「大丈夫ですか?」彼女の声は俺の意識を現実に引き戻した。彼女の瞳には不安と優しさが見え隠れしていた。「ええ、ありがとうございます」と咄嗟に俺は言ったが、その目を彼女から離すことができなかった。彼女の瞳に引き込まれ、心臓が跳ね上がるのを感じた。俺は出会って5秒で、彼女に一目ぼれし恋に落ちた。
俺の名前は大樹。今日は一人で登山をするために通い慣れた山に来ていた。標高1000mを超えるこの山は、初心者には少し厳しいが、慣れれば往復8時間ほどで登頂できる。ソロでの登山者も多く、山道で出会う人との交流も楽しみの一つだ。
今日は天気も良さそうだ。登山口の駐車場で念入りに準備し、一歩を踏み始めた。しかし登り始めて2時間ほどが経ち、少し雲行きが怪しくなってきた。(雨が降るかもしれないな。急ごう)そう思っていた矢先、「危ない!」という声が響いた。次の瞬間、目の前に人の頭ほどの大きさの石がゴロゴロと転がり落ちてきた。瞬時に体が反応し、俺は飛び退くようにして避けたが、少々派手に転んでしまった。
「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたのは、後ろを登っていた女性だった。彼女は心配そうに駆け寄り、優しい瞳で俺の顔を覗き込んだ。俺は彼女の顔を見上げ、その瞬間に一目で恋に落ちた。
「え、ええ。大丈夫です」思わず彼女の顔をしばらく見つめていた。「本当に大丈夫ですか?」と再度尋ねる彼女に、俺は「ありがとうございます。大丈夫です」と答えた。彼女は手を差し伸べ、俺をゆっくりと立ち上がらせてくれた。
「本当に、当たらなくて良かったですね」と彼女は安堵の表情を浮かべ、そのまま行こうとした。「あ、あの。一緒に登りませんか?」と咄嗟に声を掛けてしまった。彼女はにこっと笑い、お互い自己紹介をしながら道中を共にすることになった。
彼女の名前は香織さん。正確な年齢は教えてくれなかったが、40代だという。だが、その顔つきは30代でも十分すぎるほど若々しかった。彼女には旦那さんがいたが、不幸にも山の事故に遭い亡くなったらしい。それがきっかけで、彼女も山登りを始めたのだという。
お互いにいろいろなことを話しながら、息も切れ切れにようやく山頂にたどり着いた。「ふ~。やっと着いたぁ」気持ちのいい空気を胸いっぱいに吸い込む香織さん。彼女は岩の上に腰掛け、ずっと遠くを見つめていた。
「きれいな景色ですね」と俺は彼女の横に座りながら声を掛けた。彼女は遠くを見つめながら、「山を登ると死んだ彼に近づけるかなと思って始めたんです。吹っ切れてないんでしょうね。登っていても辛いのに、でもやめられないんです」と呟いた。俺はどう返答して良いのかわからず、黙って彼女のそばで話を聞いていた。
しばらくすると急に風が強くなり、山の天気が変わりそうな気配を感じ取った。「香織さん、天気が変わりそうなので降りましょう」俺の真剣な顔を見た彼女は、すぐに準備を始め下山を開始した。霧が出始め、10メートル先が見えにくくなっていた。「香織さん、ロープを付けましょう」と断りを入れ、彼女と離れないようにお互いを縛り付けた。
前が見えない。知った道とはいえ、このままでは遭難する。不安そうな顔をしている香織さんに「大丈夫ですよ。ちゃんと下まで行けますから」と彼女を励ました。彼女の目は不安に包まれながらも、決意した目で頷いた。
そんなとき、とうとう雨が降り出し、次第に強くなった。足元がぬかるみ滑りやすくなる中「もうすぐ行くと山小屋があるので、そこに行きましょう」と彼女を引っ張り何とか山小屋までたどり着いた。小屋の扉は鍵がかかっておらず、すぐに中に入ることができたのは幸いだった。
「ふー。ここでしばらく休憩しましょう」と声を掛けるが、香織さんは疲れ切っているのか軽く頷くだけだった。外では風と強い雨の音が鳴り響いている。小屋の中は重たい空気の中、沈黙が流れていた。彼女と同じ空間にいることが嬉しい反面、彼女の空気感に声を掛けられずにいた。
しばらく沈黙が続き、「やっぱり山に嫌われているのかな」と香織さんが呟いた。その瞬間、「そんなことありません!」と俺は叫んでいた。彼女は驚いたが、俺は続けて「僕は、あなたに助けてもらったし、あなたに会えて嬉しかったです」と大声で宣言した。「あ、あれ。これは僕の気持ちですね」と告白してしまった恥ずかしさにアタフタしてしまった。それを見た彼女は「ふふっ。ありがとう」と微笑んでくれた。
彼女の笑顔に俺は安心し、以降は話が弾んだ。少しでも彼女を笑わせようと、そして山を好きになってもらおうと話し続けた。1時間ほど経っただろうか、いつの間にか雨が止み、太陽が顔を出してきた。「うわ~。晴れてきた~。キレイ」雲の隙間から出てきた太陽の光に照らされた彼女の顔は、まるで女神のように美しかった。
彼女に見とれていると「そろそろ、降りましょうか」と彼女に促され、下山を開始した。天気も回復し、順調に下山できた。しかし、ゴールに近づくほど彼女との時間が終わるのが寂しくなった。どう声を掛けようか悩んでいると、「今日は本当にありがとうございました」と彼女から先にお礼を言われた。「いや、お礼を言うのはこちらだよ。ありがとう」
二人の間に沈黙が流れる。「じゃ、じゃあ、いきますね」と彼女が進もうとしたその時、「待って!また僕と一緒に山に行ってくれませんか?そして僕があなたを山好きにしてみせます。僕はあなたに一目ぼれをしました!」
駐車場には人もいてこちらを見てくる人もいたが、そんなことお構いなしだった。このままだともう会えなくなるかもしれない。自然と大きな声で告白していた。「もう、恥ずかしいじゃないですか」と照れくさそうに彼女は近づいてきた。彼女の瞳を見ていると、周りに見られていようがどうでも良かった。俺は構わず彼女をそっと引き寄せ優しく抱きしめた。
その瞬間、近くで見ていた人たちから拍手が起きた。俺と彼女は照れくさそうに笑いながら、周囲に頭を下げ感謝した。こうして俺は、出会って5秒で一目ぼれした彼女と交際することになった。あの落石やどしゃぶりの雨はもしかしたら山の神様のいたずらだったのかもしれない。それからというもの、山に入る際には二人で礼をしてから山に入るようにしている。