「ねえ、桃子さん、和弘さんと交換してみない?」
真澄さんがそう言った瞬間、あたりの空気がピリッと張り詰めました。いつもと変わらず、私たち夫婦と岡田夫妻は、リビングのテーブルを囲んでいました。ワインのボトルが半分ほど空になり、真澄さんの頬は赤く染まっていましたが、その目はどこか真剣さを湛えていました。
冗談だと流そうと思いましたが、その視線の奥にかすかな熱が宿っているように見えて、私はつい言葉に詰まりました。隣では夫が戸惑いの表情を浮かべていましたし、謙太さんも気まずそうに苦笑いをしていました。でも、真澄さんは軽く笑いながらも、私の目をじっと見ていました。私は思わず、「いいかもね」と冗談ぽくですが返事をしてしまいました。お酒のせいだったのでしょうか。その一言が、私たち4人の関係を静かに揺さぶることになるとは、そのときは思いもよらなかったのです。
私の名前は桃子です。40歳を少し過ぎたばかりの、ごく普通の主婦です。夫とは、まだ20代前半のころに結婚しました。あの頃、私たちは未来に対して夢を膨らませ、希望に満ちていました。新しい生活にワクワクしながら、不安と期待が入り混じる日々を送っていましたが、気づけば子育ても終わり、15年以上があっという間に過ぎ去っていました。あの頃の忙しさ、そして充実度はすっかり過去の遺物となり、毎日の生活の中に埋もれているような気がします。
岡田夫妻と出会ったのは、地元の小さな公園でのことでした。ベンチに座り、夫と二人で息子の遊ぶ姿を眺めていると、隣に同じように子供を見守る夫婦がいました。謙太さんと真澄さんです。彼らも私たちと同じように若くして結婚し、小さな娘さんを抱えていました。あの日、うちの息子と彼らの娘が一緒に滑り台で遊び始めたのが、私たちの交流のきっかけになりました。
「すみません、うちの子、人見知りなんですけど、今日は珍しく…」と、真澄さんが笑いながら話しかけてきたのが始まりでした。真澄さんは明るくて親しみやすい人で、彼女の笑い声が公園に響いていたのを今でも覚えています。謙太さんは控えめで穏やかな性格で、静かな笑顔が印象的でした。
それからというもの、私たちは週末に一緒にピクニックをしたり、子供たちを遊ばせたりするようになりました。最初は公園でのお茶会でしたが、そのうちお互いの家を行き来するようになり、家族ぐるみの付き合いが自然と始まりました。ある日、ピクニックで謙太さんが手作りのサンドイッチを持ってきたとき、真澄さんが「うちのパパ、こういうの作るの好きでね」とちょっと誇らしげに笑っていたのが印象的でした。私たち4人の距離は、少しずつ縮まっていきました。
子供が高校に上がり、やがてそれぞれの進路に進んで家を離れていった後も、私たちは変わらず付き合いを続けていました。月に一度はどちらかの家に集まって、夫婦4人だけの飲み会を開くのが習慣になっていました。ワインや日本酒を片手に、仕事や家庭の愚痴を語り合ったり、子供たちの成長を懐かしんだりする時間が、心地よかったのです。夫は焼酎を愛し、謙太さんはウイスキーを好みました。真澄さんと私は、新しいワインを見つけては一緒に楽しむのが小さな楽しみでした。
ですが、あの夜のことがあってから、何かが少しずつ変わり始めました。数日後、真澄さんからメッセージが届いたのです。「この前の話、本当に試してみない?」と。それは、軽く流したはずの冗談が、現実味を帯びて私の心に波紋を広げていくような感覚でした。
そして、とうとうその日が来ました。夫と真澄さんは美術館巡りに出かけ、私は謙太さんとカフェでお茶をすることになりました。夫が出かけるとき、玄関先で「行ってくるよ」と言った言葉に、いつもと変わらない笑顔がありました。でも、その奥にかすかな緊張と不安も感じました。私も「行ってらっしゃい」と返したものの、心の中は落ち着かず、何かを失いかけているような不安がありました。
カフェで謙太さんと向き合うと、胸が高鳴るのが自分でも分かりました。小さなカップから立ち上るコーヒーの香りが、やけに濃く、空気に漂っているように感じられました。謙太さんは穏やかに微笑んで、私の話に耳を傾けてくれました。普段は夫としか話さないようなことも、彼とは自然に話せました。他愛のない会話が懐かしく感じられました。
ふと、昔の自分が蘇ってくるような感覚がありました。新しい友人と心を通わせた頃のことが、心の奥で淡い記憶となって浮かんできたのです。でも、今の私は何をしているのだろう?そんな自問が胸を締め付け、罪悪感が心に影を落としました。謙太さんも同じように思っていたのか、彼はポツリとつぶやきました。「あの話、本当に冗談だと思ってたんだけど…」。
その言葉に、私たちが踏み込んでしまった一線を初めてはっきりと感じました。ふたりの間に漂う空気が、少し冷たく感じられました。
その日の夜、また4人で集まりました。いつものように飲み会をしましたが、心の奥にある微妙な緊張感が、いつもとは違う重さを持って漂っていました。お互いにデートの話を笑いながら報告しましたが、笑い声の裏には言葉にできない思いが隠れているのを誰もが感じていたはずです。
もちろん体の関係はなかったのです。でも、心の中で何かが変わり始めていました。夫婦としての絆を確認するように、私は夫の手をそっと握りました。それでも心の奥には、揺れ動く気持ちが静かにざわめいていました。
「これから、どうするのだろう…」リビングで夫の横顔を見つめながら、私は心の中でつぶやきました。笑っている彼の顔も、隣で真澄さんと楽しそうに話す姿も、その隣で穏やかに微笑む謙太さんも、みんなが同じように迷っているように見えました。
リビングの照明がぼんやりとした光を落とし、夜が更ける中、時計の針だけが静かに時を刻みました。次の一歩をどう踏み出すべきか、私たちは誰も答えを見つけられないまま、ただその時間をやり過ごしていました。けれど、胸の中に広がる波紋は、止むことなくじわりと広がっていきました。その夜の終わりが、何かの始まりになるのか、それともこれまでの関係に戻るのか――その答えは、まだ誰も知らないのです。