「純一さん、コーヒー淹れましたよー」 眩しい朝の光がリビングに差し込み、妻の微笑みと共に、豊かなコーヒーの香りが漂ってきた。その香りが心地よく、私は自然と微笑んでいた。こんな穏やかな時間が、自分に訪れるとは思いもしなかった。私は、この新しい日常を自分で作り出したことを誇りに思い、心の底から自分を褒めてあげたくなった。まるで人生の新しい章が始まったような気持ちだった。
私の名前は純一。先月、大手企業を定年退職した。会社は定年延長を勧めていたが、私はそのまま退職する道を選んだ。給料が大幅にカットされる延長期間を働く気にはなれなかったのだ。中学卒業後から企業内学校で働きながら高校資格を得て、45年間勤め上げた結果、60歳から年金が満額支給されることになっていた。企業年金も加わるので、継続して働く方が収入が減るという不思議な状況だった。だから、退職後はいろんなことに挑戦しようと思い退職を選んだのだ。
だが、退職後の生活は予想以上に退屈だった。元々趣味もなく、男性中心の職場で出会いもなかった私は、独り身を嘆くこともなくただ日々を過ごしていた。唯一の楽しみは、自分で料理を作ることだった。ただ単に一人で外食することが苦手なため、自分の手で美味しいものを食べたいという欲があっただけだ。友達は人並みにはいたがまだ一生懸命働いており、退職金もあり時間もあるのに、何もすることがない。ただ、生きているのか死んでいるのかわからない日々が続いていた。
そんな時、偶然街中で独身のはずの友人の牧田を見かけた。彼は女性と一緒に歩いていた。その時は声をかけず、後日「久しぶり、この前見かけたぞ」とメッセージを送った。すると即座に電話がかかってきて、「えっ、見られてたのか?それは恥ずかしいな」と彼は苦笑いを浮かべた。牧田は出会い系アプリで知り合った女性と付き合っていると言う。「なんだよ、興味あるならいろいろ教えるぞ」と彼は言った。私は興味がなさそうなふりをしていたが、興味あることはバレバレだったのだろう。牧田は丁寧に詳しく説明してくれた。
最近の若い人たちは半数以上が出会い系アプリを利用している。それだけでなく、最近、年配の人の利用者も増えているという。60代でも2割近くが利用したことがあるそうだ。牧田曰く若い人に比べて利用者が少ないことや、独身でこのまま過ごしたくないと思っている人が多い分出会える確率が高いらしい。「将来一人で死ぬのは嫌だろ?おまえもやってみたら?」「自分に合う人と出会える確率が高いんだから、やって嫌ならやめたら良いんだよ」「自分で現実に声かけていくことなんて出来ないだろう?」と牧田は熱心に進めてくれた。その言葉に背中を押され、私も自分自身で調べてみることにした。すると今では結婚するカップルの20%以上がマッチングアプリがきっかけだそうだ。
このまま一人寂しく人生を過ごすのか、それとも女性と出会い少しでも色づいた人生を送るのか、考え続けていたが中々一歩が踏み出せなかった。だがそんなある日、突然の高熱に襲われた。体は重く、40度近い熱が3日間続いた。意識が朦朧とする中で、「もしかしたらこのまま死ぬのかもしれない」と恐怖が胸を締め付けたが、無事4日目には回復することができた。この出来事が私の背中を押し、牧田に登録方法を聞きながらアプリに登録した。
すると、3日目にメッセージが届き、その女性と会うことになった。もちろん不安もあったが、人と会えることに希望を抱いていた。待ち合わせの当日、喫茶店に到着すると、その女性、智子さんはすでに待っていた。彼女は遅れるのが嫌で、1時間も前に来ていたそうだ。お互い初めは緊張していたが、次第に打ち解け、話が弾んだ。
智子さんはハキハキとした性格のようで、バリバリのキャリアウーマンだった。見た目はちょっときつそうだが、美人で若々しく笑った時の笑顔が素敵だった。彼女もまた病気をきっかけにパートナーが欲しくなったと言う。私と同じように知り合いに勧められてアプリに登録したらしい。彼女は料理が得意ではないと笑いながら話してくれた。私も包み隠さず自分のことを話し、お互いに納得するまでデートを続けることになった。
それから、私の人生は大きく変わった。何度か会ったりするうちに食事を披露することがあった。私が作った料理をかなり気に入ってくれて、以降はまだ働いている智子さんのために夕食を作る機会が増えた。それ以外にも週末の計画を立てたり、献立を考えたり、出かける際の服装を考える毎日。自分の行動が智子さんのために変わっていった。そして、少しずつ愛を育み6月12日に結婚をした。後々分かったことなのだが、6月12日に私たちは初めて会っていた。偶然にも一致した6月12日は「恋人の日」という記念日でもあるらしい。何とも良い日に出会ったものだろう。
これからの20年、智子さんと共に歩む毎日が待ち遠しい。お互いを補い合い、愛を育みながら過ごす日々がどれほど幸せなものか、想像するだけで胸が高鳴る。私たちの物語は、これからも色鮮やかに続いていくのだろう。