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こんなところでダメだのに

シニアの恋愛は60歳からチャンネル様シニアの話
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夫の指が私の体にふれたとき、私は思わず声が出そうになるのを押し殺しました。こんな歳になって、しかも、こんな場所でするなんて─。車の中ですよ。しかも高速道路に併設された道の駅の駐車場です。真夜中とはいえ、外には何台もの車が並び、エンジン音や足音がときどき聞こえてきます。そんな状況なのに、私は今、夫の抱きしめられていました。後部座席を倒してフラットにしたマットの上、毛布をかぶっているとはいえ、外から覗かれやしないかと、心臓はバクバクと脈打っていました。

 でも、それ以上に、ううん、それ以上に感じていたのは、久しぶりに夫から女として見られているという実感でした。

 夫の手が、迷いもなく私の体をなぞります。そのぬくもりに、私はじわじわと熱を帯びていきました。

 耳元に、夫の熱い吐息が落ちてきます。「はるみ……」と私の名前を呼ぶ声が、いつになく低く、優しくて。それだけで、もう私は身体がふるえてしまいました。私は目を閉じて、ただ、彼に委ねていました。外を誰かが歩いているような音がしたけれど、それでももう止められません。私は声を押し殺しながらも、身体の奥から込み上げる熱に抗えず、小さく震えていました。

 こんなにも求められることが、こんなにも嬉しいなんて自分でも、信じられませんでした。子どもが独立し、夫婦ふたりになってから、こうして肌を重ねることがどんどん減っていって、もうそれが当たり前になっていたのに。

 「はるみ……」再び名前を呼ばれたとき、夫が私の上にそっと重なってきました。まるで時を巻き戻すように、ふたりの呼吸がひとつになっていきました。

 …失礼しました。いきなりこんな話から始めてしまって。でも、あれが私にとっては、とても特別な夜だったのです。あの夜、私はふたたび女に戻れたのです。もう10年ぶりくらいの出来事でいた。

 私の名前は、西村はるみ。59歳。夫の謙は65歳になります。ふたりとも、もう十分すぎるほど歳を重ねてきました。若い頃のような勢いはありません。でも、夫婦として、家族として、ずっと一緒にやってきた、そんな関係です。

 今回の出来事は、私たちが私の実家に帰省する途中で起きた、ちょっとした“ハプニング”がきっかけでした。

 私の実家までは車で片道8時間。しかも事故渋滞に巻き込まれて、出発してからすでに10時間近くが経過していたのに、まだ半分程しか来ていませんでした。

 最初はお喋りしながら景色を眺めていたのですが、渋滞がひどくなるにつれ、口数も減っていきます。「こりゃもう着くの夜中の3時とかになるな」運転席の夫がぼやいたとき、私ももう限界でした。

 仕方なく、途中のサービスエリア兼道の駅に入り、「今日はもうここで休もう」と決めたのです。温泉旅館に泊まるわけでもなく、豪華な夕飯があるわけでもなく。私たちが食べたのは、コンビニで買ったおにぎりとカップ麺。それを車内の明かりの下、ふたり並んですする姿に、非日常感もあり何とも言えない気持ちになりました。

きっかけは、食料を買って車に戻るところでした。何やら車がギシギシと音を立てているのです。明らかに揺れていました。私は何も言いませんでしたが、たぶん夫も気付いていたのだと思います。普通に運転席と助手席を倒して仮眠するのかと思っていたのですが、後ろをフラットにして寝ようと夫が言い出したのです。

その時の私はまだ何も思っていませんでしたが、さあ寝ようとしだしたところ夫の手が私に伸びてきたのです。

もう本当にびっくりしました。もうかれこれ10年近くそういうことは無かったですから。私は何も反応しなかったのですが、夫の手は止まりません。すると夫の顔が近づいて来てキスをされました。夫の目を見た時に、ああ本気なんだと思いました。

夫の手が、迷いもなく私の体をなぞります。そのぬくもりに、私はじわじわと熱を帯びていきました。

 耳元に、夫の熱い吐息が落ちてきます。「はるみ……」と私の名前を呼ぶ声が、いつになく低く、優しくて。それだけで、もう私は身体がふるえてしまいました。私は目を閉じて、ただ、彼に委ねていました。外を誰かが歩いているような音がしたけれど、それでももう止められません。私は声を押し殺しながらも、身体の奥から込み上げる熱に抗えず、小さく震えていました。

 こんなにも求められることが、こんなにも嬉しいなんて自分でも、信じられませんでした。子どもが独立し、夫婦ふたりになってから、こうして肌を重ねることがどんどん減っていって、もうそれが当たり前になっていたのに。

 「はるみ……」再び名前を呼ばれたとき、夫が私の上にそっと重なってきました。まるで時を巻き戻すように、ふたりの呼吸がひとつになっていきました。

 でも、あの夜──思いがけず、車中でそんな時間を過ごしたことで、私は自分でも驚くくらい、心も身体も満たされていたのです。

 どんな場所でも、どんな状況でも、ふたりがふたりである限り、心はつながる。そんなふうに思えた、忘れられない夜でした。

 夜が明けたのは、思っていたよりずっと早く感じました。目を開けた瞬間、ほんのりとした空の明るさが、サンルーフのガラス越しにじわりと滲んでいて、夢の続きを見ているのかと思ったくらいです。私は、まだ腕の中にいた夫の寝息を聞きながら、昨夜のことを思い返していました。恥ずかしいとか、そんな感情よりも、ただただ胸の奥がじんわりと温かくて──。

 まさか、こんな歳で初めて車の中であんな風に求められるなんて。年齢のせいにして、女をやめたような顔をしていたのは、自分だったのかもしれない……そんなことをぼんやり考えていました。

 夫の謙は、私が少し体を起こすと、目を細めながら「もう起きたのか」と低い声で言いました。その声が、いつもより少しだけ優しくて、私は思わず笑ってしまいました。昨夜のことが、二人の間に変な気まずさを残すどころか、むしろ逆に、何かをふわっとほどいたような──そんな気がしたのです。

 「…よく眠れた?」と、私はちょっとだけ意地悪く尋ねてみました。夫は照れ臭そうにうつむきながら、「まあな」とだけ答えました。 そんな姿を見て、なんだか愛おしくなってしまいました。60歳を過ぎても、こうして照れてくれるなんて……もう、それだけで十分でした。

 身支度を整えて、自販機で淹れたてのコーヒーを買い、ベンチに並んで腰掛けました。空はすっかり明るくなっていて、朝露に濡れた葉っぱがキラキラと光っていました。

 「今日の道中はどうする?」と夫が聞いてきたので、私は一瞬だけ考えて、それから答えました。

 「せっかくだから観光でもしながら行こうよ」 夫はちょっと驚いたような顔をしましたが、すぐにうなずいてくれました。

 いつもは、帰省といえばスケジュール通りに動くのが当たり前だった私たち。でもこの朝は、どうでもよくなっていたんです。

 無理して夜中に着くこともない。誰かに何かを証明するように生きることもない。肩の力がすーっと抜けた気がしました。

 車に戻って、出発する前にミラーで自分の顔をのぞいてみたとき、ふと気づいたのです。笑ってる。 昨日の朝より、ずっとやわらかい表情をしている自分が、そこにいました。

 思い返してみれば、私たち夫婦は、ここまでずっと“頑張ること”ばかりを選んできたような気がします。

 子育てに仕事、介護に家計。“手を抜かない”ことが愛情だと、どこかで思い込んでいたのかもしれません。けれど昨夜──

 あの夜中の車中で交わした、言葉もない触れ合いの中で、私はようやく気づいたのです。

 本当に大切なのは、「正しさ」ではなく「ぬくもり」だと。

 夫の手に包まれているとき、私は“妻”でも“母”でもなく、“私”として、そこにいました。

 ありのままで、愛されていると感じられた。それが、どれほど幸せなことだったか。

 この歳で、こんなふうに恋のような時間があるなんて、正直思ってもみませんでした。

 でも歳だからと諦めてしまうには、まだまだ惜しいことが、人生には残っているようです。

 車がまた、ゆっくりと山道を走り出しました。

 助手席で流れる景色を眺めながら、私は静かに微笑んでいました。「またどこかでしてね」──そう言ったら、夫が横でちょっとだけ咳き込んでいました。

 ええ、冗談じゃありませんよ。星空の下で過ごした、あの夜のハラハラドキドキする感情は、今でも胸の奥で静かに灯っているのですから──。

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