
浅い眠りからふと意識が浮上すると、隣には美菜代の穏やかな寝顔があった。細く開いたカーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼女の長いまつ毛に柔らかな影を落としている。規則正しい寝息は、まるで寄せては返す静かな波のように、部屋の静寂に溶け込んでいた。
そっと指先で、その滑らかな頬に触れると、確かな温もりが伝わってくる。この温もりに辿り着くまで、俺たちは一体どれほどの季節を重ね、どれほどの回り道をしてきたのだろうか。数えきれない夜の闇を越え、流した涙の数も知れない。だが、それも今は昔のこと。この腕の中に感じる確かな重みと、耳に届く安らかな寝息が、俺たちの全てを物語っているようだった。遠回りだったのかもしれないが、全ての道は、この朝に繋がっていたのだと、今はそう思える。
俺、間宮拓也の店は、新宿の裏路地にある小さな小料理屋「燈(あかり)」だ。 薄暗い路地裏にぽっと灯る、温かい光のような店にしたい――なんて意図してはみたものの、近所のおっちゃんたちは昔から「寿し政の拓ちゃんの店」と呼ぶ。親父がやっていた寿司屋を十年前に畳んで、俺の代で小料理屋に鞍替えした。カウンターが七席と、奥に四人掛けのテーブルが二つだけの、本当にこじんまりとした店だ。
昼は近所のサラリーマンやOLが日替わり定食を食べに来てくれて、夜は常連さんがふらりと暖簾をくぐる。気取らない雰囲気と、どこか懐かしい家庭料理が売り、かな。俺一人で切り盛りしているから、毎日が戦争みたいに慌ただしいけど、こんなふうにしてささやかな暮らしを送っていけることが、今の俺にはちょうどいいんだ。
近所に住む近藤さん夫婦は、うちの店が寿司屋だった頃からの、もう何十年もの付き合いになる常連さんだ。週に二、三回は顔を出してくれて、いつも決まって熱燗二本と、その日のおすすめをいくつか頼んでくれる。旦那さんのほうは昔気質の職人さんって感じで少し寡黙だけど、奥さんのほうはいつもニコニコしていて、太陽みたいに明るくて優しい人だ。
その近藤さん夫婦には、俺と同い年の娘、美菜代がいる。子供の頃は、それこそ毎日のように一緒に遊んだ。近所の神社の裏にあった大きなクスノキの下に二人だけの秘密基地を作ったり、夏祭りではぐれた美菜代が半べそでしゃがみ込んでいるのを見つけて、手を引いて一緒に親のところまで連れて行ったり。あの時、美菜代が俺の手をぎゅっと握り返してきた感触は今でも覚えてる。あとは、雨の日にわざと水たまりをバシャバシャ蹴飛ばしながら帰っって二人で泥んこになってさ。近藤のおばちゃんに「拓ちゃんも美菜代も、もう!」って笑いながら怒られたっけ。本当に、兄とか妹みたいに、いや、それ以上にいつも一緒だったんだ。
でも中学、そして高校生になり、別々の学校に進むと、自然と顔を合わせる機会は減っていったんだ。思春期特有の、あの何とも言えない気恥ずかしさもあったんだと思う。俺は男友達とつるむようになり、美菜代のことは、時折聞こえてくる噂で知る程度になった。
その噂は、正直、あまり良いものじゃなかった。高校に入るとすぐに髪を金髪に染めて、派手な格好をするようになったらしい。男の子と頻繁に遊び歩き、授業もろくに受けずに、結局退学してしまったと聞いた。その後、美菜代は家を出て、地元の人間とはほとんど連絡を取っていないようだった。あの頃、俺も自分のことで精一杯で、今思えば、もっと何かできたんじゃないかって、時々思うよ。
そんな美菜代が、先月ひょっこりと家に帰ってきたらしい。近藤のおばちゃんが、いつものように店に来て、少し沈んだ声で教えてくれたんだ。「あのね、…美菜代が、やっと帰ってきたのよ…」
聞けば、帰ってきたはいいものの、自分の部屋に閉じこもったままで、ほとんど部屋から出ないらしい。心配して色々と声をかけてるんだけど、まともに会話もできない状態だそうだ。
そして、その日の帰り際、近藤のおじさんが神妙な面持ちで俺に言ったんだ。
「あのさ…拓ちゃん、うちの美菜代のことなんだけど…もしよかったら、あんたの店で働かせてもらえないだろうか?」
俺はびっくりして言葉が出なかった。まさか、あの美菜代が、うちで働くなんて想像もしていなかったから。
「え…でも、美菜代は知ってるんですか?」思わずそう聞き返した。
「ああ、まだ言ってない。ただ、家に閉じこもっているばかりじゃ、ますます塞ぎ込んじまうと思ってな。拓ちゃんとなら昔を思い出して、少しは気持ちも晴れるんじゃないかと思ってな…」
おじさんの切実な言葉に、俺は何も言い返せなかった。昔、あんなに仲が良かった美菜代が、そんな状態になっているなんて、胸がズキズキ痛んだ。それに、近藤さん夫婦には、昔から数えきれないくらいお世話になっている。無下に断ることなんて、できるわけもなかった。
「…わかったよ、おじさん。美菜代に来るように伝えてよ」そう答えるのが、精一杯だった。
そして、一週間後の開店前。掃除を始めたばかりの頃、ゆっくりとドアが開いた。
そこに立っていたのは、三十過ぎには見えるけど、けばけばしい金髪は根元が黒く伸びていて、着古したジャージ姿の女性が立っていた。
一瞬、誰だかわからなかった。でも、その顔の輪郭と、どこか寂しげな瞳を見た時、それが美菜代だと気づいた。俺は驚きすぎて、手に持っていた雑巾を落としそうになったよ。
「…久しぶり」俺の声は、少し震えていたと思う。美菜代は、気まずそうに視線を彷徨わせ、小さく頷いた。
「…あのさ、…お父さんとお母さんから、話は聞いて…るよね?」
声も、昔の明るくてよく通る彼女とはまるで違っていた。低く、掠れたような声だった。
「ああ、うん。聞いてるよ。とりあえず、入って座りなよ」
俺はそう言って、カウンターの椅子を一つ勧めた。美菜代は、おずおずとした様子で腰を下ろした。子供の頃、二人でよく座ったこのカウンター。親父が握る寿司を、目を輝かせて見ていたっけな。
「拓ちゃん、大きくなったらお寿司屋さんになるの?」「当たり前だろ!世界一の寿司職人だ!」なんて、生意気なこと言ってたな、俺。
「…何か、食うか?」特に意味もなく、そう問いかけた。美菜代は、しばらく黙って下を向いていたが、ゆっくりと顔を上げ、小さく頷いた。
さて、何を作ってやろうか。メニューを見ても、今の彼女の心に響くものがあるとは思えなかった。その時、ふと、昔の記憶が蘇ったんだ。
中学か高校に入りたての頃、美菜代が高熱を出して寝込んでしまったことがあった。近藤のおばちゃんにそう聞いたので、「美菜代、大丈夫?何か食べたいものある?」って聞いても、力なく首を横に振るばかりで。困った俺は、なぜか急に、小さい頃に母親がよく作ってくれた卵とじうどんを思い出したんだ。その時もうお袋はいなかったから親父に教えてもらって、初めて自分で作ったんだ。今思えば決して上手な出来ではなかったけど、美菜代は「おいしい…」って言いながら、少しだけれど食べてくれた。その時、彼女がほんの少し微笑んだのを、今でもはっきりと覚えている。
「…ちょっと待ってな」そう言って、俺は厨房に向かい、手際よく出汁を取り始めた。美菜代のやつ、覚えてるかな。あの時の味を。
湯気が立ち上り、出汁の良い香りが店内に広がっていく。茹でたてのうどんに熱々の出汁をかけ、溶き卵を流し込む。刻んだネギと、少しだけ三つ葉を添えて、卵とじうどんが出来上がった。
カウンター越しに丼を差し出すと、美菜代はゆっくりと顔を上げた。少し潤んだ瞳が、俺の顔をじっと見つめている。何も言わず、美菜代は箸を取って、うどんを一口すすった。
その瞬間、美菜代の目から、大粒の涙が溢れ出した。ポロポロと、丼の中に涙が落ちていく。
「…っ…うぅ…」美菜代は、声を上げて泣き出した。肩を震わせ、顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。俺は何も言えずに、ただ彼女の背中をさすってやることしかできなかった。まるで、昔、転んで泣いている美菜代を慰めた時みたいに。あの時も、こうやって背中をさすってあげると、少しずつ泣き止んだんだよな。
どれくらい時間が経っただろうか。美菜代の啜り泣く声は、次第に小さくなっていった。顔を上げると、目は赤く腫れていたが、どこか吹っ切れたような、少しだけ昔の面影を感じさせる表情をしていた。
「…ごめんね……」掠れた声で、美菜代は謝った。
俺は戸惑いながら答えた。「…あのさ、来週から、働けるか?」美菜代は、再び俺の顔を見つめ、小さく頷いた。
翌週、美菜代は約束通り、開店前に店にやってきた。その時俺は、自分の目を疑ったよ。あのけばけばしい金髪が、落ち着いた黒髪に戻って、清潔なブラウスに綿のスカートを穿いている。まるで、別人のようだった。子供の頃、お祭りの時に着ていた浴衣姿をちょっと思い出した。あの時も、いつもと違う美菜代にドキッとしたっけ。
「おはよう」少しだけ緊張した面持ちで、美菜代は挨拶をした。その声は、先週会った時よりも、少しだけ明るく聞こえた。
「…お、おはよう。…髪、黒くしたんだな」
「うん。真面目に働かないと拓ちゃんに迷惑掛かっちゃうから…どうかな?」
「うん!めっちゃいいよ!」
美菜代は、顔をぱっと明るくした。その笑顔は、子供の頃、何かにつけて「拓ちゃん、すごーい!」って目をキラキラさせて笑った顔に、少しだけ似ていた。
最初の頃は、ぎこちなさもあったが、美菜代は主に洗い場と少し接客を担当してもらい、俺は調理と接客をこなした。忙しい時間帯は、ほとんど会話もなかったけど、それでも、店の中に二人でいるという状況が、どこか不思議な、それでいて懐かしい空気を作り出していた。昔、二人で親父の寿司屋のカウンターの下に潜り込んで、こっそりガリをつまみ食いした時の、あのドキドキした感じに少し似てたかな。
慣れない洗い物で手を荒らしたり、熱い鍋にうっかり触れてしまったりすることもあったけど、決して弱音を吐かなかった。
「大丈夫か?」って聞くと、「うん、平気だよ!」って、少し強がって笑うんだ。そういうところは、昔と変わってないな。自転車の練習で何度も転んでも、泣き言ひとつ言わずに立ち上がってたっけ。
わからないことは、遠慮がちに俺に質問してきた。「これ、どうすればいいの?」その度に、俺は子供の頃の美菜代を思い出し、胸が温かくなった。
仕事が終わると、二人で一緒に店を掃除した。はじめはほとんど口も開かなかったが、次第に些細な会話をするようになった。
「今日のまかないは何?」
「んー、何か食べたいものある?」
「拓ちゃんが作るものなら、なんでも美味しいよ」そんな何気ないやり取りが、俺たち二人の間の距離を、少しずつ縮めていったんだ。
ある日の閉店後、いつものように簡単な夕食を食べていた。他愛ない話をしているうちに、ふと、美菜代が昔の話を始めた。
「あの頃は…ごめんね。あんなにグレちゃって…お父さんやお母さんにも、周りの人にも、たくさん迷惑かけたんだ」
「もう、昔のことだし、気にすんなって」俺はそう言ったけれど、美菜代は首を横に振った。
「でも…ちゃんと謝りたかったの。あの時、自分でもよくわからなくて…ただ、すごくイライラしてて、何もかもが嫌で…」
美菜代は、少し躊躇いながら、続けた。
「…特にね、拓ちゃんが…あの子と付き合い始めた頃から…かな」俺は、不意打ちを突かれて言葉を失った。まさか、そんなことが理由だったなんて…。中学を卒業してすぐの頃、俺には初めての彼女ができた。短い間だったけど、確かに付き合っていたんだ。
「…え…それが、理由だったのか?」俺が問うと、美菜代は小さく頷いた。
「子供だったんだよね、きっと。ただ、拓ちゃんの隣にいるのは私だって、ずっと思ってたから…勝手にそう思ってただけなんだけどね…バカみたいでしょ」
美菜代の言葉に、俺は胸が締め付けられるような思いがした。子供の頃、あんなにいつも一緒にいて、それが当たり前だったからこそ、彼女は裏切られたような気持ちになってしまったのかもしれない。そして、その気持ちをうまく処理できずに、ああいう形になってしまったのだとしたら…。俺は、全然気づいてやれなかった。一番近くにいたはずなのに。
「…ごめん。俺も、全然気づかなかった…美菜代がそんな風に思ってたなんて」そう言うのが、精一杯だった。
それから、俺と美菜代の間には、以前とは違う、もっと深いつながりが生まれたように感じた。過去の誤解が解け、お互いの気持ちを少しずつ理解し始めたからだろうか。一緒に秘密基地で語り合った、あの頃の純粋な気持ちが、また蘇ってきたような、そんな感じだった。
一緒に働くうちに、美菜代の昔の面影の中に隠れていた、優しさや明るさ、そして何よりも、女としての魅力に、改めて気づかされた。真剣に仕事に取り組む姿、時折見せる子供っぽい笑顔、そして、人を思いやる彼女の心。それらはすべて、俺の心をゆっくりと満たしていった。
気がつけば、美菜代のことが頭から離れなくなっていた。仕事中も、彼女の横顔をつい目で追ってしまう。閉店後に二人で食事をする時間が、俺の一番の楽しみになっていたんだ。
ある夜、閉店後、いつものように二人で店を掃除していた時のことだ。ふと、美菜代が少し照れたように言った。
「ねえ、拓ちゃん。またあの卵とじうどん、作ってくれる?すごく美味しかった」
「ああ、いつでも作るよ。」
俺は微笑んで答えた。そして、少し躊躇いながら、付け加えた。
「…今度はさ、二人で一緒に外へ食べに行かないか?店じゃなくて、どっか…うん、別の所でさ」
美菜代は目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。「うん。いいね、それ!楽しみにしてるね!」
その日から、俺たちの関係は、ゆっくりとではあるけれど、確実に変わっていった。仕事終わりにご飯を食べに行ったり、休日に近所を散歩したり。昔、二人で自転車で競争した河原の道を、今はゆっくり並んで歩く。そんな、独りの時には想像もできなかったような、穏やかで幸せな時間が流れていった。
そして、ある雨の降る夜。閉店後、二人でいつものようにカウンターで話しているとき、俺は意を決して、美菜代に思いを伝えた。
「美菜代…俺、お前のことが好きだ」
美菜代は、突然の告白に、目を大きく見開いた。しばらく沈黙が続いた後、彼女の瞳から、再び涙が溢れ出した。
「…私も…私もね、拓ちゃんのこと…ずっと、ずっと好きだったよ…」
その言葉を聞いた瞬間、俺はもう抑えきれなかった。気づいたら、美菜代の手を握ってた。あの頃と同じ、細くて温かい手。泣き顔のままの美菜代を、カウンター越しにそっと引き寄せた。
「…ごめん。ずっと気づいてやれなくて」小さく首を振った美菜代の唇に、俺はそっと自分の唇を重ねた。はじめは戸惑いながらも、彼女は少しずつ応えてくれて、肩の力が抜けていくのがわかった。熱いものが胸の奥からこみ上げてきて、気づけば、お互いの身体を確かめ合うように抱きしめ合っていた。
店の奥、畳の小上がり。誰もいない、二人だけの空間。雨音だけが、静かに包んでくれる。
シャツのボタンに手をかけると、美菜代は一瞬だけ俺の目を見て、小さく頷いた。ためらいも、拒むそぶりもなかった。むしろ、少しだけ震えた唇が「来て」と言ってるように見えた。
肌に触れた瞬間、彼女の身体がピクリと揺れた。少し冷えていたけど、すぐに熱が宿るのがわかった。昔みたいに照れながら笑う顔じゃなくて、弱さも全部さらけ出した女の顔だった。
「…拓ちゃん、あったかいね…」
その一言で、俺の中で何かが弾けた。むさぼるようにキスをし、吐息が重なる中、一度だけでは足らず、お互い何度も何度も求めあった。
長い時間を経て、ようやく心も体も通じ合えた夜だった。
それから、俺たちは恋人同士になった。以前と変わらず、一緒に店で働き、以前以上に、たくさん話をした。二人でザリガニ釣りに行ったこと、お祭りの金魚がすぐ死んじゃって二人で泣いたこと、美菜代が俺の苦手なピーマンをこっそり食べてくれたこと…そんな子供の頃の他愛ない思い出話に花を咲かせながら、過去の時間の空白を埋めるように、お互いのことをもっと深く知っていった。
そして、季節が二つ巡った頃。俺は、美菜代にプロポーズした。特にロマンチックな言葉は言えなかったけど、精一杯の気持ちを込めて伝えた。「美菜代、ずっと、俺と一緒にいてくれ」って。
美菜代は、嬉し涙を浮かべながら、何度も頷いてくれた。
「うん…うん!ずっと一緒にいるよ!」小さな小料理屋で始まった、俺と美菜代の物語は、これからもっと長い時間をかけて、続いていくんだろう。あの時、寝込んでいた美菜代に卵とじうどんを作ってやったこと。そして、彼女が涙とともに、過去の悲しみを洗い流してくれたこと。そのすべてが、今の俺たちの幸せに繋がっているのだと思うと、胸の奥から、熱いものが込み上げてくるのを感じる。
近藤さん夫婦も、娘の幸せそうな顔を見て、以前よりずっと笑顔が増えた。時折、店に顔を出すと、「拓ちゃん、本当にありがとうね」と、温かい言葉をかけてくれる。
俺の店は、今日も暖簾を掲げている。カウンターの向こうには、いつも笑顔の美菜代がいる。昔みたいに、すぐ隣で、これからもずっと。俺たちの新しい季節は、まだ始まったばかりだ。