まさか、この歳になって妻の裏切りを知ることになるなんて思いもしませんでした。退職後の人生は、静かで穏やかなものになるだろうと、そう信じていたんです。
私は幹也、60歳です。3ヶ月前に、長く勤めた職場を定年退職しました。定年を迎えた時には、これからは気楽に過ごせる日々が待っていると信じて疑いませんでした。何より、それなりに幸せな家庭があったんですから。妻と、ゆっくりとした余生を共に過ごす、それが私のこれからの人生だと思っていました。まさか、その期待が簡単に裏切られる日が来るとは、夢にも思っていませんでした。
今、私は近くの郵便局で軽い仕分けのパートをしています。余裕があると思っていたのですが、将来が心配になり週に3日日だけ働きに出ることにしました。家にいる時間が長くなると、どうしても奈津美との間に気まずさが漂うのを感じるようにもなってしまったんです。今振り返れば、その時点で私の心のどこかが、無意識に奈津美との距離を取ろうとしていたのかもしれません。
奈津美とは、私が45歳のときに結婚しました。彼女は当時37歳で、少し遅めの結婚でしたが、それでもお互いに満足していたと思います。子供は自然の流れで諦めましたが、それで不満はありませんでした。二人の生活には特に不自由もなく、むしろ私はその生活に大いに満足していたんです。家事も完璧にこなしてくれて、何より安定した生活でしたから。私にとっては、奈津美さえいればそれで十分だと思っていたんです。
私は、それまで女性とお付き合いした経験がほとんどありませんでした。だから、結婚して初めて奈津美と夜を過ごしたときは、まるで別の世界に引き込まれるような衝撃でした。彼女の情熱に圧倒されて、私はその瞬間から、彼女の望むものを全て与えたいと強く思ったんです。それが愛するということだと信じていました。
最初の頃は、私たちも頻繁に夜を共にしていました。子供ができればいいなと願っていた時期もありましたから。でも、彼女が50歳を過ぎた頃から、その回数は徐々に減っていきました。次第に、奈津美は私の誘いを拒むようになり、ついには完全に応じなくなりました。そのとき、私はそれを年齢のせいだと思い込もうとしました。年を取れば、そういうこともあるものだと、自分を無理やり納得させていたんです。
奈津美は、元々欲しいものは必ず手に入れ、金遣いもやや荒いところがありました。自分の欲望に正直な人だったんです。でも、私はそれを可愛らしいとすら感じていました。歳の離れた私にとっては、彼女の自己中心的な面も愛おしく、彼女が望むものなら何でも与えたいと願っていました。それが、私の中で「愛する」ということの意味だったんです。
しかし、年金生活が始まってから気づいたことがあります。奈津美が頻繁におしゃれをして出かけていたんです。「友達と遊びに行くのよ」と笑顔で言っていた彼女の姿には、最初は特に不自然さは感じませんでした。私は、彼女が幸せそうであれば、それでいいと思っていましたから。
でも、ある日、ふとした一言から、私の中に疑念が芽生えました。その一言は、何気なく口をついて出たものだったんです。
「年金生活に入ったんだから、少しは節制してね」
軽い冗談のつもりで言ったんです。でも、その瞬間、奈津美の表情が凍りついたんです。いつもなら、軽く笑って受け流す彼女が、その時は無言で私を見つめてきました。その無言が、どこか冷たく、私が踏み込んではいけない何かに触れてしまったかのようでした。その一瞬の沈黙が、私の中に小さな不安の種を植え付けたんです。
その後も奈津美の外出は続きました。頻繁に出かけ、戻ってくると、まるで別の世界に行っていたかのように楽しげでした。私は何度か「どこへ行っていたんだ?」と尋ねましたが、彼女は笑って「どこでも良いしょ」と答えるばかりでした。でも、53歳になった妻が、ここまで念入りに身だしなみを整え、頻繁に外出する必要があるのか?そう思うようになったんです。
やがて、その疑念は募り、ついに私は探偵を雇うことにしました。自分でも、馬鹿げたことだと思いましたが、もうその時は止められませんでした。探偵に依頼をした日は、胃がキリキリと痛むような不安と、奈津美を疑うことへの罪悪感でいっぱいでした。「信じるべきだ」と思う気持ちと、「いや、もし本当に…」という恐れが、私の中で渦巻いていました。
そして、数週間後、探偵から結果が届いたんです。封筒を開ける手が震えていました。これが、私の人生を一変させるものだと直感していたのかもしれません。封を切る前、しばらく躊躇したことを覚えています。けれど、意を決して報告書を開くと、そこには信じられない事実が記されていました。
奈津美が浮気をしていたんです。それも、25年もの間、同じ男と関係を続けていたというのです。結婚当初からずっと、彼女は別の男と深く繋がりながら、私と共に生活を送っていたんです。
25年です。彼女が私と結婚するよりも前から、私はずっと裏切られていたのです。
その事実を知った瞬間、怒りよりも先に、圧倒的な虚無感が襲ってきました。長年愛してきたはずの妻が、ずっと別の男を愛していた。私たちの結婚生活が、まるで偽りのものだったかのように感じられました。これまでの時間がすべて無駄だったとまでは思いませんでしたが、それでも、その空虚感に耐えることはできませんでした。
その夜、私は奈津美に問い詰めました。最初、彼女は「そんなことない、あなたの勘違いよ」と否定しました。でも、その言葉に力はありませんでした。次第に彼女は語気を強め、私を言い負かそうとしましたが、私にはもう彼女の嘘が見えていました。
「本当のことを言え!」
初めて彼女に対して語気を強く命令しました。私の初めての怒声に彼女は驚き、顔が一瞬揺れたんです。探偵の報告書を叩きつけると、奈津美は観念したように俯きました。最後まで「そんなことない」と抵抗していた彼女が、ついに小さく「ごめんなさい」と呟いたとき、私の心はどこかで冷え切ってしまったのを感じました。私たちの間にあった絆は、もう完全に壊れてしまっていたんです。
彼女が何を考え、なぜその男との関係を続けていたのか、今となっては知る由もありません。ただ一つ言えるのは、彼女もまた、どこかで空虚感を抱えていたのかもしれないということです。彼女は強く、自己中心的で、欲望に忠実な人間でした。私がどんなに努力しても、彼女の心の中の虚無を埋めることはできなかったのでしょう。
私はすぐに弁護士に相談し、離婚と慰謝料の手続きを進めました。法律的には、彼女と浮気相手から慰謝料を取ることは当然のことですが、それが私の心の傷を癒すわけではありません。長年の裏切りに対して、どんな金額も代償にはならないのです。
こうして、奈津美との結婚生活は終わりました。彼女を愛していた時間は確かにあったはずですが、今ではそれが遠い過去のことのように感じられます。これからは、自分の人生を生きていくしかありません。
どうしてこの歳になってこれだけ苦しまなくてはいけないのでしょう。何のために定年まで頑張ってきたのでしょうか。これから新しい日々が始まります。それはただ過去を忘れるためではなく、むしろ、過去と共に生きながらも前を向くためです。奈津美との思い出が完全に消えることはないでしょう。それでも、私は歩いていくしかないのです。過去を背負いながら、それに縛られることなく、新しい一歩を踏み出していきたいと願っています。こんな歳になりますが、新たな出会いが欲しいと心の底から思っています。