
私の名前は逸見真理、61歳です。夫の定年後二人でよくキャンプをするようになりました。もともと私はアウトドアにはあまり興味がなくて、どちらかといえば旅館やホテルでのんびりするほうが好きでした。でも、夫が意気込んでいたので、最初は半ば仕方なく付き合っていました。
最初の頃は、テントの設営も火起こしも面倒だし、夜は暗くて怖いし、「どうしてこんな苦労をしてまで外で寝なきゃいけないのか」と思っていました。でも、そんな私の不満などまるで気づかないかのように、夫は薪を割るのも火をつけるのも楽しそうにやっていて、その姿を見ているうちに「まあ、たまにはこんなのもいいのかも」と思えるようになっていました。
それに、焚き火を囲んで二人で話している時間は、思っていた以上に心地よかったんです。火のゆらめきを見ていると、不思議と普段話さないようなことまで話してしまう。お酒を飲みながら昔のことを思い出したり、「これからどうしようか」なんて未来のことを語り合ったり。こんなに夫とゆっくり向き合う時間を持ったのは、いつぶりだろうと思いました。
そして、気づけば私もキャンプが好きになっていました。夫の影響を受けたのか、最近では新しいキャンプレシピを考えたりするのも楽しくなっていました。そんなある日、私たちは少し山奥のキャンプ場へ行くことになったんです。いつもより自然に近い、本格的なキャンプをしようということになったんです。
目的地に近づいたとき、ふと目に入ったのが「熊に注意」という看板でした。
「……熊がいるって書いてるよ」私は足を止めて、夫に少し不安をぶつけました。
「大丈夫だろ」夫は軽く言いましたが、どう考えても他人事のようにしか聞こえません。
「大丈夫なの?」
「他にもキャンプしてる人もいるし大丈夫だろ。一応熊用スプレーも持ってきたよ」
そう言われても、どうしても「万が一」という不安が拭えませんでした。でも、夫が「これぐらいのスリルがあるほうが楽しいんだよ」と笑うので、私も無理やり自分を納得させました。熊スプレーも用意してくれたみたいだし、用心すれば問題ないだろうと。
それに、そのキャンプ場はとても景色がよくて、川のせせらぎが聞こえ、空気も澄んでいました。やっぱりこういう場所に来ると気持ちがいいなと、少しずつ気分もほぐれてきました。
夫と二人でバーベキューをし、焚き火を囲みながら、お酒を飲んで、のんびりとした時間を過ごしました。いつもより酔いが回った夫が、「お前もキャンプ好きになったんじゃないか?」なんて得意げに言うので、「まあ、嫌いじゃなくなったわよ」と笑って答えました。気づけば、私もキャンプを楽しんでいたんです。
楽しい夜を過ごし、焚き火を消して、寝袋に入って眠りにつきました。しばらくして夜中にふと目が覚めました。
どこからか、フンフン という鼻息が聞こえるんです。
最初は寝ぼけているのかと思いました。でも、妙にリアルなんですよね。それに、なんとなく近づいてきているような気がしました。
まさか……熊?一気に眠気が吹き飛びました。全身が強張り、心臓がドクドクと早鐘のように鳴ります。私は慌てて夫を起こそうとしましたが、声を出したらまずいと思い、とっさに夫の口を押さえ、「シーッ」とジェスチャーをしました。
夫は寝ぼけた顔をしていましたが、私の表情を見てすぐに異変を察しました。
「……何?」私は唇を小さく動かしながら、「熊」 と伝えました。
夫の目が見開きました。すぐに熊スプレーを手に取り、私と一緒に息を潜めました。
テントのファスナーをそっと開け、少しずつ隙間から外を伺います。
鼻息は確かに聞こえます。しかも、さっきよりも大きくなっています。どうしよう。もう、ここまできたら、下手に動くのは危険かもしれない。夫と目を合わせながら、そっとテントの隙間を広げました。
そこで、私は思いました。…あれ? なんか、思ってたのと違う。
音の発生源は、なんと8メートルほど離れた隣のテント からでした。
しかも、よく聞くと……これは……
熊じゃない。これは……人間の鼻息?
夫と顔を見合わせながら、隣のテントのほうをじっと見ました。確かに、あの鼻息はそこから聞こえてきます。最初は「熊に違いない」と思い込んでいたせいで、心臓がバクバクしていました。でも、よく考えたら、熊の鼻息ってこんなに規則的で、人間臭いものなんでしょうか。
夫が小さな声で、「これ…人間だよな?」と囁きました。私は「え?」と目を丸くしながら、もう一度耳を澄ませました。
いや、どう考えてもこれは熊じゃない。むしろ、なんというか、必死に何かを我慢しているような、抑えた息づかいに聞こえます。
夫が私の肩をつつき、小さく笑いをこらえたような顔をしました。
その瞬間、私もすべてを悟りました。
…え? もしかして、あれって……いやいや、まさか…。でも、確信に変わったのは、次の瞬間でした。
「……ん……っ……」鼻息が、止まりました。
そのことに気づいた瞬間、私たちはもうダメでした。夫と目が合い、次の瞬間、声を殺しながら肩を震わせました。でも、止まりません。笑えば笑うほど、余計におかしくなるんです。あんなに真剣に熊を警戒していたのに、隣のテントで繰り広げられていたのは、まさかでした。あまりにもバカバカしくて、笑いが止まりませんでした。
「やめなさいって……」私は夫の腕を叩きながら、涙が出るほど笑ってしまいました。夫も肩を震わせながら、必死に笑いをこらえています。でも、もう無理です。だって、笑いすぎてお腹が痛い。
その時、ふいに夫と目が合いました。なんでしょうね、この感じ。
さっきまでの恐怖と緊張が、一気に吹き飛んでしまいました。笑いすぎて涙まで出てきて、胸がすっと軽くなる。夫も、私も、お互いに何かを言おうとして、でも何も言わずに、ただ笑ってしまう。
そして、気づけば……夫の顔がすぐ近くにありました。
気づいたら、私たちはキスをしていました。
まるで、昔のように。
私はふと、「このまま続くのでは……?」と期待してしまいました。いや、正直に言うと、もう心の準備はできていました。でも、恥ずかしくて言い出せませんでした。
結局、その夜は夫と同じ寝袋に入って、ぴったりとくっついたまま眠りました。
それでももう、何年ぶりのことでしょう。
夫の体温を感じながら、「ああ、幸せだな」と思いました。
翌朝、目を覚ますと、まだ薄暗いテントの中で夫の寝息が聞こえていました。昨夜のことを思い出し、なんとも言えない気恥ずかしさがこみ上げてきました。何年ぶりだったんでしょうね、あんなふうに寄り添って寝たのは。
私はそっと寝袋を抜け出し、外に出ました。夜露に濡れた空気がひんやりと肌に触れます。森の向こうの空がうっすらとオレンジ色に染まり始めていて、私はその景色をぼんやりと眺めました。
「……おはよう」背後から声がして振り返ると、夫が寝ぼけまなこで立っていました。
「おはよう。もう少し寝てればいいのに」
「いや、なんか……すっきり目が覚めた」夫はそう言いながら伸びをしました。私も、心の中で小さく頷きました。
昨夜、あれほど大笑いしたせいか、心の奥にあったものがすっと軽くなった気がしました。なんだか、ずっと昔の自分たちに戻ったような感覚でした。
夫がコーヒーを淹れる準備を始めたので、私は火を起こす手伝いをしました。焚き火に薪をくべ、じわじわと炎が広がっていくのを眺めながら、ふと口を開きました。
「ねぇ……」
「ん?」
「また来ようね」
そう言うと、夫は一瞬驚いた顔をして、それから少しだけ照れくさそうに笑いました。
静かな森に、焚き火のはぜる音だけが響いていました。