私は中野レイナ、36歳。同じ会社で働く夫、中野正義(まさよし)と結婚して6年になる。正義は営業課のエースで、いつも堂々としていて、自分に自信を持った人だった。家でも職場でも、頼れる存在。私は広報課で地道に働きながら、彼のことを尊敬し、支えることに喜びを感じていた。結婚生活は穏やかで、特に不満はなかった。子どもはいないけど、正義は「君がいるから頑張れるよ」といつも褒めてくれた。その言葉を信じて、私も彼の支えになりたいとずっと思っていた。でも、そんな平和な日々はある日突然崩れたのだ。家に帰ると、正義はスーツのままソファに座り込んでいた。顔は青白く、まるで魂が抜けたようだった。
「まさくん、どうしたの?何かあったの?」私は心配になって声をかけた。彼がこんな状態なのを見るのは初めてだった。すると、彼はしばらく黙った後、力なく頭を抱えた。
「…大きなミスをしたんだ。」その言葉に私は息が詰まった。ミス?まさくんが?営業課でトップの成績を誇る彼が、そんなことをするなんて信じられなかった。
「え?どんなミス?」私は隣に座り、彼が話しやすいように努めて静かに聞いた。
「…契約が破談寸前なんだ。俺が確認を怠ったせいで、取引先が激怒してる。このままだと、会社の信用が危うい。」
「そんな…。」思わず息を呑んだ。営業成績を上げ続けていた彼に、こんなミスが起こるなんて。
「上司にどうにかしろって言われた。でも、何をどうしていいか分からない。」彼の声は震えていて、肩も小刻みに揺れていた。私は彼の手にそっと触れながら、「私にできることがあれば、何でも言って」と伝えた。それが、彼を少しでも楽にできると思ったから。でも、その後の言葉が、私の予想を大きく裏切った。
「…レイナ、会長に謝罪に行ってほしい。」
「…え?」耳を疑った。謝罪?私が?頭の中で言葉がこだまする。
「上司が言ったんだ。会長は女好きで有名だから、美人な君が行けば許してくれるかもしれないって。」私は息を呑み、まさくんの顔を見つめた。彼の表情は、まるで自分がこの世で一番苦しんでいると言わんばかりのものだった。
「まさくん、それ本気で言ってるの?」私は思わず彼に問いただした。そんな要求が許されると思っているのか。それとも、追い詰められすぎて正気を失っているのか。
「…1週間だけでいい。君が行けば、きっと許してもらえるんだ。」私はその言葉に、胸の奥で何かが冷たく固まるのを感じた。夫がこんなことを言うなんて信じたくなかった。だけど、彼は本気だった。涙を浮かべながら私を見つめ、「お願いだ」と言った。私は彼の涙を見つめた。普通なら胸が痛むはずだった。でも、私の中には奇妙な冷静さがあった。彼が泣いているのに、私はなぜか同情できなかった。
「分かった…」気づけば、そう答えていた。自分でも驚くくらい冷静な声だった。
まさくんの顔が一瞬にして明るくなった。「ありがとう、レイナ。本当に感謝してる。」その言葉を聞きながら、私は胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じた。
翌日、私は会長のオフィスを訪れた。エレベーターが最上階で止まる音が響くたびに、心臓がぎゅっと縮むような緊張を覚える。廊下は磨き上げられた大理石の床が冷たく、無機質な光を反射している。まるで私がこれから行く場所が、この世のものではないようにさえ思えた。大きな扉の前で一度深呼吸をして、ノックをする。中から「どうぞ」と低く響く声が聞こえた。私は心を決めて扉を開けた。
「失礼します。中野レイナと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
深く頭を下げると、視界の端に彼の姿が映った。会長はデスクに座り、こちらをじっと見ていた。若々しい顔立ちに鋭い目つき。背も高く、スーツが完璧に体にフィットしている。その姿は威圧感があり、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。そして謝罪だけで何とかなるかもしれないと思っていたのを打ち砕かれた瞬間でもあった。
「君が中野レイナくんか。」その言葉に、背中を冷たいものが走る。彼の声は低く、淡々としているのに、まるで全身を見透かされているようだった。
「夫が迷惑をかけてしまい、心からお詫びを申し上げます。」私は再び頭を下げた。すると、彼は小さく鼻で笑った。
「まだこんなことを信じて、ここに来る人間がいるんだな。」その言葉に顔を上げると、彼は軽く肩をすくめていた。その目には、呆れと冷静な観察の色が混ざっていた。
「で、何をしに来たんだ?」彼の問いに、私は必死に言葉を探した。
「夫がミスを犯し、その責任を私で解決したいと…。」その瞬間、会長は深いため息をついた。
「君の夫や上司が言ったんだろう?僕が女好きだから妻を差し出せば何とかなるって言われたの?」その言葉に、思わず体が固まった。何も言えずにいる私に、彼は冷たく笑みを浮かべた。
「そうか。じゃあ何をしても良いんだね?」そういって会長は近づいてきた。肩に手を置かれた私は、全身が硬直していた。
「ハハハ。僕はそんなことしないよ。」そう言いながら椅子の背もたれに体を預けた彼は、少しだけ興味深そうに私を見た。
「3日間、うちで適当に過ごして帰ればいいよ。」会長がため息を突きながら吐いた言葉は拍子抜けした言葉だった。緊張で強張っていた私の体から、一瞬で力が抜けた。
「…それでは、せっかくいただいた時間を無駄にしたくありません。何かお手伝いさせてください。」私は静かに言った。その声が震えていなかったのが、自分でも不思議だった。
丸二日間、私は言われた仕事をただこなしただけだったが、2日目の夜、結局会長に飲みに誘われた。口ではそう言いながらもやっぱりそうなるのかと、緊張しながら席に着くと、彼がグラスを片手に軽く言った。
「君、本気で覚悟してここに来たのか?」「はい。覚悟しています。」私は一瞬言葉を詰まらせながらも、そう答えた。
すると、彼は吹き出して笑った。「僕は、そんなにエロ親父に見えるのかなぁ?」その笑い声に少し恥ずかしさを感じたが、次の彼の言葉が胸に刺さった。
「真面目な話、そこの会社を辞めて、むしろうちで働いてくれないか?君の仕事ぶりを見て驚いたよ。」
「どうして…私なんか?」思わずそう聞いてしまった。彼は少しだけ真剣な表情になり、こう続けた。
「僕の周りにはね、いつの間にかイエスマンとおべっかばかり使う人間しかいなくなってたんだよ。だから君が作ってくれた資料を見て、君がすぐに必要だと思ったよ。正直あれだけダメな点をズバズバと書いてある資料を見て笑ってしまったくらいだったよ。」その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。そして、次の彼の言葉が私の心に深く刺さった。
「それとね、君の夫の名前、中野まさよし君って正義って書くんだろ?」彼の口元が少し歪んだ。
「正義って名前なのに、全然正義じゃない。妻を差し出して自分を守ろうとするなんてね。」その言葉に、私は夫の涙を思い出した。なぜ私はあのとき冷静だったのか。ようやく理由が分かった気がした。
「自分の価値は自分で作らないとね。まあ、無理強いはしないけど、考えてみて」そう言って、会長は本当に私に手を出さずに食事だけ楽しんで帰っていった。
3日目が終わり、私は重い足取りで家に帰った。玄関の扉を開けると、まさくんが待ち構えるように立っていた。私の顔を見るなり、彼の口から最初に出た言葉はこれだった。
「どうだった?契約は大丈夫だった?」その瞬間、胸の奥で何かが鈍く崩れ落ちる音がした。あれほど涙を流して私に頼んだ夫が、いまでは自分の安泰だけを気にしている。その事実が、私の心を冷え切らせた。
「…わからないわ。」私は短くそう答えた。声に感情はなかった。まさくんの表情が一瞬曇った気がしたけれど、私はそれ以上彼を見ようとせず、荷物を置いて自室に向かった。
部屋の扉を閉めた瞬間、身体が力を失ったようにベッドに崩れ込んだ。天井を見上げながら、ぼんやりと考える。どうしてこうなってしまったのだろう。かつては彼の何もかもが好きだった。彼の笑顔も、仕草も、時折見せる弱さも。けれど今では、そのどれにも温かさを感じない。夫婦とは何なのだろう。結婚とは何なのだろう。私が支えたかったのは、彼という人間ではなく、ただの幻想だったのかもしれない。
目を閉じると、会長の言葉が脳裏をよぎった。「彼は名前負けしているね」その言葉は鋭く、冷たく、それでいて奇妙に正確だった。
まさくんに対する愛情は、もうどこにも残っていなかった。この先どう生きるべきか、どこへ向かうべきなのか。そんなことをぐるぐると考えながら、気づけば意識は薄れていった。会長の元へ向かう夢を見ながら。