
「母さん、再婚しなよ」――酔っぱらった息子のその一言が、私の人生を変えた。
まさか、そんな話が自分に降ってくるとは思ってもみなかったんです。
だって私は、もう60歳。男に抱かれるどころか、手を繋ぐことさえ、この十数年なかったのに。
金山洋子、60歳。
女手ひとつで息子を育ててきた、どこにでもいるような、でも少しだけ波乱万丈な人生を送ってきた女です。
「不幸な人生だったよなぁ」なんて、たまにふと独り言のようにつぶやいてしまうことがあります。
実際、他人に話せば「ドラマみたいだね」と言われるくらい、いろんなことがありました。
両親は私が小学生のときに事故で亡くなりました。
そこからは、いわゆる“親戚のたらいまわし”。荷物と一緒に玄関先に立たされた日のことは、今でも夢に見るくらいです。
中学を出るとすぐに働き始めました。
でも、若さだけを頼りに社会に出た私は、ろくでもない男に引っかかってしまいました。20代の頃は、正直もう思い出したくもないくらい酷い期間でした。暴力、借金、病院通い……あの頃の私は、ただ生き延びるだけで精一杯でした。
その男は、ある日突然死にました。たぶん薬か何かしてたんじゃないでしょうか。突然死だそうです。
でも私は泣かなかった。いや、泣けなかったんです。
「ああ、やっとこの人から解放される。」って、それだけでした。
それから少しして、夜のお店で働いていた時に出会った、少しだけ優しい男――。私は、その人の子を妊娠しました。
「ちゃんと話せば、きっと喜んでくれる」と信じていたのに、その日から彼は、連絡が取れなくなりました。
茫然としたまま、私は腹の子を抱えてひとりぼっちになりました。でも、その子が、私を生かしてくれたんです。
公的支援や、母子寮、いろんな人の助けを借りて、私はパート勤めに切り替えて、ひとり息子の優太を育てました。
もう、ただひたすらに“生きること”と“育てること”しか頭にありませんでした。
遊びも、恋も、贅沢も、何ひとつしなかった。いや、できなかった。でも、優太はすくすく育ちました。
おかげさまで大学に進学し、奨学金でなんとかやりくりして、就職して、立派な大人になりました。
そして、先月、息子の優太は結婚しました。
お相手は役所勤めのしっかり者の女性で、初めて会ったとき、思わず涙が出るほど嬉しかった。
「この子なら、ちゃんと幸せになってくれる」って、そう思えたから。
でも嬉しい反面、式が終わってひとりに戻った部屋の中で、私は妙にぽっかりと穴が開いたような気持ちになったんです。
夢中で育ててきた“私の役割”が、終わってしまった。
そう思うと私、これから……何を支えに生きていけばいいんだろうって。
そして、その“ぽっかり”が少し残ったままのある日曜日。優太がお嫁さんを連れてうちに遊びに来たんです。
優太は珍しく少し酔っていて「母さんももそろそろ再婚しなよ」なんて言うんです。
「なに言ってんの。相手なんかいないわよ」と笑い飛ばした私に、優太は言いました。
「正幸おじさんがいるじゃん。あの人、母さんのこと……好きだよ?」
「は?」その言葉が、まるで時限爆弾のように、私の胸に静かに落ちて――
その夜から、私の心はずっと、そわそわと私の心に残っていたのです。
「正幸おじさんが……私を、好き?」その言葉が頭から離れなかった。
優太が帰ったあと、片づけをしていても、ひとりでぼんやりお茶を飲んでいても。
洗濯物を畳んでいても。夜、ベッドに入っても。ふとした瞬間に、あの言葉が胸の奥から浮かび上がってくるんです。
“私のことを好き?”私の人生そんな風に見られたことなんて今までありませんでした。
なのでそんなことを言われて私は、何が何だか分からない気持ちでした。
正幸さんとは、もう知り合って二十年以上の付き合いになります。
優太がまだ幼稚園に入る前に、私がひとりで公園に連れて行っていた頃に出会ったんです。
当時、彼もまだ若かった。彼は奥さんを病気で亡くし、娘の沙希ちゃんを抱えて、必死に働いていた。
私の母子寮の近くで暮らしていて、たまたま何度か顔を合わせるようになり、気づけば自然に言葉を交わすようになっていたんです。
「ひとりで子育てって大変ですよね」
「ほんと、それなりに覚悟いりますね」
そう言い合って、お互い笑って。お互いが片親同士、自然と寄り添っていたように思います。
運動会では一緒にお弁当を食べて、子どもたちの写真を撮り合って。
夜泣きの悩みを話したこともあったし、風邪で寝込んだときには、おかゆを持ってきてくれたこともあった。
でも、それは“同志”みたいなものだと思っていた。
誰かと寄り添う余裕なんてなかった。好きとか嫌いとか、恋だの愛だの、考えることさえ罪だと思っていました。
けれど……。
よくよく思い返してみると、正幸さんは、いつも私の「大変なとき」にそばにいてくれたように思います。
学芸会で優太が泣き出したとき、私がどうしていいかわからずオロオロしていたら、彼がすっと入ってフォローしてくれていた。
引っ越しのときも、重たい家具を黙って運んでくれた。
年末には「余分に作ったから」といっておせちを分けてくれたし、寒い夜には「これ、温まるから」って豚汁をタッパーに入れて持ってきてくれたりもした。
……私、あの人に、何度救われていたんだろう。
意識していなかっただけで、私の暮らしの中にはいつも、正幸さんの“優しさ”があったんです。
「好きだったよ」なんて、そんな風に言われたら、どうしたらいいの?
女としての自信なんて、もうとうに忘れています。鏡に映る自分の顔にはシミも増えて、首筋には年齢が出ているし、胸も張りなんかなくなって、背中も少し丸くなってきたように思います。でも、そんな私を……好きだって?
「まさかね……」そう、口に出してみたそのとき――ピンポン、とインターホンが鳴りました。
ドキッとして時計を見ると、まだ午後の三時過ぎ。誰かしら?と思って玄関に出ると――
「洋子さん、これ、昨日炊いた煮物。ちょっと味濃くなったけど、よかったら」正幸さんが、タッパーを両手で持って立っていた。
その姿を見た瞬間、胸がきゅうっと縮まるような気がした。タイミングが良すぎて、怖いくらいでした。
「ありがとう……あ、あがってく?」自分でも驚くくらい自然に、口から言葉がこぼれた。
彼も少し驚いたように目を見開いて、でもすぐににこりと微笑んで「じゃあ、ちょっとだけ」と玄関に上がってきた。
お茶を出して、テーブルを挟んで座ったけれど――私の心臓はもう、さっきからずっと高鳴っていて、落ち着く暇もありませんでした。私がずっと正幸さんの顔を見ていたのに気づいたのか、彼はふいに言いました。
「……なんか、あった?」その瞬間、私は喉が詰まるような感覚に襲われた。
「な、なんでもないよ……」そう言って目をそらしたけれど――その次の言葉で、私の世界は一瞬で止まりました。
「優太くんから、聞いたんですね。僕の気持ち……」静かな声だった。でも、はっきりと届きました。
「ようやく、僕のこと……意識してくれたんですね」その一言で、私はすべてを悟りました。
正幸さんの瞳は、嘘がひとつもありませんでした。淡くて、静かで、でもまっすぐに私を見つめている。
その優しい視線に射すくめられるように、私は思わず目を伏せました。
「……ごめんなさい。そんなふうに思ってもらってたなんて……全然気づいてなかったの……」
申し訳なさと戸惑いと、でもどこか、胸がじんわりと温かくなるような不思議な気持ちが入り混じっていました。
「気づかれなくていいと思ってましたよ。お互い、子育てで必死だったから」正幸さんは、少し笑いました。
それは、ずっと胸の奥にしまってきた想いを、自分の手でそっと開けてみせるような、優しい笑顔でした。
「でもね、もういいかなって。沙希も嫁いで、僕もようやく……自分の気持ちを言ってもいい歳になったかなって」
私は、なにも言えませんでした。ただ、胸がいっぱいで。言葉にしたら、何かがあふれてしまいそうで。
「洋子さん……ずっと、あなたのことが好きでした」ぽつりと、その言葉が落ちた瞬間、涙がこぼれていました。
喉の奥が詰まって、うまく呼吸もできない。
これまでの人生で、誰かに“好き”と言われて、こんなふうに泣いたことなんて、あったでしょうか。
「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだよ」そう言って、彼はそっと私の肩に手をまわしてきました。
その手は、大きくて、あたたかくて。ああ、私はこんな手に触れられたかったんだ――って、心が叫んでいる気がしました。
私は、言葉も出ないまま、正幸さんの胸に顔をうずめていると、ゆっくりと、優しく、彼の手が私の背を撫でました。
人生で初めて感じた“守られる”という感覚。
乱暴でもなく、都合のいい欲望でもなく、ただという純粋な温もり。
そのまま、彼と見つめ合いました。目が合って、何も言わずに、自然と顔が近づいて――
唇が触れ合いました。それは、本当にやさしいキスでした。生まれて初めての本当のキス。
熱くもなく、強くもなく、ただ私を大切に包むような、ひとつの“ぬくもり”の確認。
「……落ち着いた?」彼にそう言われて、私はゆっくりと頷きました。まだ胸がドキドキしていて、顔が赤いままだったけど、不思議と安心してました。
「私……もう60歳なんだよ?」そう言った私に、彼はにこっと笑って
「出会った頃と、全然変わらないよ。俺にとっては、ずっと魅力的な人だよ」
その目が、まっすぐすぎて、私はまた涙が出そうになりました。
「僕たちもさ、自分のことだけ考えて生きていい頃じゃないかな。これからは、自分を大切にする番だよ」
そう言って、彼は――
「洋子さん。僕と……結婚してくれますか?」
まさか、この場でそんな言葉を聞くとは思いませんでした。
でも――悩む時間なんて、まったくなくて、私はそっと彼の手を取りました。
長くて、寂しくて、必死で駆け抜けてきた人生。
誰かに「一緒に幸せになろう」と言ってもらえる日が来るなんて――思ってもいませんでした。
彼の手の温かさに、私は初めて「生きててよかった」と思えたのです。
「……本当にいいの?こんな歳なのに」
思わず口からこぼれた私の問いに、正幸さんは、まるで笑うように目を細めて、私の手を優しく包みました。
「そう?……十分、洋子さんは魅力的だよ」そのまなざしに、また涙がこぼれそうになりました。
「俺もまだまだ、現役だしね」
その冗談まじりの言葉に、つい笑ってしまって。
その笑いの余韻が消えないうちに――彼は、もう一度、私にキスをしました。
さっきのキスより、少しだけ深くて、少しだけ熱を帯びていて――
気づけば、私はそのキスに、すがるように目を閉じていました。
長い年月、ずっと“女”であることをどこかにしまいこんできた私が、今、目を覚まそうとしていました。
正幸さんの手が、そっと私の髪を撫でて、肩に触れて、浴衣の襟元に触れたとき――
私はもう、自分の心にブレーキをかけられなくなっていました。
恥ずかしさはもちろんありました。こんな歳でこんな体を晒すなんて恥ずかしいです。
でも、それ以上に、「この人に触れてほしい」という気持ちが溢れていました。
気づけば、私は自分から、その手を受け入れていたのです。
「……きれいだよ」そんなこと言わないで……と思ったけれど、でも、言ってほしかった。
ずっと、誰にも言ってもらえなかった言葉だったから。
彼の指先が、私の身体のあちこちをゆっくりと確かめるように撫でていくたび、私は息を殺しながら、ただ目を閉じていました。
「大丈夫?」と聞かれて、私はただ、小さく頷きました。
気づけば、彼の手でゆっくりと服を脱がされていました。
自分でも信じられないくらい素直に、その動きに身を任せている自分がいました。
――私も、この人が欲しい。生まれて初めて、そんなふうに思ったんです。
誰かに求められるのではなく、自分から“この人がいい”と心から思ったことなんて、今まで一度もなかった。
ふたりの身体が重なるとき、私は涙がにじむのを止められませんでした。
それは悲しみじゃなくて、たぶん、安堵と幸福の涙。彼の声がやさしくて、何度も私の名前を呼んでくれて。
そのたびに、私は胸の奥の、何十年も固まっていた氷が、少しずつ溶けていくような感覚に包まれていました。
今までの人生、与えるだけで、奪われるばかりで、自分が満たされるということが、どういうことか知りませんでした。
でも今、私はようやく――“愛される”という意味を、知った気がします。
夜が更けて、身体を寄せ合ったまま眠りについた私たち。
正幸さんの腕の中は、温かくて、ずっとこのままでいられたらいいのにと、そう思いました。
そして、朝。
私は、彼の胸元に顔を預けたまま、小さくこう呟きました。
「……ありがとう。生まれて初めて、幸せだと思えた気がする」すると彼は、私の髪を撫でながら、少し照れたように笑いました。
「そんな大事な役目を、俺がもらえて、嬉しいよ」私は、もう泣きませんでした。
代わりに、笑顔で「おはよう」と言って――彼の頬に、そっとキスをしました。
60歳、ようやく、私にも春が訪れました。
私の人生も捨てたもんじゃなかったんだなと、そう心から思えた朝でした。