妻の亜紀が無言でため息をつく。その瞬間、15年の結婚生活が急に重たく感じられた。視線を合わせないまま、僕たちはただ同じ空間にいる。それが今の日常だった。
結婚当初は、些細なことにも笑い合い、未来を語り合ったはずだった。でも、いつの間にか僕らの間には見えない壁が立ち、目の前にいるのに遠く感じるようになってしまった。僕は、毎朝の朝食から洗濯、家の片付けまで、彼女が少しでも快適に過ごせるように心を砕いていた。彼女に不満を抱かせないように、いつだって気配りは怠らなかった。
だが、最近の亜紀はいつも不満げな顔をしている。まるで僕の存在が見えていないかのようだ。僕の努力も、心遣いも、彼女にとっては「当然」と思われているのかもしれない。気づけば、彼女のために用意した温かい食事も、言葉少なに片付けられるだけの日々。積み重ねてきたものが無意味に思えてくる瞬間が増えた。
「何が不満なんだ?」と心の中で問いかけながらも、口には出せない。そうして黙り込むたびに、亜紀もまた何かを言いたげに目を伏せるが、結局何も言わずにその場を去っていく。お互いに何かを飲み込んでいるような、どこか淀んだ空気がリビングに漂っていた。
そんな日々が続き、ある日、彼女がふいに「離婚を考えているの」と言い出した。言葉が耳に届いた瞬間、リビングの景色が一瞬で色を失うような感覚に襲われた。離婚?彼女が本気でそんなことを考えていたなんて…いや、もしかすると僕だけが目を背けていたのかもしれない。
その夜、僕は深く息をつきながら、暗いリビングで独り頭を抱えた。何とかこの状況を打開する方法はないかと、思考を巡らせてみる。彼女に、僕の気持ちを理解してもらうにはどうすればいいのか。気づけば、僕も心のどこかで「妻は僕の気持ちなんて何もわかるはずがない」と思い込んでいたのかもしれない。
いろいろと考えあぐねた末、ふとある突飛なアイデアが浮かんできた。
「夫婦交換を3日間だけしてほしい」。その言葉を口に出した瞬間、自分でも正気の沙汰じゃないと思った。だが、それでも亜紀に「僕の気持ち」をわかってほしかった。日々どれだけ気を配り、どれだけ彼女を大切にしているか、僕がいなければどんな寂しさが待っているか、どうしても伝えたかった。
交換相手として思いついたのは、共通の友人である真美子さん夫妻だった。妻は知らないが彼女の夫は我がままな男だ。わざわざ選ぶ相手としては最悪かもしれないが、だからこそ、僕の存在のありがたさを彼女が再認識してくれるかもしれない。これが、僕の最後の賭けだった。
翌朝、思い切ってその提案を亜紀に話してみた。彼女は目を見開き、言葉を失っていた。「本気で言ってるの?」と小さな声で尋ねるその瞳には、わずかな戸惑いと不安が混じっている。「離婚するなら、最後にそうしたい」僕が真剣な顔で頷くと、亜紀は何かを感じ取ったのか、ためらいがちに「…わかった」と承諾してくれた。
そして翌日、3日間の交換生活が始まった。
初日から、亜紀からの電話が鳴った。昼過ぎ、慣れない環境の中で不安を隠しきれない声だった。「彼、全然話を聞いてくれないんだけど」何気ない会話すら弾まないことへの苛立ちが滲んでいたが、僕は「それは大変だけど、今は彼が夫だからちゃんと話してみて」とだけ返した。彼女が僕との違いに気づくための第一歩だと思うと、気の毒に思いながらもどこか安堵もしていた。
夜になると、再び電話が鳴った。声のトーンはさらに暗い。「帰ってきたかと思ったら、すぐに友達と飲みに出かけちゃって…」
「そっか。もう少しの辛抱だ」とだけ言って、通話を切った。
2日目の夜、亜紀からの電話が鳴った。電話越しに聞こえる彼女の声はかすれ、今にも泣き出しそうだった。「…もう、限界かも」
「頑張れ。あと一日だけだから」
僕は心を鬼にして、冷たく突き放した。優しい言葉をかけたい気持ちは山々だったが、ここで甘やかしては何の意味もない。彼女が本当に理解するためには、この苦しみを乗り越えてもらうしかなかった。亜紀は短く「わかった」と答えたものの、電話が切れた後、胸の奥に針を刺されたような痛みが残った。
最終日、彼女が帰宅したとき、その顔は疲労と苛立ちに満ちていた。普段の穏やかさがどこかに消え失せ、影のある表情で僕の方を見つめた。次の瞬間、彼女はふいに僕に抱きつき、小さな声で「ごめんなさい…」と呟いた。
「あなたが私のためにしてくれていたこと、何もわかっていなかったのかもしれない」と、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。「毎日、何も言わずに支えてくれていたのに、当たり前だと思ってた。でも…あの人と過ごした3日間のおかげで、ようやくわかったわ。今までありがとう」
僕はそっと彼女を抱きしめ返し、静かに背中を撫でた。亜紀の温かい体温が伝わってくるたびに、今までのわだかまりが少しずつ溶けていくような気がした。彼女の謝罪は予想以上に素直で、そして何よりも、心からのものだった。
僕はこれまでずっと、彼女の不満に苛立ち、ただ「理解してくれない」と思っていたが、ふと気づいた。もしかすると、彼女もまた孤独だったのかもしれない。僕の気配りや心遣いに、彼女が感謝を示さないことに腹を立てていたけれど、それは彼女なりの「もっと分かり合いたい」という叫びだったのかもしれない。彼女が気づいたように、僕もまた初めて気づかされたのだ。
こうして、離婚の話は自然に消え去り、僕たちは夫婦として新たな一歩を踏み出すことができた。翌朝、リビングでコーヒーを淹れていると、亜紀がキッチンのドアに寄りかかりながら僕を見つめていた。
「…ありがとう」と、彼女は小さく微笑んだ。その表情はどこか安堵に満ち、温かいものが僕の胸の奥に広がっていく。僕はそっと彼女の隣に寄り、湯気の立つマグカップを差し出した。
湯気の向こうで彼女が微かに微笑む。その微笑みが、「これからも共に歩いていける」という小さな希望の光に見えた。この手を、今度こそ、どんなに苦しい時も離さずに歩んでいこう。リビングの光が、彼女と僕の影を優しく包み込んでいる。その光の中で、もう一度、僕たちは手を取り合った。
完璧な夫婦にはなれないかもしれない。それでも、不完全なままでも共に歩む道があるなら、それでいい。