助手席のドアを閉める音が、妙に大きく聞こえた。エンジンが低く唸りを上げ、車内には私と孝弘さん、二人だけの静けさが広がる。ほんの数時間前まで家にいた夫の顔が、ふいに頭に浮かんで消えた。自分の心臓の音がやけに響く。隣では、孝弘さんが真剣な眼差しで前方を見据えている。ハンドルを握る手が、しっかりと安定しているのが目に入った。変わらないな……そう思った。そして、その「変わらなさ」が、同時に私を不安にさせる。変わっていないのは、彼の態度だけではなかったからだ。
「準備はいい?」彼が視線を外さずにそう言った。助手席のシートに体を落ち着けたつもりだったが、胸の中のざわつきがどうにも治まらない。「うん、大丈夫」なんて言いながら、自分の声が震えているのがわかった。
車は静かに動き出し、いつもの町並みが窓の外を流れていく。だけど、いつもの風景がどこか違って見えるのはなぜだろう。気持ちが、現実から少し浮かび上がっているような感覚。非日常の入り口に立たされている……そんな感覚だった。
助手席に座る私の手は膝の上で固く握られていた。ふと隣を見た。孝弘さんの横顔は穏やかだけど、どこか少し緊張しているようにも見える。髪に少し白いものが混じっているのに気づき、胸がざわついた。時間が経っても、私たちの間にある何かは、完全には消え去らなかったのだろうか。
「孝弘さん。」車内の沈黙の中、私は彼の名前を心の中で呼んでみた。声に出すことはできない名前。私にとって、彼の名前は、心の奥深くにしまい込んだ箱の中にある。取り出してはいけないもの。でも今、その箱の鍵が少しずつ開いていくのを感じた。この状況は、あまりにも突然すぎた。
奈美恵さんが夫婦交換の提案をした日のことは、今でも妙に鮮明に覚えている。彼女はワインのグラスを手に持ちながら、どこか軽い口調でこう言った。「ねえ、たまにはこういうのもいいと思わない?非日常っていうか、普段と違う景色を見るって、大事なことだと思うのよ。」その瞬間、場の空気が一瞬止まった。夫が笑顔で「いやいや、冗談でしょ?」と言ったのを聞いて、私もほっとした。けれど、奈美恵さんの目は冗談を言っている目ではなかった。「本気よ」と言いながら、グラスの縁を指でなぞる彼女の仕草がどこか寂しげに見えた。
私がトイレに向かうと、奈美恵さんがひとりで鏡を見つめていた。ふと私に気づくと、彼女は小さく微笑んで、「ねえ、あなたの旦那さんって素敵よね」と言った。突然のことに驚いて、「まあ、そうね」と答えるのが精一杯だった。すると彼女は、少しだけ視線を落としてからこんなことを言った。「孝弘って、昔から真面目でしょ。結婚しても変わらないの。いいことなんだけど、でも……時々、何を考えてるのかわからなくなるのよ。」その声には、かすかな寂しさが滲んでいた。
「あの提案、変だと思った?」とそう聞かれたとき、私はどう答えていいかわからなかった。ただ、彼女が何かを変えたがっているのは、はっきりと伝わった。彼女の夫婦関係の中にある見えない亀裂が、彼女をあの提案に駆り立てたのかもしれない……そんな気がした。奈美恵さんが「夫婦を交換してみない?」という言葉を口にした瞬間から、私の心はざわめき続けている。驚き、戸惑い、そして……そう、心のどこかで少しだけ高揚している自分がいるのだ。
本当は、孝弘さんがこの車を運転していること、それ自体が私の心を揺らしている原因だった。彼と二人きりになるのは、どれくらいぶりだろう?思い出そうとするだけで、過去の記憶が次々と蘇る。彼は私の夫ではない。だけどかつて、私の大好きだった人。夫も奈美恵さんも、そんな過去があったことを知らない。知っているのは私と孝弘さんだけ。だからこそ、この状況が特別に感じられてしまう。そして、その特別さを、私は否定できずにいる。その記憶を振り払うように、私は窓の外に目を向けた。景色が目まぐるしく流れていく。けれど、流れる風景を見つめていても、心の中で蘇るのは過去の風景だった。
孝弘さんのバイクの後ろに乗っていたあの頃の記憶。それは鮮烈で、いつまでも私の中に残っている。あれは、夏の終わりの夕暮れ時だった。空がオレンジ色に染まり、涼しい風が背中に心地よく触れる季節だった。私は彼の背中にしがみつきながら、風景がどんどん後ろへ流れていくのを感じていた。「どこに向かっているの?」と聞くと、彼は振り返らずに「俺についてくればいい」とだけ言った。その無邪気な笑顔が、風越しにちらりと見えた。それだけで、その時の私は何もいらなかった。行き先なんてどうでもよくて、ただ彼の背中だけを見つめていれば、それで十分だった。だけど、その日の帰り道、彼の声が少しだけ低く沈んでいた。「このまま、ずっと一緒にいられたら…」唐突にそんなことを言われて、私は何も答えられなかった。ただ、バイクを降りる瞬間、私たちの間に一瞬、何かが壊れる音がした気がした。それが私と孝弘さんの別れの始まりだったのかもしれない。理由は言われなかった。けれど、彼の家の事情や仕事、将来のこと……そんなものが、私たちの間に静かに立ちふさがっていたのだと思う。
その日の記憶を思い出すたびに、私は胸がきしむような感覚を覚える。あの時、彼に「どうして?」と聞けなかった自分を責めることもあった。でも、もう遅い。そう思っていたのに、今、彼が隣にいる……20年前と同じように。何も言わないで、ただ運転席で前を見ているその横顔が、私の中で壊れたはずの記憶を再び繋ぎ合わせていくようだった。
「嫌じゃなかった?」隣から聞こえた孝弘さんの声に、私はハッと現実に引き戻された。彼は、フロントガラスの向こうを見つめたまま言った。その問いかけが何を意味するのか、すぐには理解できなかったけれど、私は言葉を選びながら答えた。「少し戸惑ったけど、今は新鮮で悪くないかも。」自分でも驚くほど素直な言葉が口をついて出た。
彼は小さく笑った。「そっか。それならよかった。正直、俺も最初は戸惑ったけど……まさか奈美恵がこんな提案するなんてビックリしたよ。」
私はその言葉に少し驚いた。「どういうこと?」と聞き返すと、彼は少し黙り込んでから言った。「たぶん、奈美恵は今の夫婦関係のままじゃいけないって思ってるんだと思う。お互い、もう少し新しい風が必要なんだろうって。」
その言葉を聞いて、私は胸がざわついた。それは、私自身が抱えている気持ちと重なるように感じたからだ。夫との生活は穏やかで、問題があるわけではない。でも、どこか物足りなさが心の隅にあった。きっと、孝弘さんも同じなのだろう。
旅館に着くと、私たちを出迎えたのは夫と奈美恵さんだった。夫は笑顔で「どうだった?」と私に聞いた。私は「新鮮な気分だったかな」と答えた。その答えに嘘はなかった。でも、本当の気持ちは言えない。夫の視線を避けるようにして、私は早足で部屋へと向かった。その夜、奈美恵さんはさらに大胆な提案をしてきた。「今夜はこのまま交換して過ごさない?」その言葉に、一瞬場の空気が凍りついた。夫が私の方を見た。その視線を受けながら、私は必死に微笑みを作り、「…そうね、それもいいかも」と答えた。
部屋を移動するとき、私は足が少し震えているのを感じた。孝弘さんと二人きりになった瞬間、昼間とはまた違った緊張感が漂った。彼の気遣いと穏やかな態度に触れるうちに、私は少しずつ心を開いていった。過去の記憶が、胸の奥で静かに騒ぎ出していた。
夜が深まる中で、私はふと感じた。忘れていた「女性としての自分」が、少しずつ目を覚ましつつある……そんな感覚だった。孝弘さんと話を重ねる中で、かつての自分を思い出し、それと同時に、今の自分との違いに戸惑いを感じた。「良いのか?」孝弘さんが緊張した面持ちで訪ねる。「うん…」夜が深まる中、私たちは戸惑いながらも20年前のあの頃に戻り、そしてそのまま二人は夜の闇に呑まれていった。
翌朝、朝食の席で、私たちは何事もなかったかのように笑い合っていた。でも、心の中では誰もがそれぞれに何かを抱えている。家に戻る車の中で、夫が私に聞いた。「どうだった?」私は少し微笑みながら、「悪くなかったよ。でも少し疲れたかな」と答えた。その言葉には、嘘も真実も、どちらも含まれていた。
家に戻り、夫と寄り添う夜。私は自然と涙が流れてきた。その涙が何を意味していたのかは、自分でもはっきりとはわからない。ただ一つ言えるのは、私たち夫婦の間に、どこか新しい風が吹き込んでいる……それを感じずにはいられなかった。