
私の名前は伊藤孝枝と申します。先日60歳になりました。
つい最近まで、雇われですが美容整形の医師をしていました。自分で言うのも何ですが、見た目はかなり若いほうだと思います。おそらく同年代の女性たちと並んでも、少しは自信を持てるくらいには。それもこれも、長年、美を追求する仕事をしていたおかげだと思います。
本当はこれからも仕事を続けることはできました。でも、60歳を迎える直前に、ふと「私は今まで何をしてきたんだろう」と考えることが増えたのです。子供の頃から夢だった医者になり、美容外科医として多くの人の人生を変える手助けをしてきた。けれど、その一方で、自分自身の人生はどうだったのかずっと考えていたのです。
思えば、私は子どもの頃から勉強ばかりしていました。牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、ひたすら医学の道を目指していた。異性との関わりなんてほとんどなく、恋愛とは縁のない青春時代を過ごしました。医学部に入り、ようやく自分の夢が叶うと思った瞬間、挫折が訪れました。
自分の手で人の命を扱うことへの恐怖。思い描いていた「医者」という仕事の重さに、私は耐えられなかったのです。けれど、美容外科という道を見つけ、自分の手で人を美しくすることならできるかもしれないと、再び歩み始めました。その為にまずは自分を改造必要がありました。自分の顔にメスを入れることはしませんでしたが、まずはコンタクトに挑戦しました。そして髪型、お肌の美容にも力を入れるようになりました。そして自分磨きばかりしていたら、気が付いた時には30年以上が経っていました。
仕事に没頭するうちに、気づけばもう還暦でした。この歳になっても恋愛も結婚も経験しないまま、周りに聞かれてもずっと強がりを言っていました。「私に見合う男がいないからよ」と。けれど、還暦を迎える少し前に同窓会に参加したときに、周りの友人たちが口々に「孫がね」と嬉しそうに話すのを聞いて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚になったのです。
孫どころか、私は男性と手を繋いだこともありません。そんな自分の人生を、急に「何してたんだろう」と思ってしまったのです。
思い立ったら私は行動が早いのです。そこから、すぐに私は結婚相談所に足を運びました。今どきはアプリで出会うこともできると聞きましたが、正直なところ、少し怖かったのです。料金は高いけれど、安心感を選びました。
そして、私はすぐにある男性と出会いました。彼の名前は中山正雄さん。63歳の会社経営者でした。
会ってみると、写真以上に素敵な人でした。端正な顔立ちに、落ち着いた物腰。それでいて、どこかおおらかで、話していると心が穏やかになるような雰囲気を持っていました。彼は私とは違い、結婚歴がありました。けれど、離婚ではなく、奥様とは死別だったそうです。しかも、男手一つで娘を育て、つい最近、孫が生まれたのだとか。
「会社といっても、小さな会社ですよ。まあ、普通に食えるくらい稼げたらいいなと思って続けてるんですけどね」と、少し照れたように笑いました。その素朴な笑顔が、私の心にじんわりと温かさをもたらしました。何度かデートを重ねるうちに、私は初めての感覚を味わいました。彼と手を繋ぐだけで、心臓がドキドキしたのです。子供かと言われてしまいそうですが60歳にもなって、こんな気持ちになるなんて思いもしませんでした。
そんなある日、私は意を決して正雄さんに打ち明けました。
「実は……私、今まで男性と付き合ったことがないんです」彼は驚いていました。
「えっ?ほんとに?こんなに美人なのに?」その言葉に私は思わず苦笑いをしてしまいました。でもそれ以降、彼はとても丁寧に、私の歩幅に合わせてくれるようになりました。お付き合い開始後半年くらいたったある日、彼がふとこんなことを言ったのです。
「今度、温泉旅行に行きませんか?」ついに、その時が来たのだと、私は覚悟を決めました。
温泉旅行に行くのは楽しみではあるものの、私は心の中でずっと落ち着きませんでした。
楽しみな気持ちと、不安な気持ちが入り混じって、落ち着かない日々を過ごしていたのです。何を持っていけばいいのか、どんな服を選べばいいのか。いつもなら悩まないことが、今回ばかりは妙に気になりました。
特に、下着をどうするか。こんな歳になって誰かに相談も出来ないですしこれは本当に悩みました。
この歳で派手すぎてもいやらしいし、かといって年寄りくさいと思われるのも嫌ですし。結局、シンプルだけど少しだけ女性らしさのあるものを新しく買いました。
旅行当日、待ち合わせ場所に行くと、正雄さんはいつもより少しカジュアルな装いでした。私と会う時はスーツ姿が多かったので、新鮮に感じました。
「孝枝さん、今日はリラックスして楽しみましょうね」そう言いながら、彼は私のキャリーバッグを軽々と持ってくれました。
リードをされる、そんな些細なことが、なんだか嬉しかった。温泉旅館に到着すると、そこは落ち着いた雰囲気の老舗旅館でした。
女将さんが案内してくれた部屋は、広々としていて、窓からは紅葉が見える。
「いいお部屋ですね」
「うん、落ち着くね。二人でのんびりできそうだ」彼は何気なく言いましたが、その「二人で」という言葉に、私は内心ドキッとしていました。
お茶を飲んでひと息ついたあと、温泉に入りました。
さすがに混浴ではないので、それぞれ別々に入りましたが、お風呂で温まりながら、「このあとのこと」を意識してしまって、正直なところリラックスできませんでした。
夕食は部屋食で、季節の食材をふんだんに使った懐石料理。
美味しいものを食べながら、ぽつぽつと話をしました。仕事のこと、家族のこと、これまでの人生のこと。
「正雄さん、すごいですね。男手一つで娘さんを育てられて」
「いやぁ、ほんと大変だったよ。まあお袋には本当に世話になったよ。正直なところ、何度も泣いたこともあったしね。でも、娘がいたから頑張れた…のかな」
彼は、どこか遠くを見つめながら、しみじみと言いました。
「孝枝さんは、なんで結婚しなかったの?」私は少し考えてから、正直な気持ちを話しました。
「……たぶん、怖かったんです。勉強と仕事一筋で生きてきてたし、恋愛の仕方もわからないし、相手にどう思われるかって考えると、一歩を踏み出せなかった。で、気づいたら、もうこの歳になっていました」
すると、正雄さんは優しく微笑んで言いました。
「大丈夫。今からでも遅くないよ」その言葉に、私は少し救われたような気がしました。
食事を終えたあと、少しだけお酒を飲んでから、私はお風呂に入り直しました。
旅館の温泉はやはり気持ちが良くて、湯船に浸かっている間は余計なことを考えずに済みました。部屋に戻ると、正雄さんはすでに布団に入っていました。
「おかえり、気持ちよかった?」
「はい。すごく」私はそっと布団の端に座りました。彼は何も言わず、私をじっと見つめました。
その静かな視線に、私は少し恥ずかしくなって、視線をそらしました。
でもしばらくしても正雄さんは動きません。
どうして何もしてこないのかな?このまま何もしてこなかったらどうしよう。でも、自分から動くなんて、恥ずかしい。
そう思ったとき、私は咄嗟に自分でもびっくりする行動に出たのです。火が出るほど恥ずかしかったけれど、私は意を決して、自分から彼の布団に入ったのです。正雄さんは驚いたようでしたが、すぐに穏やかに微笑みました。そして、私をそっと抱きしめてくれました。
正雄さんの腕の中にすっぽりと収まると、心臓が高鳴るのが自分でもわかりました。
まるで、自分が若返ったような、人生で初めての感覚でした。
「……大丈夫?無理しなくていいんだよ?」彼の優しい声が耳元で響くと、ますます顔が熱くなりました。
「大丈夫です……。あなたに触れたくて……」消え入りそうな声で言うと、正雄さんはがばっと私を抱きしめました。
そして――
不思議と、そのあとは自然な流れで彼に身を預けることができました。彼に体を触れるところが熱くなり、生まれて初めて男性触られるということがどういうことか知りました。不安も恥ずかしさも、彼の優しさに包まれて、少しずつ消えていきました。
私の初めての経験。60年生きてきて、ようやく味わうことができた温もり。
行為の最中、私は何度も自分が夢を見ているのではないかと思いました。
「大丈夫?」彼は何度も私を気遣ってくれて、私はその度にうなずきました。
最初はぎこちなく、探り探りで。でも、次第に心が溶けていくようで――
気づけば、私は彼の胸に顔を埋めていました。
「……うまく、できてましたか?」行為が終わった後、私は思い切ってそう尋ねました。
すると、正雄さんはふっと息をついて、照れくさそうに笑いました。
「うん。大丈夫だよ。僕も、こんな歳だしうまく出来るか不安だったし。でも、孝枝さんがあまりに綺麗で、そんなことは全部忘れてたよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がじんわりと温かくなりました。私はずっと、一人で美容だけで生きてきた。
けれど、それを心から褒められて、こんなにも嬉しく思ったのは、これが初めてでした。
翌朝、私は目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなっていました。
が、隣には正雄さんが静かな寝息を立てていて、昨日のことが夢じゃなかったんだと改めて思いました。
私は、60歳になって初めて大人になった気がしていました。ようやく大人の仲間入りが出来た。そんな感覚です。
そう思うと、じわじわと昨夜の出来事が蘇ってきて、ひとりで布団の中にもぐり込みたくなるくらい恥ずかしくなりました。
でも、それ以上に、心の奥底がぽっと温かくなっていました。
「おはよう、孝枝さん」正雄さんがゆっくりと目を覚まし、私に微笑みました。
「おはようございます……」寝起きの顔を見られるのも恥ずかしくて、布団をぎゅっと抱きしめてしまう。
そんな私を見て、彼はおかしそうに笑いました。
「なんだか、もう新婚みたいだね」
「……もう、そんなこと言わないでください」照れながらも、私の頬は自然と緩んでいました。
旅館の朝食を食べたあと、チェックアウトまでの時間をゆったりと過ごしました。
旅館の庭を一緒に散歩しながら、落ち葉がひらひらと舞うのを眺め、手を繋ぐ。
ただ、それだけのことが、すごく幸せでした。
「孝枝さん、これからも死ぬまで一緒にいてくれる?」唐突に、正雄さんがそう言いました。
「本当に? こんな私でいいの?」彼の顔を見上げると、真剣な目をしていました。
「俺ね、長い間ずっと、誰かともう一度家庭を作ることなんてないと思ってた。でも、孝枝さんといると、もう一度やり直したいって思えたんだ」心臓が、大きく跳ねるのを感じました。
言葉の続きを言う前に、彼は私の手をぎゅっと握りました。
「ゆっくりでいい。少しずつ、一緒に歩いていこう」その言葉が、すごく心強く感じられました。
それから数ヶ月後。
私たちは正式に結婚しました。私にとっての初めての結婚と言うことで、彼はなんと結婚式もしてくれました。
といっても娘さん夫婦と孫の花音ちゃんだけの小さな結婚式。
娘の彩さんには驚くほど温かく迎えられ、気づけば、私は「ばあば」と呼ばれる立場になっていました。
まだ2歳の花音ちゃんが、よちよち歩きながら私の足元にしがみつき、無邪気に言いました。
「ばあば、だいすき!」その瞬間、胸がズキューンと射抜かれました。
私に、いきなり家族と孫ができた瞬間でした。60年、ずっと一人だった私に、こんなにも温かい居場所ができたんです。
正雄さんの隣に座りながら、小さな孫を抱きしめ、私は心の底から思いました。
遅すぎることなんて、何もないんだ。私はこれから、幸せになるのだから。
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