私の名前は幸雄と言います。67歳です。現在私は退職してから自営業をしています。私の強みは会社員時代の知識です。長年勤めたことで経験があり、今はその知識を活かして企業向けのコンサルタントをしています。妻ののり子は64歳。結婚してからもう四十年以上が経ち、今ではお互いにほとんど会話を交わすこともなくなっています。ただ、私は毎日決まった時間に起きて仕事に行き、帰宅する。そして、のり子も同じように朝から晩まで家事をこなす毎日です。お互い、特に何を話すわけでもなく、ただ日々を過ごしているという感じです。そうした日常が続くうちに、私たちの関係は完全に冷え切ってしまったように思えます。ある日のことでした。私はいつものように仕事から帰宅しました。のり子は夕食の準備をしている最中でしたが、どこか気まずい空気が漂っていました。その日の小さなことで口論になり、言い争いがエスカレートしてしまいました。理由は些細なことだったのですが、どうしても譲れない点があり、私はつい強い言葉を使ってしまいました。その結果、言い争いは長引き、気づけば何日もお互いに口を利かないままで過ごしていました。若い頃は割とすぐに仲直りできたものですが、歳を取ると頑固になってしまうものですね…。これは反省しなければならないことだとわかっているのですが、中々直すことができません。内心は謝らないとなってわかっているんです。その方が丸く収まるので。でも彼女を目の前にした時、素直に「ごめんなさい」が言えないんです。だから硬直状態がずっと続いたのです。
その数日後、私はふと昔のことを思い出しました。そういえば、のり子と出会った場所があるなと。それは、私たちが初めて出会った公園でした。あの頃のことを考えると、あんなに無邪気に笑い合っていた日々が、今では遠い思い出のように感じられます。
私は思い立ったように、その公園に行ってみることにしました。あの場所には、今でも変わらぬ景色が広がっているはずだと思ったからです。到着してみると、確かに公園は変わっていませんでした。木々が並び、風に揺れる葉の音が心地よく響いています。そして、ふと目を向けると、あの頃のことが鮮明に思い出されました。
あの日、私はその公園を通りかかったときのことをよく覚えています。のり子はベンチに座り、本を読んでいたのです。彼女は小柄で、落ち着いた雰囲気を持つ女性でした。その瞬間、私は何気なく声をかけたのです。
「こんにちは、何を読んでいるんですか?」
それが、私たちの出会いのきっかけでした。彼女は少し驚いたような顔をして、優しげに笑って言いました。
「こんにちは。今は、詩集を読んでいるんです。」
その笑顔と声の響きが、私の心に深く残ったことを今でも覚えています。その後も、何度か公園で顔を合わせるうちに、自然と会話を交わすようになり、次第にお互いのことをもっと知りたくなりました。あの頃ののり子は、明るくて、純粋な気持ちを持っている女性でした。何もかもが新鮮で、彼女と過ごす時間がとても楽しく感じられたのです。
その後、私たちは付き合い始め、やがて結婚を決めました。結婚当初は、もちろんお互いに夢や希望を抱いていました。あの日、公園で出会ったことが、私たちの人生に大きな意味を持っていたのだと、今、改めて感じるのです。
あの頃は良かったのに、どうして今はこんな関係になってしまったのだろう…。
公園でのり子と出会った頃を思い出すと、私の心には懐かしさと同時に、どこか胸が締め付けられるような気持ちが湧いてきます。あの頃、私たちはお互いを支え合い、未来に対する期待で満ち溢れていました。しかし、今ではどうだろう。のり子と私はほとんど会話を交わすこともなく、毎日がただ過ぎていくばかりです。
言い争いがきっかけとなり、私たちの間に漂う無言の時間がますます長くなりました。あれから何日も、私はのり子と顔を合わせても、言葉を交わすことができませんでした。何かを話すべきだと思いながらも、どうしても口を開けない自分がいます。お互いに言いたいことがあるはずなのに、どこかで言葉を出すのが怖くなっているのかもしれません。
そんな中で、私はふと「このままの関係でいることが本当に正しいのだろうか」と考えるようになりました。結婚してから何十年も経つうちに、私たちの関係はどんどん希薄になっていったように感じます。あの頃のように一緒に笑い合っていた時間はどこへ行ってしまったのでしょうか。結婚自体が間違いだったのかもしれないと思うことさえありました。
私は、のり子に対して不満を抱いていたわけではありません。しかし、私たちの関係に何かが足りないような気がしてなりませんでした。結婚してから、何度もこうした「冷めた瞬間」が訪れ、私はその度にやり過ごしてきました。でも、今回は少し違うと感じました。もしかしたら、これが私たちの関係の終わりなのかもしれない。そんなことを思うようになったのです。
家に帰ると、のり子が夕食を準備していました。私はその後ろ姿を見て、しばらく声をかけることができませんでした。何かを言おうとした瞬間、胸が締め付けられるような気持ちになり、私は言葉を飲み込んでしまいました。しかし、少し経ってから私は覚悟を決めました。このまま何も言わずに過ごすことが、最終的に一番辛い結果を招くのだろうと感じたのです。
「のり子、ちょっといいか?」
私はやっとの思いで声をかけました。のり子は振り向き、少し驚いたような顔をしましたが、すぐに優しく微笑んでくれました。
「どうしたの?今日は何かあった?」
その笑顔を見ると、私は少し安心しました。のり子が私に対してまだ気にかけてくれていることを感じたからです。私は深呼吸をしてから、言葉を続けました。
「言い過ぎた。本当にごめん。」
のり子は少しだけ黙って私を見つめ、そして小さく頷きました。
「何のことでしたっけ?」
その返答に、私は驚きました。彼女は、まるで言い争いなんてなかったかのように、まっすぐ私を見ていました。あの数日間、私たちは無言で過ごしてきたのに、のり子はそのことをあまり気にしていない様子でした。もしかしたら、彼女にとっては、あの口論がそれほど大きな意味を持っていなかったのかもしれません。
「なんでもないさ。気にしないでくれ。」
私は少し照れくさそうに答えました。それから、のり子が作った夕食を一緒に食べながら、少しだけ会話を交わしました。話題は些細なことだったけれど、久しぶりに会話をしているうちに、私は少し心が軽くなった気がしました。
その後も、のり子はいつも通りに振る舞ってくれました。私が何も言わなくても、いつものように夕食を準備し、黙々と食事を共にする時間が流れていきました。私はその時間が、何よりも大切で、ありがたいものだと改めて感じました。
「やっぱり、のり子と結婚して良かったな。」私は心の中でそう思いました。もちろん、結婚してからの年月には、私たちの間に多くの変化がありました。しかし、のり子と共に過ごす日々には、どんな言葉では表現できない価値があるのだと思いました。あの日、公園で出会ったことが、今の私たちにとってどれだけ大切なものだったのかを、今さらながらに感じている自分がいました。
そして、私はもう一度、のり子と手を取り合って歩んでいこうと決意しました。過去の思い出が美しく輝いているからこそ、これからも共に歩んでいきたい。そう思ったのです。