長距離トラック運転手をしている剛の生活は、過酷な生活そのものだった。一度家を出ると一週間近く帰れないことも珍しくなかった。深夜の高速道路のパーキングで仮眠をとりながらぼんやりとラジオを聞く毎日。たまに家に戻っても誰もいない空間が迎えるだけだった。当然家も片付けられずゴミも捨てられず散らかっていく。床に溜まる埃や散らかった荷物を見ても、片付ける気力すら湧かない。それは、ただの乱雑さ以上に、彼の心の中を象徴しているようでもあった。
以前は、近くに住む母親が定期的に片付けに来てくれていたのだが、そんな母も先月施設に入ることになり、剛は完全に一人になっていた。自分ではどうにもならない現実を前に、彼は呟くように言った。
「もう、どうしようもないな……」
そんなある日、職場の仲間が何気なく提案してくれた。
「家事代行サービスとか使ってみたらどうだ?最近、結構流行ってるぞ」
最初は気乗りしなかったのだが、思い切って依頼してみることにした。そして数日後、彼の家を訪ねてきたのは、控えめな雰囲気をまとったアラフォーの女性、香織さんだった。肩より少し下で整えられた髪、控えめな笑顔。淡い色のカーディガンが柔らかい印象を与える。
「全般的に掃除をしていただけると助かります」
剛が少しぎこちなく指示を出すと、香織さんは「はい、わかりました」と小さな声で答え、丁寧に作業を始めた。
掃除機がカーペットを吸う音、キッチンから響く水音、雑巾を絞る湿った音……それらが家中に響く。長い間、無音の空間に閉じ込められていた剛の家が、生き返ったように感じられた。剛はソファに腰掛けながら、掃除をする香織さんの動きを無意識に目で追っていた。動きは実直で、無駄がない。それなのに、どこか穏やかさがある。ふと、彼は気づいた。
「俺、こんなにも生活音を心地よく感じたこと、あっただろうか……」
それから香織さんには定期的に来てもらうことになった。半年が過ぎる頃には、最初は必要最低限の会話だけだった二人の間に、少しずつ雑談も増えていき家に帰り来てもらうことが楽しみになっていた。
「トラックの運転手ですか?」
「まあ、慣れたけどね。長時間運転してると、腰とかきついし、何日も家に帰れないのがしんどいかな」
「そうなんですね。でも、すごいですね。私は運転が苦手で、遠出なんて考えただけで怖いです」
香織さんの声は穏やかで、その一つ一つが剛には不思議と心にしみるようだった。彼女が掃除をしている間、家の中に漂う静かな安心感。そのひたむきな姿を見ていると、剛はふと「こういう時間も悪くないな」と思うようになった自分に気づいた。ある日、剛は感謝の気持ちを込めて、香織さんを食事に誘った。
「今までのお礼に、よかったら外で食事でもどうですか?」
驚いたように目を見開いた香織さんだったが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべて首を横に振った。
「いえ……でしたら、私が作ります。剛さん、普段きちんとしたご飯、食べていないでしょう?」
その日の夕方、香織さんがエプロン姿で彼の家にやってきた。彼女がキッチンで包丁をリズミカルに動かし、鍋から香ばしい匂いが立ち上る。剛はその後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。「これで全部です。それと……ワインもお好きでしたら」
香織さんが差し出したグラスを受け取り、二人はゆっくりと食事を始めた。ワインが進むにつれて、控えめだった香織さんが少しずつ饒舌になり始めた。彼女が剛に、自分のことを語るのは初めてのことだった。
「実は……私、誰かとお付き合いしたこと、一度もないんです」
グラスを握る香織さんの指がわずかに震えていた。その言葉に、剛は一瞬驚きながらも、彼女の純粋さに心を打たれた。
「そうなんだ……でも、良い人がいなかったってだけでしょ?むしろ、香織さんらしい気がするな」
剛の言葉に、香織さんはほっとしたように微笑んだが、次第に酔いが回り、椅子にもたれるようにして静かに寝てしまった。剛が起こしても完全に寝てしまい起きなかった。仕方なく彼女をそっと抱き上げ、ベッドに運んだ。その小さな体を布団で包みながら、心の中でふと呟く。
「こういう風に誰かを気遣うのは、久しぶりだな……」
翌朝、目を覚ました香織さんがソファで寝ていた剛を起こして、真っ赤な顔で「ご迷惑をおかけして……!」と慌てふためいていた。その様子に剛は思わず笑ってしまう。
「全然大丈夫だよ。それより、昨日の料理、本当に美味しかった。ありがとう」その言葉に、香織さんの表情がほんのりとほころんだ。
その日を境に二人の関係はさらに親密になった。荒れた部屋には少しずつ温かみのある生活の気配が増えていき、剛は「一人でいる寂しさ」が薄れていくのを実感していた。
そしてある日、香織さんが仕事を終えて帰り際、ドアの前で小さな勇気を振り絞るように言った。
「剛さん、あの……もし迷惑じゃなかったら、今夜も一緒にご飯を食べながら、お話してもいいですか?」
香織さんの声は少し震えていたが、その目には真っ直ぐな思いが宿っていた。
その言葉に剛は少し驚きながらも、嬉しそうに頷いた。
「もちろん。」
その夜、二人はいつも以上に深く語り合った。香織さんはお酒が入ると饒舌になり色っぽくなる。そっと剛に寄り添い、剛も自然と彼女の肩を抱き寄せた。
香織さんの頬が赤く染まり、剛のことを見つめていた。その瞬間、二人の間に漂う空気がそっと変わった。迷いはもうどこにもなかった。静かに、二人は初めてのキスを交わした。そして剛は経験の無い彼女を優しくリードし二人は結ばれた。
剛の荒れ果てていた部屋には、観葉植物が一つ置かれるようになった。それは香織さんが気に入って持ってきたものだ。何気ない生活の一コマに、剛はふと気づく。
「ただいま!」
迎え入れてくれる香織さんの笑顔が、荒れ果てた部屋は次第に明るく綺麗に変わり、そこには温かな日常が満ちていた。それは、香織さんという存在がもたらした、新しい風景だった。