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闇への誘惑

いつまでも若く感動純愛

真司が仕事帰りにいつもの橋を自転車で渡っていると、ふと視線の先に気になるものがあった。対向車線の歩道で、暗い川を見下ろしながら、欄干に手をかけて川を眺めている女性がいた。今にも身を乗り出しそうな女性の横には、小さな乳母車が寄り添うように止まっていた。夜風が冷たく吹き抜ける深夜、こんな時間に赤ん坊を連れているなんて、どこか異様な光景だった。

「なんだろう、あんな所で…」真司の胸に、嫌な予感がひたひたと広がる。橋を渡り切り、背中に冷たい汗がにじむのを感じて、思わず対向車線にわたり、来た橋を引き返した。冷たい夜風が顔を打ちつけるように吹きつけてくる中、彼女が橋の上で立ち止まり、乳母車に手を伸ばそうとするのが見えた。その動きはゆっくりで、何かを決意したように見えた。

「ダメですよ!」と、真司の声が響いた。思わず声を張ったために、その響きが夜空に消えていく。女性はびっくりしたように肩を震わせ、こちらを振り向いたが、乱れた髪のせいで表情はよく見えない。真司は急いで彼女に駆け寄り、息を切らしているのを感じながら、彼女の顔に目を凝らした。彼女の頬が少し赤くなっているのは、冷えた風のせいだけじゃないかもしれない。手はかすかに震えている。

真衣の目が一瞬だけ真司の方に向けられたが、すぐに伏せられた。その瞳の奥に、どこか遠くを見つめているような、暗い影が見えた。それはまるで、希望の光を失ってしまったかのような目だった。

その時、真司は自分でも驚くほど自然に言葉を投げかけた。「すいません!今から飲みにでも行きませんか?」ナンパなんてしたことがない自分が、こんなことを言うなんて。でも、彼女を安心させるためにできる最善がそれだった。

彼女は一瞬きょとんとしたような顔をしていたが、やがてふっと小さく笑った。その笑みは、どこかかすかで、不安定で、けれど確かに真司の心に届いた。真司は彼女を少しでも安心させようと、まずは近くのコンビニへと誘った。コンビニの明るい照明が、冷たい夜の空気をわずかに和らげるようだった。真衣と名乗った彼女と共に店の前に着くと、明るい光の下で初めて彼女の顔がよく見えた。頬には痛々しい痣が浮かんでいた。その痣を見た瞬間、真司の胸に何とも言えない怒りと痛みが押し寄せる。「どうしてこんなことに…」と心の中で呟きながら、真司は言葉を飲み込んだ。

彼女の震えが少しずつ収まっていくのを見届けながら、真司は公園のベンチに座り、彼女に温かい飲み物を手渡した。「何かあったんですか?」と、彼女の表情を気にかけながら優しく問いかける。しばらく沈黙が続いたが、やがて彼女は小さな声で語り始めた。

彼女の名前は真衣。夫からの暴力に耐えきれず、夜の街を彷徨っていたという。頼る人もなく、いつの間にか子どもを抱えて橋の上に立っていた。真司に話している間、真衣の目が何度も遠くを見つめていた。彼女の語る声はかすかに震えていたが、どこか淡々としていた。

「最初は、もっと優しい人だったんです…」と彼女はぽつりと呟いた。真司の視線は、彼女の顔にじっと注がれた。「でも、仕事を辞めてから、酒に逃げるようになって、私に手をあげるようになりました。それでも、いつか元に戻るかもしれないって…ずっと思っていたんです。でも、違った。どんどん酷くなっていって…」

真衣は自分の言葉をそこで切った。声が詰まり、目の奥に涙が光る。それでも、彼女は何とか涙をこらえようとした。「それで、今日、逃げることに決めたんですか?」と真司が尋ねると、彼女は小さくうなずいた。「でも、逃げた先でどうしたらいいのか、わからなくて…。結局、あそこに立っていました」と、真衣は震える声で続けた。

その時、乳母車の中から男の子の声がした。彼はもうすぐ3歳になる男の子で、翔ちゃんというそうだ。「ママ、ここどこぉ?」と眠そうに目をこすりながら尋ねる彼に、真衣は小さく微笑んで「ここはね、公園だよ」と答えた。その笑顔を見たとき、真司は彼女を放っておけない気持ちがますます強くなった。「翔ちゃん、おじさんと一緒にお菓子買いに行こうか」と真司が声をかけると、翔ちゃんは満面の笑顔で真司の手を握り返した。

コンビニで食料を買い込み、真司は真衣に提案した。「こんなままじゃいけないです。うちに来てください。安心できる用心棒がたくさんいますから!」と軽く冗談を交えながら彼女を家に誘った。真衣は最初はかなり戸惑っていたが、真司の一生懸命さと手の温かさに、少しずつ気持ちをほぐしていくように頷いた。

数分歩いて家に到着し、ドアを開けると、5匹の飼い犬たちが一斉に出迎えた。犬たちは元気よく吠えながら、翔ちゃんと真衣の足元に駆け寄ってきた。翔ちゃんは驚いて目を丸くし、犬たちに囲まれてもみくちゃにされながらも、笑顔を輝かせた。

「キャッ!」と声を上げながらも、真衣もその様子に思わず笑みをこぼした。それは、彼女の心の中に初めて差し込んだ温かい光のように見えた。翔ちゃんが喜びながら飼い犬たちを撫でてくれ、犬たちも楽しそうに尻尾を振って応える。真司もその光景を見て、胸の中がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。

犬たちに遅くなったご飯を与え、ようやく一息ついた後、真衣は自分の話を少しずつ語り始めた。真衣の夫は、仕事もせず、酒に溺れて毎日のように暴力を振るう男だった。そして彼女の両親はすでに他界していて、相談できる相手もいなかった。真司はその話を聞いて、胸の中に抑えきれない怒りが湧き上がってくるのを感じた。「僕に任せてください」と強い言葉で言った。

「でも、あの人は怖いから…」と彼女がためらいがちに言うのを見て、真司は自分の名刺を差し出した。「実は、僕は弁護士なんです。困っている人を見過ごすのは、どうにも苦手で」と、少し照れながら笑った。「それに、ほら、ここには優秀なボディーガードがたくさんいますから!」と冗談を言うと、真衣はほんの少し笑顔を返してくれた。

翌日、早速警察に被害届を提出し、先輩の弁護士、検察にも連絡し考えうるすべてのことを実行した。始めは離婚を渋っていたが、少々強引な手法を使って離婚させたことは真衣さんには内緒だ。

それから数か月が過ぎ、真司の家には真衣と翔ちゃんの笑い声が響くようになっていた。真衣は今、真司の弁護士事務所でパートナーとして働き始め、忙しくも充実した日々を過ごしている。彼女は優秀で、今まで一人で運営していた事務所のダメなところがみるみる改善させていった。事務所の窓から見える風景は、真司にとって新しい希望の象徴だった。

いつの間にか彼女の笑顔、優しさが真司にとって必要不可欠な存在になっていた。ある日、真司は心を決め「今度こそ、俺の本当の気持ちを伝えよう」と。夕暮れ時、庭で翔ちゃんが犬たちと遊んでいるのを見つめながら、真司はポケットの中に隠した小さな箱を握りしめた。夕日が二人を包み込み、真衣の横顔が柔らかな光の中で微笑んでいる。

「ねえ、真衣さん…」と真司が声をかけると、彼女がふり向く。その瞬間、真司の心臓が早鐘を打つように高鳴り、彼は自分の気持ちをはっきりと感じた。「僕に翔ちゃんのお父さんにならせてくれないかな?もちろん君の夫にも」と、力強く宣言し、彼はポケットの中の小さな箱を取り出した。それは、橋で出会った三人の新しい生活の始まりだった。

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