
まさか、あの人と唇を重ねる日が来るなんて、夢にも思いませんでした。
しかも、場所は会社の給湯室という場所。
会社という場所で呼吸が触れ合い、想いがそっと重なるなど想像してもいませんでした。
場所のせいなのか、ふたりの立場のせいなのか背徳感でいっぱいでした。
しかし、その時は何も考えることができなかったのです。
唇が触れた瞬間、破裂音が胸で弾けたように思えました。
「いけない」という言葉は喉で霧散し「もう少しだけ」という誘惑が残ったのです。
遠くの話し声が現実へ引き戻そうとしましたが、全てがガラス越しの出来事のようにぼやけていました。
私は裕之という五十三歳の男です。
営業部の部長という肩書のサラリーマンです。
家と職場を往復するだけの毎日ですが、家庭に不満はなく、平穏そのものでした。
香織は、隣の家に住む奥様です。
見た目は三十代前半、細身で清潔感があり、控えめな物腰の人でした。
朝のゴミ捨て場で顔を合わせると、軽く会釈を交わす程度の関係。
妻が言うには、香織のご主人は単身赴任中だと聞いたことはありますが、それが本当かどうか興味もありませんでした。
あくまで「隣人」であり、それ以下でもそれ以上でもなかったのです。
いつの間にかただの隣人が、私の意識の中に入り込んでいました。
挨拶の声でなんとなく朝から元気になる気がしたのです。
何もない毎日が、どこか物足りなかったのかもしれません。
ときめくことなど二度とないと思っていたのに、香織との関わりが思いもよらず私の心を揺らし始めていたのです。
心の高まりとともに何げない日々の景色でさえ、色鮮やかに見え始めました。
私のすべてが新しい光に包まれ、これから何かが動き出すような気配が静かに満ちていったのです。
それでも、小さな息遣いを思い出すたび、足元のアスファルトから熱が立ち上るようで、早歩きになりそうな自分を抑えていました。
寒さが和らぎはじめた三月の初旬、社内の空気にもどこか柔らかさが漂いはじめた頃のことでした。
いつものように総務部の同期と何気ない話をしていたとき、新しいパートを採用したという話を聞きました。
特にいつものことなので、なにも気にせず、その話も忘れたくらいでした。
ある日、営業部のデスクに書類を届けに来た女性の姿に、私は思わず動きを止めました。
いつも挨拶を交わす隣の奥様が、そこに立っていたのです。
私をみた彼女も驚いて一瞬立ち止まり、会釈をしてきました。
短いやりとりをしただけでしたが、空気がふわりと揺れたように感じたのを覚えています。
その日を境に、たまに駅で会うと一緒に帰ることがありました。
最初はほんの数分の会話でしたが、途中のコンビニでコーヒーを買い、公園に立ち寄る様にもなりました。
ベンチに腰掛け、互いのカップから上がる湯気を眺めながら取り留めのない会話を交わしたりしました。
何を話したか覚えていない日もありましたが、気づけばそれが仕事終わりの私の密かな楽しみになっていったのです。
ある日、桜が咲き始めた並木道で、彼女がふと足を止めました。
じっと見上げたその顔に、街灯の光が淡く降り注いでいて、どこか儚げに見えたのです。
私は隣に立ち、彼女の横顔をそっと見つめていました。
並木道を吹き抜けるわずかな風に、香織の髪がふわりと揺れ、その香りがすぐ隣まで届き、胸の奥を静かに震わせたのです。
街灯の下で、彼女の影と私の影が重なり合い、まるでそこだけ違う時間が流れているような錯覚に陥りました。
何も起こらない夜。
けれど、言葉にしなくても伝わるものが、確かにそこにはありました。
春を待つ夜の並木道で、静かに時を重ねた時間を私は鮮明に覚えています。
その後、会社の歓送迎会が開かれました。
彼女が参加するとは知らず、会場に行くと多くの人の中に彼女の姿がありました。
目が合った瞬間、どこか気恥ずかしさが込み上げてきたのを覚えています。
席が偶然隣同士になり、彼女はあまりお酒に強くないことを打ち明けてくれました。
グラスを傾けながら笑う彼女の頬は、ほんのりと赤らんでいて、妙に胸がざわついたのです。
帰り道、いつもの夜道を歩いていると、香織がふらりと足を取られました。
驚きながらも、とっさに私は腰に手を添えて支えました。
柔らかな感触が手のひらに伝わり、胸の鼓動が一気に早くなるのを感じたのです。
香織もまた、顔を伏せたままそっと私の腕に体を預けてきました。
胸の奥が静かに高鳴り、恥ずかしさを隠すように、2人で夜道を歩き続けたのです。
翌日、給湯室で香織と顔を合わせました。
何気ない話を交わした後、私は黙ったまま、カップにコーヒーを注ぎました。
そして、ほんの数秒の沈黙のあと、私は香織の顔を見たのです。
彼女もこちらを見返し、見つめ合ううちに、自然と距離が消えていきました。
それは、音も立てずに起こった出来事でした。
遠くに聞こえる人の声が、まるで水の中から響くようにぼんやりと耳に届きました。
ざわめきも、世界の輪郭も、すべてが遠ざかっていくように感じたのです。
今この瞬間、私の意識は彼女だけに引き寄せられていました。
罪悪感と幸福感が入り混じり、胸の奥で少しずつ熱を持ちはじめていました。
これが過ちだとしても、どうしても否定することなどできなかったのです。
カップを持つ手がかすかに震え、湯気の向こうに霞むはにかんだ彼女の顔を、私はただぼんやりと見つめていました。
目を閉じれば、あのぬくもりがすぐに蘇ってきました。
理性が何を囁いても、心はもう、別の場所に引き寄せられていたのです。
給湯室を出たあとも、彼女と交わしたぬくもりが、残っているような気がしてなりませんでした。
誰にも気づかれていないはずなのに、すれ違う同僚の視線さえ、妙に気になってしまいます。
仕事をしていても、頭の中ではさっきの沈黙や彼女のまなざしが、何度も何度も繰り返されていました。
すべてが遠くに感じられ、自分だけが異なる空気の中に取り残されたような錯覚に陥っていたのです。
社内で香織の姿を見つけると、彼女はいつも通りの顔で仕事をしていました。
その姿がかえって胸をざわつかせたのです。
あの瞬間は、本当に現実だったのだろうか。
それとも、私だけが取り残された夢を見ていたのかもしれません。
それから、私たちはときおり食事をするようになりました。
グラスを傾けながら、何気ない話をして笑い合いました。
けれど、テーブルの下ではそっと足が触れ合い、彼女が小さくはにかむ姿が、私の理性を揺さぶったのです。
ある夜、少し飲み過ぎた香織が私の肩に寄りかかりました。
彼女の家の前まで送り届け、扉が閉まりかけたその時、香織が私を呼び止めるようにそっと手を伸ばしたのです。
そして、ほんの一瞬の逡巡のあと、私たちは抱き合いました。
重ねた腕の中には、ずっと抑えていた想いが、静かに震えていたのです。
それは、どこにもぶつけられなかった感情が、ようやく出口を見つけた瞬間でした。
抱きしめた彼女の体は小さく、けれど確かに震えていました。
それでも香織は逃げず、そっと私の背中に腕を回してきました。
伝わる体温は、次第に互いの肌へと少しずつ広がっていったのです。
香織がそっと顔を上げ、静かに頷きました。
暗い室内に、ふたりの影だけが浮かび上がっていました。
私は玄関に荷物を置くことも忘れ、彼女を再び抱き寄せました。
ソファまでのわずかな距離を、互いに引き寄せ合うように歩み寄ったのです。
どちらが先に手を伸ばしたのか、それすらもう覚えていません。
香織の髪にそっと指を滑らせると、小さな吐息が漏れました。
その震える呼吸が、私の胸の奥を優しく焦がしていったのです。
肌に感じる息遣いは熱を帯び、言葉を交わすことなく、心と体は求め合いました。
ソファの端に身を落ち着けると、香織も自然に寄り添ってきました。
無理に引き寄せる必要などなく、自然に触れ合ったのです。
震えるその手を、私は静かに自分の胸元へと導きました。
香織は目を閉じたまま、身を預けたのです。
どちらからともなく、そっと顔を近づけました。
触れたのは、髪の毛がかすかに絡むほどの距離。
けれど、その一瞬に込められた想いは、声にはできないほどに深かったのです。
脈打つ鼓動が、互いの間で響き合いました。
ふたりだけの温度がそっと生まれていく静かな、でも情熱的な夜でした。
私は、この瞬間を求めていたのかもしれません。
柔らかな吐息と、重なる体温だけがふたりを満たしていました。
無理に急ぐことはせず、ただ確かめるように、何度も、何度も触れ合ったのです。
互いを抱きしめる腕だけで、もう何も言葉はいりませんでした。
心の奥で叫んでいる想いだけが、確かに伝わっていたのです。
時間が止まったかのような、静かな夜でした。
それでも、互いを包むぬくもりだけは、確かにそこにありました。
この瞬間がどれほど取り返しのつかないことかわかっているのに、止まることができなかったのです。
壁一枚向こうには、私の日常があるのにもかかわらず、気持ちを抑えることができませんでした。
思えば、いつも変わらずに並んで食卓を囲み、何気ない会話を交わしてきた家族。
これまで守ってきたはずの生活を背中に感じながら、私は誰よりも別の温もりを求めていました。
香織の体温を感じるたびに、胸の奥で小さな痛みがじわりと広がりました。
それは冷たく、静かに、確かに私を蝕んでいきました。
現実が急に遠いもののように思えました。
この瞬間だけは、何もかも忘れていたかったのです。
香織の髪に額を寄せると、彼女は小さく呼吸を震わせました。
触れ合う体温に、もう言葉は必要ありませんでした。
微かな衣擦れの音さえ、夜の静寂に溶けていきました。
互いを確かめるたび、深く、静かに、結びついていくのがわかりました。
このぬくもりを知ってしまったら、もう二度と知らなかった頃には戻れない。
そんな確信が、胸の奥に少しずつ広がっていったのです。
ふと、遠くで車のエンジン音がかすかに聞こえました。
一瞬だけ現実に引き戻されそうになったそのとき、香織がそっと腕にしがみついてきました。
その小さな力に、私はそっと目を閉じました。
たとえこの夜が永遠に続かなくても、彼女のすべてを受け止めると心に誓ったのです。
この気持ちを大事にしたい。
香織の鼓動と、自分の鼓動が重なり合う音に、静かに耳を澄ませました。
ふたりだけの夜は確かに深まっていったのです。
香織との関係は、その後も続きました。
互いに言葉は少なかったものの、確かに心の奥深くまで通じ合う感覚があったのです。
けれど、次第に香織の中に、執着にも似たものが芽生えはじめていきました。
笑顔で土産を手に、私の家を訪れ、妻の前で無邪気に振る舞うこともありました。
そんな姿を妻の横で、私は黙って見ているしかなかったのです。
心の奥に、少しずつ罪悪感が広がっていきました。
ある日、妻が「隣の奥さんが最近明るくなった気がする」と言ったそのひと言が、胸の奥深くに突き刺さったのです。
私は笑ってごまかしましたが、心の中では冷たいものが広がっていくのを感じていました。
これ以上、踏み込めば取り返しがつかない。
そんな風に考えても、香織に会えばすべてを忘れてしまいました。
心地いい時間、心が跳ねる瞬間、私は捨てることができなかったのです。
罪悪感を抱えながらも、私はこの甘い時間に、静かに溺れていきました。
いつものようにふたりで食事を終えたあと、暗い夜道を歩きました。
ふいに前方に歩く人影を見つけ、香織が立ち止まったのです。
何度かしか会ったことはありませんでしたが、間違いなくその人は香織の旦那さんでした。
香織は、努めて平静を装いながら、ご主人の隣へと歩み寄りました。
気づいたご主人が、私に穏やかに会釈を送ってきます。
私も少し遅れて、ぎこちなく頭を下げました。
その瞬間、私はただその場に立ち尽くしてしまいました。
ふたりは、ごく自然に寄り添いながら、夜道を歩き出していきました。
まるで、私との出来事など初めからなかったかのように。
私はコンビニに寄るふりをして、その背中をただ見送るしかありませんでした。
終わらせなければならないとわかっていながら、心はまだ香織を求めていることに気づきました。
ふたりの背中を見つめながら、私は深い静けさの中へと沈んでいったのです。
あの日を境に、香織は徐々に私との距離を置くようになりました。
顔を合わせても、かつてのような微笑みを私にむけることはありませんでした。
ふたりの間には、静かに終わりが近づいていたのです。
それからしばらくして、香織が会社を辞めるという話を耳にしました。
胸がざわつく思いを抱えながら、ゴミ出しの途中で偶然香織に出会いました。
私が思わず声をかけると、彼女は以前のように微笑み、ご主人の転勤についていくのだと話したのです。
香織の表情には、どこか吹っ切れたような穏やかさがありました。
その笑顔に、私は何も言えず、ただ黙ってうなずくしかありませんでした。
送別会では、挨拶をする香織が、最後に私の隣に座りました。
互いに言葉を交わすことはありませんでしたが、テーブルの下でそっと手を重ね、静かに最後の想いを確かめ合いました。
誰にも気づかれることなく、ふたりだけの別れを心の中でそっと交わしていたのです。
やがて日曜日、引っ越しのトラックが隣家から荷物を運び出していきました。
ダンボール箱や家具が次々と運ばれ、見慣れた景色が少しずつ形を変えていきました。
まるで、私たちが共有した小さな時間さえも、静かに消えていくように感じられたのです。
その後、香織とご主人が、穏やかな笑顔を浮かべながら我が家に挨拶に訪れました。
ふたり並んで深々と頭を下げる姿を、私はただ静かに見送りました。
香織と視線がかすかに交わりましたが、そこに言葉は必要ありませんでした。
すべては、もう終わったことなのだと、互いに理解していたのです。
そして間もなく、隣の家には新しい住人が暮らし始めました。
隣にあったはずの彼女の気配も、今はもうどこにもありません。
以前の様な暮らしに少しずつ戻り始めてきたころでした。
帰り道、ふと顔を上げると、ふたりで眺めた桜が、今年も美しく咲き誇っているのを見つけました。満開の花びらが、柔らかな風に乗って、ゆっくりと夜空に舞い上がっていきます。
どこか遠い場所で、香織も同じように桜を見上げているのだろうか。
そう思うと、胸の奥がそっと温かく満たされる気がしたのです。
この世界のどこかで、確かに同じ季節を迎えている。
それだけで十分だと、素直に思えたのです。