今回の作品は 続編として作ってみました。
以前の作品はこちら → 『教え子』
「先生、私のこと覚えていますか?」
そう言って、私の描いている絵の横から突然覗き込んできたのは、教え子のみなみだった。その瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねた。偶然にも彼女に再会したのは、定年後に始めた絵画教室での出来事だった。
彼女と私は一時期、危うい関係にあった。大学の教授時代、私の研究室に入り浸っては猛アプローチしてくる学生、それがみなみだった。それが不倫をしているのではないかと噂になり、ついには私はその大学を退職することになってしまった。もちろん、彼女には何の責任もない。私自身が彼女に惹かれてしまったのが原因だ。
「もちろん覚えているよ、みなみ君」 「私のせいであんなことになってしまって、ごめんなさい」 「先生、この後時間はありますか?」 「ああ、大丈夫だよ」
あの頃から15年が経ち、みなみはもうアラフォー世代になっていた。あのころとは違い、魅力あふれる大人の女性になっていた。私はというともう定年し、悠々自適に過ごしている。
「あれからどうしてたんですか?」 彼女は目をキラキラさせ興味津々で矢継ぎ早に質問してくる。このあたりは年を取っても変わらない魅力を振りまいていた。地方の大学に移ったこと、一昨年定年しこちらに戻ってきたこと、そして妻が亡くなったことなど近況を話した。
「君はどうなんだい?」
「さーどうでしょう」と彼女はからかうように微笑み、吸い込まれそうな瞳で私を見つめてきた。あぁ。やめてくれ、私は彼女の目を見ると何故か吸い寄せられてしまう。そう思いながらも彼女の話に聞き入っていた。
彼女はその後仕事に就き、結婚し、そして離婚をしたという。あまり良くないご主人だったらしく、家庭内暴力が酷く別れるのに一苦労だったそうだ。最後に「もしあの時先生と結婚できてたらこんなことにならなかったのになぁ」とぼやいていた。私はその言葉に何も返すことができなかった。
「先生、また会ってくれますか?」 「ああ、もちろん」彼女からそう言われて断れるはずがない。そういうと彼女は嬉しそうに飛び跳ねるように去っていった。
これからの老後の人生、まだあと20年はあるだろう。一人でどうしようかと途方に暮れていたところに出会った彼女は私にとって景色を一変させる出来事だった。それからは毎週の絵画教室後、食事に行っておしゃべりするというルーティーンができあがった。
そんなある日、私は体調を崩し、絵画教室を休むことにした。すると、彼女は「私も休んで看病に行きます」と言い、我が家に訪れた。妻との死別後、家は荒れ放題で見せられる状態ではなかったが、高熱が出ている中、寂しさもあり彼女に家の住所を教えてしまった。
「ピンポン」とチャイムが鳴った気がするが、意識が朦朧とする中そのまま眠っていた。ふと目が覚めると、みなみがそこにいた。
「あっ、先生。起きました?」 周りを見渡すとゴミだらけだった部屋が片付いている。さらにパジャマが変わっていた。
「もう!大変だったんですよ!家ぐっちゃぐちゃだし、先生全然起きないし、重たいし」
どうやら私は8時間ほど寝ていたようだ。と、その時「どれどれ」と言いながら私のおでこに彼女のおでこをくっつけてきた。
「まだちょっと高いですねー。はい!これ食べて!また寝てください!」
無理やりおかゆを口に運ばれ、無防備に寝かされた。みなみのぬくもりが、まるで救いのように感じられた。弱っている身に優しくされ、つい涙が出てきてしまった。
「え?先生泣いてるの?」そういう彼女も、私の涙にもらい泣きしたのか目に涙を溜めていた。
「大丈夫ですよ!私ずっといますから、ゆっくり休んでください」
そう言われ、私は安心したのかそのまま眠ってしまった。翌朝、目が覚めると体調は回復していた。ただ、彼女はいなかった。無性に寂しさが込み上げ、すぐに彼女に電話をかけた。看病のお礼と、家まで片付けさせてしまったことのお礼を伝えたい。そしてこれからもそばにいて欲しい、そう言いたかった。
すると、着信音が家の中で鳴る。その時、玄関がガチャと開き「おはようございます」とみなみが現れた。大量になったごみを捨てに行ってくれていたようだ。
「もう、熱は大っ…」彼女が話しかける間もなく、私はみなみを抱きしめた。
「先生…」 彼女の手が背中に回る。「大丈夫、どこにも行きませんよ」
そういう彼女の瞳は、当時私だけに向けられたあの時のままだった。
私は彼女をギュッと強く抱きしめ、そして優しくキスをした。その流れで彼女の体に触れようとした瞬間、彼女は私の手を振りほどき、穏やかに微笑んだ。
「ダメですよ」
沈黙が流れる。
「じゃあ、もう帰りますね」 余計なことをしてしまったと嘆いても、もう遅い。彼女の気持ちも考えず強引にいってしまった自分が悪いのだ。謝るチャンスが欲しい。しかし彼女の手を取ることがどうしてもできなかった。彼女を玄関まで送り出そうとした瞬間、
「続きは元気になってからですよ」 「それと、ちゃんと部屋は片付けてください!」と言ってさっと出て行った。
ああ、彼女は怒っていたのではないのだ。 定年後に突然訪れたこのバラ色の世界。彼女をもう失いたくない、そう強く願った。そして、今度会うときに正式に結婚を申し込もう。まずは部屋を片付けることから始めよう。