「ねぇ、伊藤さん……私、あなたが必要なの。」
社長の妻であり、副社長の美和さんが、今目の前で俺にそう囁いた。まるで誰かにすがるように、彼女の手がそっと俺の肩に触れる。普段は冷静で完璧な彼女が、今、この瞬間だけは違って見える。まさか、自分にこんなことを言うなんて――頭の中が混乱する。俺はどうすればいいんだ?
俺の名前は伊藤隆志、44歳。また社長の怒鳴り声が俺の耳に響いていた。机に広げた書類に視線を落としながら、俺はこれまでの自分の人生を振り返っていた。俺は中小企業の中堅社員として働いているが、ここ数年は社長からのパワハラに耐えながら、ただひたすら仕事をこなしていた。感情を押し殺し、社長に何を言われても、黙って耐えるしかなかった。
「お前は使えないんだよ!さっさと資料をまとめろ、無能が!」
社長の言葉が耳に突き刺さる。何度も繰り返されるこの光景。怒鳴られる俺、冷笑を浮かべる社長、そして誰も助けてくれない。だけど、唯一、美和さんだけは違っていた。社長の妻であり、副社長でもある彼女は、いつも俺に優しく声をかけてくれた。彼女の存在がなければ、俺はとっくにこの会社を辞めていたかもしれない。
彼女は38歳。知的で美しく、そして何よりも他人を気遣う優しさがあった。社内でも社員一人ひとりに心を配り、冷たく高圧的な社長とは対照的だった。俺が社長に怒鳴られた後、静かに美和さんが近づいてきた。
「大丈夫ですか、伊藤さん?」
その優しい声が、俺の唯一の救いだった。彼女がいてくれるからこそ、俺はこの職場で耐えていられた。美和さんに惹かれていた、いや、それ以上の感情を抱いていたのかもしれない。しかし、彼女は社長の妻。俺にとっては、手の届かない存在のはずだった。
そんなある日、突然俺に出張の話が舞い込んできた。社長が自分が行くのが面倒くさいから俺に振ってきたのだ。それを聞いた美和さんが私も行くわと言い出し、二人きりで出張に行くことになった。取引先との打ち合わせの為に遠方へ向かうことになった俺たち。これまで通り、ただの仕事だと思っていた。だが、その出張先で起こった出来事が、俺の人生を大きく変えることになるとは、思いもしなかった。
「申し訳ございません、お客様。手違いで、お部屋が一部屋しかご用意できません……」
ホテルのフロントでそう告げられたとき、俺は一瞬思考が止まった。美和さんも驚いた顔をしているが、すぐに平静を取り戻し、フロントに確認する。しかし、どうやら部屋が足りないというのは事実のようだ。
「それなら、僕はネカフェにでも行きますよ。美和さんがこの部屋で休んでください。」
俺は慌ててそう提案した。美和さんと二人きりの部屋に泊まるなんて、そんな状況を想像するだけで心臓が跳ね上がりそうだった。だが、彼女は俺の提案に首を振り、軽く笑って言った。
「そんなことしなくてもいいわ。ここで一緒に泊まっても大丈夫よ。私と一緒にいるの、嫌なの?」
その言葉に、俺は言葉を失った。どうして彼女がそんなことを言うのか分からない。普段は冷静で、どこか距離のある美和さんが、まるで近くに来ようとしているように感じた。
「い、いえ、そんなことないです。ただ……」
「なら、一緒ね。何も問題はないわ。」彼女が優しく微笑んで言うと、俺はそれ以上拒むことができなかった。
部屋に入り、二人で晩酌をする。ほろ酔い加減になったその時、
「ねぇ、伊藤さん……私、あなたが必要なの。」
そしてその夜、俺は彼女の誘いに応じてしまった。理性は何度も警告を発していたが、それを超える彼女の寂しさが、守ってあげたいという俺の心を支配した。彼女の手に触れた瞬間、全てが崩れ落ち彼女と交わってしまった。翌朝、目を覚ました俺は、自分がしてしまったことに困惑していた。美和さんは何事もなかったかのように、穏やかに微笑んでいた。
「ありがとう、伊藤さん……私ね、もうこれ以上一人で耐えられないの。」
その言葉を聞いて、俺は美和さんが抱えていた深い孤独と絶望に気づいた。彼女は、夫である社長から完全に無視され、愛人を作られて放置されてきた。それでも会社を支え続けてきた彼女は、何年もその苦しみを一人で抱えてきたのだ。
「私は、あの男を追い出すつもりよ。そして……あなたに力を貸して欲しいの。」
「あなたのおかげでこの会社は回ってるの。そんなのみんなわかってる」
美和さんの言葉に、俺は驚いた。彼女が本気で社長を追い出そうとしているなんて、想像もしていなかった。
「どういうことですか?」
「この会社のオーナーは父なの。今までは我慢して来たけどもう我慢できない。あの男の無能ぶりを見せつければ、社長の座なんて簡単に奪えるのよ。」
彼女の瞳には、もう迷いはなかった。これまで苦しみを耐え抜いてきた彼女が、今、立ち上がろうとしているのだ。彼女はもう、ただの副社長や社長の妻ではない。自らの力で未来を切り開こうとしている。
数週間後、美和さんの計画は着実に進んでいった。彼女はオーナーである父を会社に呼び寄せ、社長の無能さとパワハラの実態を証拠として突きつけた。社員たちも社長への不満を次々に表明し、彼はついに自らの立場を失った。
「これから心を入れ替えて気を付けますから許して下さい。」情けない声で、義理の父に頭を下げている社長。
「お前には社長を務める資格はない。」
オーナーの一言で、ぴしゃりとすべてが終わった。あれだけ権力を振りかざしていた男が、今では無力な存在に成り下がった。全社員の冷ややかな目に晒されて社長は、逃げるように出て行った。この時、俺の中にあった長年の屈辱と恐怖が、すっと消えていくのを感じた。
そして、美和さんは全社員の前でこう宣言した。
「これから、この会社の新しい時代を作るわ。次の社長は伊藤さんです。」
俺はその言葉に、驚きとともに戸惑いを隠せなかった。
「い、いや、僕には社長なんて無理です……」しかし、美和さんは静かに微笑みながら、俺を見つめた。
「じゃあ、副社長として私を支えてくれないかしら?あなたがいれば、大丈夫よ。」俺はしばらく考えた。これまでの自分が、社長になるなんて到底思えなかった。だが、彼女がいるなら――美和さんと一緒にいるなら、俺は新しい時代を切り開いていけるかもしれない。そう感じた。
「……分かりました。副社長としてなら……」
俺が静かに頷くと、美和さんは満足そうに微笑んだ。
それから、会社は少しずつ変わっていった。社員たちが働きやすい環境を整え、これまでの恐怖政治を取り除いていく。社長にならずとも、副社長として美和さんを支えながら、俺もこの会社の未来を作っていくのだ。
人生、何があるかわからない。美和さんの隣で、俺はそう呟いた。彼女と共に歩む未来が、どんなものになるのか今はまだ分からない。でも、彼女と乗り越えていきたいと強く願っていた。