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最後の夜

いつまでも若く純愛

「離婚しよう」太一さんのその一言が、私の世界を粉々に砕いた。まるで何かが私の心を強く押し潰すような、圧倒的な力。息ができない。何が起こっているのか、理解するよりも先に、胸の奥から冷たいものがじわじわと広がっていくのを感じた。私の名前は佳澄。40代の看護師で、太一さんとは10年間一緒に暮らしてきた。今まで、子供がいないことも、二人で支え合って生きていけると思っていた。少なくとも、私は。

結婚した最初の数年は、何もかもが輝いて見えた。仕事の忙しさを忘れさせてくれるくらい、家に帰ると太一さんがいて、私たちは一緒に過ごす時間を大切にしていた。他愛のない会話をし、時にはふざけ合い、二人で未来を語った。家の中に子供の声が響かなくても、私たちは私たちなりに幸せだった。少なくとも、そう感じていた。

でも、いつからだろう。太一さんが無口になり、私を見つめる視線がどこかよそよそしく感じられるようになったのは。最初は、彼も仕事で疲れているのだろうと思っていた。看護師という仕事柄、私も忙しく、すれ違うことが増えていたし、夫婦ならばそういう時期もあるものだと、思っていた。だけど、私に触れることが少なくなり、無言の時間が増えるたび、胸の中にぽっかりと穴が開いていくようだった。

「どうしてなの? 私たち、うまくやってきたじゃない?」私は声を震わせながら問いかけた。彼は一瞬顔を歪めたようだった。でも、すぐにその表情を隠して、目を伏せたまま答えなかった。まるで、言葉にすることができない何かを押し殺しているかのように。しばらく沈黙が続いた。太一さんが言葉を探すように、何度も唇を開きかけては閉じた。私の胸の鼓動が、痛いほどに速くなっていく。

「……子供が欲しい、どうしても……」

彼のその言葉が、頭の中で何度も反響した。子供が欲しい? それが理由なの? 私はしばらくその言葉の意味を理解できなかった。胸の中で何かが崩れていく音がした。子供ができないことでどれほど悩んでいたのか、私は全く気づけていなかったのかもしれない。私がいくら一緒にいたいと思っても、それは彼にとっては足りなかったのだろうか。

でも、私は食い下がるように声を上げた。「でも……それでも、私たち、二人で一緒にいればそれでよかったんじゃないの? 子供がいなくても、私たちには私たちの形があったはずでしょ?」涙があふれそうになるのを必死でこらえながら、そう言った。彼は、何も言わなかった。ただ、静かにうなだれて、私の方を見ない。彼の肩がわずかに震えていたような気がした。言葉が出てこなかった。私たちはこうして、ただ無言のまま時間が過ぎていくのを感じていた。

結局、離婚することになった。手続きは思ったよりも簡単だった。結婚する時はあれだけの準備や手間があったのに、終わるときはこんなにもあっけないものなのだと感じた。だけど、心の整理はまったくつかなかった。彼が出て行く日が近づくたび、胸の中の痛みがどんどん大きくなっていく。

離婚の前夜、どうしても寂しさに耐えられなくなって、私は太一さんの布団に忍び込んだ。これが、最後だと思った。彼はどう反応するかわからなかった。もしかしたら、拒絶されるかもしれないという不安が頭をよぎった。けれど、彼は何も言わず、ただ私を抱きしめてくれた。その腕の中で感じた温もりが、私の心を乱した。「もう、これが最後なんだ……」自分に言い聞かせるように思ったが、現実として受け入れられなかった。彼の胸に顔を埋めると、涙が自然に流れ出た。泣きたくない、強くありたいと思っていたのに、どうしようもなく涙が溢れて止まらない。太一さんは無言のまま、私の髪を静かに撫でていた。言葉はなくても、その手の動きから彼の優しさが伝わってきた。私たちはその夜、最後に愛し合った。

翌朝、太一さんは何も言わずに家を出て行った。私はその姿をただ見送ることしかできなかった。背中を見送る間中、胸の中に広がる虚しさが消えることはなかった。広すぎる家の中に残された私は、まるでそこに取り残された亡霊のように感じた。太一さんが残してくれた財産は、なんの慰めにもならなかった。

それから半年が経った。私は新しい職場に転職していた。末期ガン患者が入院するホスピスで働き始めたのだ。日々の仕事は忙しく、私の心を少しは紛らわせてくれる。新しい患者との出会い、別れ——それが、今の私の日常だった。太一さんのことは……忘れたわけではない。だけど、もう思い出すたびに胸が痛むことは少なくなっていた。そう、自分に言い聞かせていた。

だが、そんな私の日常が、ある日、音を立てて崩れ去ることになった。

新しい患者がホスピスに入院してきた。私はカルテを受け取り、名前を確認した瞬間、足が止まった。「太一……?」信じられなかった。その名前、そしてその顔。痩せ細って、痛々しいほどに変わり果てたその男性は、紛れもなく太一さんだった。

「嘘……」

目の前の光景が信じられなくて、思わず呟いた。太一さんが、なぜここに? どうしてこんなに衰弱しているの? 頭の中で疑問が次々と浮かんできたが、どれも言葉にすることができなかった。すぐに施設長に頼んで、彼の担当をさせてもらうことにした。

彼はすでにほとんど話すことができない状態だった。全身にガンが転移していて、余命がほとんどないことは明らかだった。どうして彼がここにいるのか、それを知ることすら私は怖かった。彼は私に何も言わず、ただ私を見つめるだけだった。それでも、私は懸命に彼の世話をした。以前の太一さんとは違って、今の彼はもう、体のどこかに痛みを抱えながらも静かに生きているだけだった。

「太一さん……」私は彼の名前を呼びかけた。彼はわずかに目を開け、私を見つめた。その瞳には、何かを伝えたいという強い思いが感じられたけれど、彼の口からは何も言葉が出てこなかった。けれど、その沈黙の中に、すべてが込められているようだった。彼の目を見つめながら、私は思った。彼は、何を言いたかったのだろう? 何を私に伝えたかったのだろう?

10日後、太一さんは静かに息を引き取った。その瞬間、私の胸には深い悲しみが押し寄せてきた。太一さんがいなくなってしまった——その現実が、私を打ちのめした。彼との最後の時間は、どこか静かで愛に満ちていたけれど、同時に、私の中には後悔の念が強く残った。あの時、もっと彼に何かを言えたのではないか。もっと、彼の心に寄り添っていられたのではないか。

数日後、太一さんの弟さんから荷物が届いた。そこには、彼の日記が入っていた。震える手でページを開くと、そこには彼の思いが綴られていた。子供ができなかった原因は、実は彼にあったこと。精巣癌が見つかり、それが全身に転移していたこと。そして、辛い思いをさせたくないから離婚を選んだということ——太一さんは、ずっと私を守ろうとしていたのだ。

日記を読み進めるうちに、涙が止まらなくなった。彼は私のために嘘をついていた。彼がどれだけ苦しんでいたのか、そして、最後まで私の幸せを願っていたことが、痛いほど伝わってきた。太一さんは、孤独にその痛みと戦い、私を守るために全てを隠していた。それでも、私を最後まで愛してくれていたのだ。私は太一さんを失ったが、彼の愛は私の中で生き続けている。その愛を抱きしめながら、これからも私は生きていこうと思う。彼の残してくれた思い——それを胸に、私は新しい人生を歩んでいきたいと思う。

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