「今日、お礼もかねて、一緒に食事でもどうですか?」
成美のその言葉が耳に飛び込んできた瞬間、胸が高鳴った。目の前に立つ彼女が、かつての成美であることが信じられないほど美しくなっていたからだ。以前は、眼鏡をかけいつも背を丸め、みんなから隠れるようにしていた彼女。それが今、スラリとした姿で自信に満ちた微笑みを浮かべ、俺をじっと見つめている。
「え?」と、一瞬聞き返してしまった。何を言えばいいのか分からない。
「どうですか?」と、成美は柔らかくもう一度微笑む。
その笑顔に飲み込まれそうになりながら、ようやく声を絞り出す。「……もちろん、いいよ。」
心の中で何かが弾けたような感覚だった。あの日、俺が成美を助ける前までのことを思い出しながら、胸の鼓動がますます速くなるのを感じていた。
社員旅行の前まで、俺はずっと傍観者だった。43歳、会社ではそれなりのポジションにいるが、誰かを助けるほど勇敢でもないし、誰かを傷つけたいとも思わない。ただ、自分の仕事を全うするだけの、普通の会社員だ。成美がいじめられているのは知っていた。いや、知らないふりをしていただけだった。
成美は女性たちから陰湿ないじめを受けていた。彼女が太っていることを理由に、「丸美」と馬鹿にされ、笑い者にされていた。お局たちは本当に酷く、彼女の仕事を何かにつけて非難し、他の社員たちも見て見ぬふりをしていた。俺も同じだった。助けたいという気持ちはあったが、どう対処して良いかわからずそのままにしていたのだ。
だが、あの日、社員旅行で見た光景は、そんな俺を突き動かした。観光地の賑やかな風景の中、成美が一人ぼっちでベンチに座っているのが見えた。まるで、他の社員たちの楽しそうな笑い声から隔絶された存在のように、彼女は無表情でじっと下を向いていた。誰も彼女を気に留めていない。まるで、彼女がそこにいないかのようだった。その光景が、どうしても耐えられなかった。
気づけば、俺は彼女の元に駆け寄り、声をかけていた。
「成美さん、こっちにおいでよ。一緒に回ろう。」
成美は驚いた表情を見せた。長い間、誰にも声をかけられることなく、孤独に過ごしていたせいか、彼女の目には一瞬戸惑いが浮かんでいた。しかし、その後すぐに、彼女は控えめに微笑んだ。俺たちはその日、一緒に観光地を回った。成美は想像していた以上に明るく、よく笑う人だった。そのギャップに、俺は驚き、そして不思議な心地よさを感じた。彼女がいじめられている姿しか見てこなかった俺にとって、彼女の笑顔はどこか別世界のもののように思えた。
だが、旅行が終わると、それが全ての始まりだった。
昨日の一部始終をお局たちは見ていたのか、いつも以上に成美に対してのいじめが酷かった。そんな状況を見て見ぬふりは出来ず、思わず成美を助けてしまった。その時はお局たちはすごすごと引き下がっていった。成美からもお礼を言われ、それで終わったと思っていた。
ただ、成美は翌日から会社を休んだ。そして、それをきっかけに、お局たちの俺への嫌がらせが始まった。お局たちは、まるで標的を切り替えるように、俺に目をつけたのだ。些細なことだった。書類が俺だけ用意されていない、会議の資料が揃っていない。お茶を出す順番でも、俺だけが用意しないなどのどうでも良いようなことだった。だが、それくらいのことなら軽く受け流せた。成美のことを思えば、そんな些細ないじめはどうってことない。そう思っていた。
しかし、それは次第にエスカレートしていった。書類を意図的に紛失されたり、重要な連絡が俺にだけ伝えられなかったり。さらには、取引先からの重要な電話が故意に伝わらなかったせいで、数千万の契約が飛んだのだ。その時、部長に報告したが、お局たちに取り込まれている彼は、俺の話をまともに聞こうともしなかった。困っている俺を見てお局たちは楽しそうに会話していた。
だが、俺はすでに手を打っていた。彼女たちの仕打ちを黙って受けるつもりは毛頭なかった。
実は、成美がいじめられ始めた頃から、俺はずっと証拠を集めていた。成美への陰湿ないじめや、俺に対する嫌がらせ、そのすべてを記録していたのだ。小さな嫌がらせが始まるたびに、証拠を一つ一つ積み上げていった。そして、契約が飛んだあの日、もうこれ以上放っておけないと判断した俺は、部長ではなく直接社長の元へ向かった。
なんだなんだと社長は驚いていたが、このままでは会社が駄目になりますという俺の権幕に押され、話を直接聞いてもらう機会を作ることに成功した。社長室の扉を叩き、証拠をすべて見せた時、社長は一瞬絶句した。彼は一通りの証拠を確認し、深刻な表情で頷いた。「すぐに対応する」と言ってくれたその言葉には、確かな信頼感があった。
結果は早かった。お局たちは別々の部署に異動の辞令が出て、やがて自ら依願退職することになった。社長からは「よくぞ会社の癌を取り除いてくれた」と感謝の言葉さえもらった。
そしてその一週間後、入院していた成美が戻ってきた。以前とは見違えるほどに痩せて、まるで別人のように美しくなっていた彼女を見た時、俺は目を疑った。彼女は自信に満ちた表情で、俺に近づき、優しく微笑んだ。
「お局たちは、もういないよ」と俺が言うと、成美は少し頷いた。
「はい、聞きました。ありがとうございます。それを知って、ようやく戻る決心がつきました。あなたが守ってくれたおかげです。」
その言葉が胸に深く響いた。彼女を助けたこと、そして彼女が再び職場に戻ってきたことに、俺は小さな誇りを感じていた。助けてよかった、そう心から思った。
「今日、お礼もかねて、一緒に食事でもどうですか?」
まさか、こんな日が来るなんて。俺は自然と笑顔になり、嬉しさが胸に溢れてくるのを感じた。
「もちろん、いいよ。」
お局たちを排除して、これから人生うまく回るだろう。だが、最後に一つだけ話しておきたいことがある。
実は、あの数千万の契約は、最初からどうしようもなく失敗していた。取引先との関係が既に破綻していて、電話がつながらなかったことは本質的な原因ではなかったのだ。だが、その事実をお局たちの嫌がらせのせいにしたのは、俺の小さな「嘘」だ。
正直、自分でも少しは罪悪感もあった。だが、成美の笑顔を見た瞬間、それもどうでもよくなった。まあこれくらい、あいつらがした事への罰として許してもらえるかなと一人で自分を納得させていた。