返した。