今回のお話は歩美さんのお話です。すごい経験をされたそうですね。それではお聞きください。
私は歩美です。64歳の主婦で、夫と結婚してもう40年が経ちました。これだけ長い夫婦生活をしていると、毎日が同じことの繰り返しになります。朝は少し遅めに起きて、朝食を作り、夫と一緒に食べます。メニューは大抵、味噌汁に焼き魚、漬物、そして白いご飯という定番です。年を取ると、なぜかこれが一番落ち着きます。
「今日も天気がいいね」と、夫が新聞を広げながら言います。「そうね、洗濯物がすぐ乾きそうだわ」と私は相槌を打ちます。これが私たちの朝の会話です。特別に盛り上がるわけでもありませんが、だからといってそれが悪いとも思っていません。むしろ、これが私たちの当たり前の生活で、何十年も続いてきたからこそ、心地よくさえ感じています。
朝食を食べ終わると、私は食器を片付け、夫は囲碁のセットを広げ始めます。定年退職してから、夫は毎日のようにテレビの囲碁番組を見て、「今日はこの手が良かったな」とか「これはなかなかだな」とつぶやいています。その姿を見ていると、結婚したばかりの頃の、仕事に打ち込んでいた彼を思い出し、少し懐かしい気持ちになります。
「昼ご飯はどうする?」と夫が急に声をかけてきます。「冷蔵庫に昨日の煮物があるから、それを温めればいいわ」と私が答えると、「それじゃあ、頼むよ」と言って、また囲碁に戻ります。昔はもっと私の料理に関心を持ってくれていたのに、と感じることもありますが、今はこれが私たちの生活で、特に不満もありません。これが私の人生だと、そう思い込んでいました。
そんなある日の午後、友人の陽美さんから電話がかかってきました。「歩美さん、ちょっとお茶しない?」と誘われ、近所の喫茶店に出かけました。陽美さんとは長い付き合いで、夫婦ともに仲が良い関係です。お互いの子供たちも独立して、今は穏やかな老後を楽しんでいるはずでした。しかし、その日の陽美さんの表情はどこか違いました。
「歩美さん、ちょっと変なこと言ってもいい?」と陽美さんが真剣な顔で言います。「何かしら?」と私は少し警戒しつつ、彼女の話を聞きました。
「ウチの夫と歩美さんのご主人、交換してみない?」と陽美さんが突然切り出してきたのです。「え、どういうこと?」と驚いて聞き返すと、陽美さんは笑いながら、「最近、知り合いの夫婦が夫婦交換をしてね、最初は冗談だと思ったけど、意外と良かったって言ってたの」と言いました。
私は言葉を失いました。夫婦交換なんて、ドラマの中の話だと思っていましたし、現実でそんなことをする人がいるなんて想像もしていなかったのです。「でも、どうしてそんなことを?」と尋ねると、陽美さんは「長年同じ相手と生活していると、たまには新鮮な気分になりたくなるでしょ?それに、知り合い同士だと安心して試せるから」と話してくれました。
その夜、私は夫にこの話をしてみました。夫は最初、「何を言い出すんだ、そんな話ありえないだろ」と強い口調で否定しました。私もすぐに受け入れるつもりはなかったのですが、陽美さんの真剣な様子が少し心に引っかかっていました。「たった2日間だけでも試してみない?」と私はお願いしました。結婚生活が長くなると、新しい風を吹き込むことが必要なのかもしれない、と感じていたのです。
夫はしばらく渋い顔をしていましたが、私があまりにも食い下がるので、「まあ、試しにやってみてもいいけど、2日間だけだぞ」としぶしぶ承諾してくれました。これが彼なりの譲歩だったのでしょう。
そして夫婦交換の日がやってきました。玄関のチャイムが鳴り、私は少し緊張しながら扉を開けました。そこには陽美さんの夫である洋一さんが立っていました。彼はにっこりと笑って、「よろしくお願いします」と軽く頭を下げました。その瞬間、私はこれからの2日間がどうなるのか、少しだけ楽しみに感じました。これが私の人生における初めての「変化」になるのかもしれない、と。
洋一さんとの生活が始まってから、最初の夜は意外と自然に過ごすことができました。家族ぐるみでの付き合いがあったせいか、変に気を遣うこともなく、普段の延長のような感じでした。夕食の準備をしていると、洋一さんが「何か手伝おうか?」と言ってくれました。夫は台所に立つことはほとんどなく、「男が台所に立つものじゃない」と考えている人ですから、驚きました。
「大丈夫ですよ、もうすぐできますから」と言ったのですが、洋一さんは「そう?それなら、食器だけでも並べておくよ」とさりげなく動いてくれました。こういったささやかな気遣いが、とても新鮮に感じました。夕食中も、彼は料理をしっかり味わい、「美味しいね」と褒めてくれました。そんな言葉を夫から聞いたのは、何年ぶりだったでしょう。私は不意に心が温かくなり、彼に微笑みを返しました。
翌朝、いつものように朝食を用意しながらも、どこか心がざわついていました。洋一さんは朝食を食べ終わった後、丁寧に食器を重ねて「ごちそうさまでした」ときちんとお礼を言ってくれました。夫には何度も「食器を重ねて」とお願いしたことがありましたが、習慣になったことはありません。そんな些細なことでさえ、私は洋一さんに感謝の気持ちを感じました。
生活が続くにつれて、私は洋一さんとの会話が自然と増えていきました。彼との会話はどれも心地よく、特にお互いの夫婦関係について話す時間は、とても貴重なものに感じました。夕食後、リビングでお茶を飲んでいた時に、私はふと「陽美さんとは普段どんな感じで過ごしているんですか?」と尋ねてみました。
洋一さんは少し考えてから、「陽美はすごくしっかりしているから、僕が家にいると逆に気を遣わせちゃうみたいなんだ。だから、なるべく自分のことは自分でやるようにしてるんだけど、たまにそれがかえって迷惑みたいでね」と苦笑いを浮かべました。その表情に、私は彼が普段どれだけ陽美さんを大切に思っているかが伝わってきました。
「そうなんですね。うちの夫はあまりそういうことを気にしない人ですから…でも、それが悪いわけじゃなくて、慣れなんですよね。そういう性格だと思えば何も気にしなくなります」と私は笑いながら答えました。本当にそう思っていたし、それが私たちの自然な形だと考えていました。しかし、洋一さんと話していると、なぜか胸の奥に小さな違和感が生まれてくるのです。
洋一さんは「歩美さん、もしかして少し寂しいと感じることがあるんじゃないですか?」と優しい声で言いました。その言葉に、私は一瞬ドキッとしました。まるで彼が私の心を見透かしているかのようでした。私は思わず目をそらし、熱いお茶を一口飲んで気持ちを落ち着かせました。
「そうかもしれませんね。でも、これが普通なんだと思っていました」と、私は思わず本音を漏らしました。洋一さんは黙ってうなずきながら、私の話をじっと聞いてくれました。その静かな態度に、私は少しずつ心を開いていったのです。
その夜も、私は洋一さんとゆっくり話をして過ごしました。彼は陽美さんとの生活の悩みを私に打ち明け、私もまた夫との日常の中で感じている些細な不満や寂しさを話しました。お互いの話を聞き合っているうちに、私は次第に洋一さんに心を寄せていることに気付きました。彼の穏やかな物腰や、些細な気遣いが、今まで私が忘れかけていた「誰かと一緒にいる心地よさ」を思い出させてくれたのです。
そして、あっという間に2日間が過ぎていきました。最終日の夜、私はどこか心の中で「このまま普通の生活に戻るのが嫌だ」と感じていました。まだこの関係を続けたい。そんな気持ちがふと胸をよぎりました。夕食を終えたあと、私は洋一さんに思い切って話しました。
「この2日間、すごく楽しかったです。また…こういう時間を持てたらいいなって思います」と、少し緊張しながらも、私の気持ちを伝えました。洋一さんは私の言葉に耳を傾け、しばらく何も言わずに黙っていました。その沈黙が私の胸を締め付けます。
やがて、洋一さんが口を開きました。「歩美さん、僕もこの2日間は楽しかったです。でも、僕たちはまた元の友達夫婦に戻ります。陽美とはこれからも仲良くしてやってください」と静かに言いました。その言葉を聞いた瞬間、私は何も言えなくなってしまいました。洋一さんはすべてを察していたのだとわかりました。そして、私がこれ以上踏み込んではいけない境界線が、そこにあることを、はっきりと示していたのです。
こうして、2日間の夫婦交換生活は終わりました。洋一さんが帰るとき、私は「また、いつでも遊びに来てくださいね」と笑顔で送り出しました。その言葉に嘘はありません。
そして夫が帰ってきて、またいつもの日常が戻ってきました。朝の食卓で、夫はいつもと変わらず新聞を広げ、「今日は寒いな」と言いました。その言葉に私は微笑みながら「そうね、少し風が冷たいわね」と応じました。変わらない生活。変わらない日常。それが私の人生だと、そう思い直していました。けれども、2日間で芽生えた恋心は、私の心の片隅にひっそりと息づいていたのです。この年齢で芽生えた気持ちは、この先忘れることはないだろうと感じています。