
俺、佐々木健太、38歳、独身。中堅の食品メーカー「満腹フーズ」で営業として働き、早15年。大きな失敗もなければ、目覚ましい成功もない。まさに「中堅」という言葉がピッタリな、可もなく不可もないサラリーマン人生。まあ、どこにでもいるタイプの男だ。最近、鏡を見るたびに額の後退具合が気になり始めた以外は、平和な毎日を送っている。
そんな俺にとって、年に一度開催される社員旅行は、正直言って苦行に近い。普段ろくに話もしない他部署の、しかも役職が上の人間の隣に座らされ、当たり障りのない会話をひねり出し、ビールを注ぎ、愛想笑いを浮かべる。若い連中は若い連中で固まって内輪ネタで盛り上がり、俺のような中間層は所在なく手酌で酒を飲む。ああ、想像しただけで胃袋がキリキリする。今年も欠席しよう。そう決めていた。
通知がポップアップしてきたのを見て、俺はマッハでカーソルを「×」ボタンに合わせようとした。と、その時、フロアに響く快活な声。
「よお、佐々木! 今年の社員旅行、もちろん参加しろよ? な?」
振り返れば、山田先輩。俺が新人の頃から面倒を見てくれている、5個年上の先輩だ。豪快で面倒見が良く、社内でも慕われている。俺も個人的に世話になっていて、週末には先輩の家に招かれて、手料理をご馳走になることもしばしばだ。
「いやー、先輩。それがですね、ちょっと家の都合が…母がですね、ええと」 しどろもどろになる俺の肩を、先輩は遠慮なくバン!と叩いた。普通に痛い。
「嘘つけ! お前んちのお袋さん、先週マラソン大会出てただろうが! 」
「えっ、マジすか」
「ガハハ! 大体な、お前はもっと外に出ろ! 人と交流しろ! そうじゃなきゃ、彼女の一人もできんぞ!」 ぐうの音も出ない正論パンチ。先輩は続ける。
「今年はな、家族参加もOKなんだよ! だから、うちのユキも連れてくんだ。お前も来いよ! な? 一人隅っこで酒飲んでる寂しいおっさんにはさせねえから!」
家族参加OK。その言葉に、俺の心は微妙に揺れた。先輩の奥さん、ユキさん。35歳のはずだが、とてもそうは見えない。初めて先輩の家で会った時、太陽みたいな明るい笑顔と、ふとした瞬間に見せる、どこか憂いを帯びた表情のギャップに、完全に心を撃ち抜かれたのだ。もちろん、尊敬する先輩の奥さんだ。下心なんて、あるわけが…いや、正直に言おう、めちゃくちゃある。あるけど、それは心の奥底に厳重に封印してきたはずだ。
「…ユキさんも、いらっしゃるんですね」
「おうよ! お前、ユキのメシ、好きだろ? 」 そうじゃない。そうじゃないんだ先輩。でも、ここで「ユキさんが来るなら行きます!」なんて言えるはずもなく。
「…分かりました。そこまで言うなら参加ます…」 俺は頷いた。
こうして、俺の社員旅行参加は決定した。ユキさんも来る。その事実に、面倒くささ9割と淡い期待1割。い本当は3割くらいか。複雑な感情を抱えながら、俺は運命の日を待つことになった。これが、とんでもない波乱の幕開けになるとも知らずに。
旅行当日。大型バスに揺られること数時間。目的地の温泉旅館「湯けむり荘」に到着した。宴会までは自由時間。他の奴らはたいがいフリーラウンジでもう飲みだしている。その間に俺は早速、露店風呂へ向かった。
岩風呂に体を沈めて疲れを癒やす。「はぁー、極楽極楽…」。社員旅行も捨てたもんじゃないなぁ…と思えたのも束の間だった。
ガラガラッ、と勢いよく扉が開く音がした。振り返ると、そこにはタオル一枚を腰に巻いた山田先輩が立っていた。
「おー、佐々木、一番乗りか! 」
「あ、先輩、お疲れ様です」 先輩はザブッと隣に浸かってきた。二人きりの露天風呂。聞こえるのは、湯が流れる音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。いつもならマシンガンのように喋り続ける先輩が、妙に静かだ。湯気で表情は判然としないが、何かを深く思い悩んでいるような、重苦しい雰囲気が漂っている。
「なあ、佐々木…」 改まった、低いトーンの声。嫌な予感がする。まさか、さっきバスの中でユキさんをチラチラ見ていたのがバレたのか? いや、そんなはずは…。
「お前に、お願いがあるんだ」 借金の保証人か? 俺の平凡な人生には縁遠いワードが頭をよぎる。
「…実はな、俺…最近、全然、ダメなんだよ」
「なにが…ですか?」
「夜だよ、夜! 夫婦の営みってやつだ! …EDなんだよ…」衝撃の告白。しかも、この開放的な露天風呂で。ミスマッチ感が半端ない。いつも自信満々で、社内でも「猪山田」(イノシシヤマダ)なんてあだ名を持つ先輩が、そんなデリケードな悩みを抱えていたなんて。
「びょ、病院とか、カウンセリングとかは…」
「行ったよ! あらゆることを試した! 有名なクリニックにも行ったし、怪しげな精力剤も試した! でも、全然、ダメなんだ…!」 先輩の声は、いつもの覇気を失い、力なく震えていた。こんな弱々しい先輩の姿を見るのは初めてだ。
「それでな…もう、ユキに申し訳なくてな…。あいつも、寂しい思いをしてる。俺のせいで…。それで、二人で何度も話し合ったんだ…」 ユキさんと? いったい何を? 俺の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。まさか、そんな、馬鹿な…。
「佐々木… 男として、頼む。今夜、俺の代わりに、ユキを抱いてやってくれないか?」
「……は?」 時が止まった。いや、俺の脳の機能が停止した。幻聴か? 湯あたりによる意識混濁か?
「せ、せ、先輩! 冗談キツイですよ! 無理です! 人として!」 俺は思わず湯船から立ち上がり、叫んでいた。
「頼む! この通りだ!」 先輩は、湯に浸かったまま頭を下げた。その必死な様子に、俺の勢いは削がれる。先輩は、本気だ。
「ユキも、納得してるんだ。最初は驚いてたけど、俺が思い詰めてるのを見て…。それに…あいつも、お前のこと、悪い印象はない、みたいでな…。むしろ、好意的に思ってるみたいで…」
「えええっ!?」 ユキさんが、俺に、好意? 混乱する頭の中で、以前、先輩の家で酔った勢いでアニメ談義に花を咲かせたことや、落とした箸を拾おうとして手が触れ合った瞬間の、あのドキドキ感を鮮明に思い出す。あれは、俺の一方的な勘違いじゃなかったのか?
「普通じゃない頼みだってことは分かってる!! でも、お前しかいないんだ! 俺が心から信頼できて、ユキも心を許せる相手は、お前しかいないんだよ、な!頼む!」 先輩の声が、風呂場に響く。いつもお世話になっている先輩からの、魂の叫びのような懇願。そして密かに想い続けていたユキさんの存在。倫理観。道徳。常識。断るべきだ。断固として。それが正しい道だ。だが、目の前で頭を下げ続ける先輩と、脳裏に浮かぶユキさんの笑顔が、俺の決意を鈍らせる。
「…本当に、ユキさんも…?」 絞り出した声は、驚くほど掠れていた。
「ああ。さっき、部屋で話してきた。お前になら…って」 どうすればいい。どうするのが正解なんだ。分からない。ただ、先輩の苦悩と、もしかしたら存在するかもしれないユキさんの想いと、そして俺自身の心の奥底にある醜い欲望が、複雑に絡み合って、俺をがんじがらめにする。
「………分かり、ました。……一度だけ、なら…」 自分でも信じられない言葉が、口から滑り出ていた。
「ほ、本当か!? 佐々木!?」 先輩はガバッと顔を上げた。その目は、驚きと、感謝と、そしてEDからの解放への期待で、ギラギラと潤んでいた。
「ありがとう、佐々木! この恩は一生忘れん!」 先輩は湯の中で俺の手を力強く握りしめた。
「宴会が終わってしばらくしたら俺たちの部屋に来てくれ。俺は、お前の部屋で寝るから」 そう言う先輩の顔は、先ほどまでとは打って変わって、活力を取り戻していた。俺は、これから自分が足を踏み入れようとしている、未知で、禁断で、あまりにも非現実的な状況を思い、ただただ、生唾を飲み込むしかなかった。
宴会場での時間は、地獄だった。豪華な料理なのに味わえない。注がれるビールをただ機械的にあおるだけだ。山田先輩は、いつもの調子を取り戻し、談笑している。時折、俺に意味ありげな視線を送りながら。ユキさんは、女性たちのテーブルで、穏やかに微笑んでいる。何度か目が合ったが、そのたびに彼女はふっと視線を逸らしてしまう。明らかに俺を意識している。その事実に、罪悪感と同時に、どうしようもない高揚感が湧き上がるのを止められない。ああ、俺はなんて最低な男なんだ。
宴会がお開きになり、各自部屋に戻る流れになった。俺はそっと自室に戻った。時計を見ると、約束の時間まで、あと1時間。部屋の中を行ったり来たり、意味もなく冷蔵庫を開け閉めしたり、テレビのチャンネルを回したり。落ち着かない。本当に、行くのか? 行っていいのか? 答えは出ない。ただ、もう後戻りはできない、という感覚だけが、重くのしかかっていた。
時間が来た。俺は意を決し、自分の部屋を出た。先輩夫婦の部屋は、廊下の突き当りだ。ドアの前に立ち、震える手で、三回、小さくドアのノックした。
「……どうぞ」 開けてくれたのは、蚊の鳴くようなユキさんの声だった。
部屋に入ると、浴衣姿のユキさんは正座した。彼女は俯いていて、表情はよく見えない。もちろん、先輩の姿はない。
「あ、あの…夜分に、すみません」 ありきたりな言葉しか出てこない。
「……うん。待ってました」 重く、気まずい沈黙が、部屋を満たす。何か、何か話さなければ。
「ゆ、ユキさん…本当に、いいんですか?」
「………うん」 ユキさんは、ゆっくりと顔を上げた。月明かりに照らされたその瞳は潤んでいて、頬は恥じらいで赤く染まっている。息をのむほど、綺麗だった。
「…それに、佐々木さんのこと…素敵だなって、ずっと思ってましたから…」
「えっ……あ、ありがとうございます…俺も、ユキさんのこと……初めてお会いした時から、ずっと…」 しどろもどろだ。語彙力が小学生レベルになっている。だが、嘘偽りのない気持ちだった。まさか、ユキさんの方も、俺にそんな感情を抱いてくれていたなんて。
その後のことは、正直、あまり鮮明には覚えていない。どちらからともなく、自然に体が引き寄せられた。戸惑いと、背徳感と、抑えきれない衝動と、そして確かに存在する互いへの好意が混ざり合った、奇妙な空気の中で、俺たちは唇を重ね、そして、一つになった。ユキさんの肌は滑らかだった。触れるたびに、甘い吐息が漏れる。俺の頭の中では、「これは現実じゃない」「でも、ユキさんが綺麗すぎる」という思考が、目まぐるしく駆け巡っていた。感情のジェットコースターだ。行為の最中、ふと、隣の部屋との境にある襖に、数ミリほどの隙間が開いていることに気づいた。誰かがいる…? いや、気のせいだ。俺は邪念を振り払うように、ユキさんを強く抱きしめた。
あの禁断の夜から数日。俺は完全に抜け殻のようになっていた。会社に行っても、仕事が全く手につかない。パソコンの画面を見つめていても、浮かんでくるのはユキさんの潤んだ瞳ばかり。廊下で先輩とすれ違うたびに、心臓が縮み上がり、挙動不審になる。体重も2キロ減った。これが「恋煩い」ならロマンチックだが、俺の場合は、罪悪感と背徳感によるストレス太りならぬストレス痩せだ。
そんな俺の元に、山田先輩から「ちょっと話があるんだ」と内線電話があった。声のトーンは、なぜか明るい。ついに、断罪の時が来たのか? それとも、まさかの離婚報告? ああ、俺のせいだ。俺が、あの時、断り切れなかったから…。重い足取りで、会社近くの、昭和の香り漂う古びた「喫茶・田園」へ向かった。席には、既に先輩が座って、スポーツ新聞を広げていた。
「よお、佐々木! 待ってたぞ! いやー、先日は、本当に、本当に助かった! 大感謝だ!」 席に着くなり、先輩は満面の笑みで言った。その予想外の明るさに、俺は拍子抜けする。
「あ、いえ…その、ユキさんは…」 恐る恐る尋ねる。
「ああ、ユキか? 元気ピンピンだよ! 前より肌ツヤも良くなった気がするぞ!」 あまりの元気っぷりに、俺は言葉を失っていた。
「それより、聞いてくれよ!」 先輩は、興奮した様子で続けた。
「あの夜な…お前たちの様子……覗いてたんだよ」
「……は?」 頭の中でブチッ、という音が聞こえ、思考回路が、ショートした。覗いていた? 何を? どういうことだ? あの時の、襖の隙間の違和感は、気のせいじゃなかったのか!?
「そしたらな、効果てきめんだったんだよ! もう、元気元気!一瞬で復活したよ!」
先輩は、親指をぐっと立てて見せた。その顔には、悩みから解放された、一点の曇りもない笑顔が浮かんでいる。
「ユキも、最初は驚いてたけどな。結果的に俺が元気になったんだから、まあ、結果オーライ?みたいな? もちろん、お前の捨て身の献身のおかげだ。本当に感謝してる」
言葉が出ない。開いた口が塞がらない。ただ、目の前で熱弁を振るう先輩が、宇宙人にでも見えてきた。 先輩の顔には、長年の悩みから解放された、一点の曇りもない、清々しいまでの笑顔が浮かんでいる。
そういうことだったのか。そのあまりに突飛で、ぶっ飛んだ展開に、呆れと、そしてなぜか、ほんの少しの安堵感がこみ上げてくる。修羅場にならなくて良かった…のかもしれない。いや、むしろ、今が修羅場なのか?
「それでな、佐々木…」 先輩は、急に真顔になり、再び口を開いた。嫌な予感しかしない。
「言いにくいんだが…また、決起してもらえないだろうか?」
「………へ?」 聞き間違いであってほしい。
「いや、もちろん、無理強いはしない! お前にだって都合があるだろう! でもな、一度元気になったとはいえ、まだ本調子とは言えなくてな…。なんていうか、できれば、月に一度か二度くらい、その…ご協力いただけると、非常に助かる、というか…」
俺は、喫茶・田園の、黄ばんだ天井を仰いだ。なんだこの状況は。新手のドッキリか? それとも、俺はまだ夢を見ているのか? いや、現実だ。目の前には、かつてないほど真剣な表情で、俺に懇願している先輩がいる。
「もちろん、今回も、俺は見るだけだ! 絶対に手は出さん! そこは信じてくれ!」 いや、論点はそこじゃないんだ、先輩。
しかし、断れるだろうか? この、あまりにも奇妙な状況を受け入れてしまった俺に。それに、あの夜の、恥じらいながらも俺を受け入れてくれたユキさんの表情と、その柔らかな肌の感触が、脳裏に焼き付いて離れないのも、また否定できない事実だった。俺の中の、僅かに残っていた倫理観の最後の砦が、ガラガラと崩れ落ちていく。
「……まあ、先輩と、ユキさんが、それでいいなら……」 俺は、力なく頷いていた。
それからというもの、俺の平凡だったはずの日常には、
「山田夫妻の夜の営み活性化プロジェクト(覗き見付き)」という、極めて特殊な「ミッション」が組み込まれることになった。月に一度か二度、週末の夜に、俺は山田家を訪れる。
先輩は「おー、佐々木、よく来たな! ちょっと俺、急な仕事思い出したから、後はよろしく!」などと、白々しい理由をつけて家を“空け”(実際は、クローゼットの中とか、床下収納とか、毎回違う場所に巧妙に隠れて、息を潜めて覗いているらしい)、俺はユキさんと、あの夜と同じように、戸惑いと、罪悪感と、そして抗えない感情の入り混じった、複雑な時間を過ごす。ユキさんも、最初は戸惑いを見せていたが、最近ではどこか吹っ切れたように、以前よりも少しだけ積極的になった気がする。それがまた、俺の罪悪感を刺激するのだが…。
これでいいのか、俺の人生。38歳、独身、趣味は「人妻との逢瀬。しかも夫公認で覗き見付き、だ」。だがしかし、お世話になっている先輩夫婦の「家庭円満」に、ある意味で貢献している?、という奇妙な達成感と、ユキさんとの、誰にも言えない秘密の関係が、俺の灰色だった日常に、鮮やかで、しかし歪んだ彩りを与えているのも、また確かな事実なのだった。
今日も先輩が俺の肩を叩き、「今週末もよろしく頼むよ!」と、周囲に聞こえない声で、しかし満面の笑みで囁いてきた。俺は、曖昧に苦笑いを浮かべながら頷く。湯けむりの向こう側で始まった、この常識外れで、少しおかしくて、そしてどこか切ない三角関係は、どうやら、まだまだ終わる気配はないようだ。俺の人生、どこへ行く。