私の名前は大橋和江54歳の主婦です。夫の達彦とは結婚27年目になります。結婚してすぐの頃に妊娠をしたのですが流産をしてしまいました。その後自然妊娠ができず、不妊治療もしたのですが結局子供に恵まれなかったのです。だけど、不妊治療を経て達彦とふたりの老後も悪くないなと考えて今まで暮らしてきました。今でも街中で子供の姿を見ると、母親になりたかったという気持ちが出てきますが昔ほどではありません。そのたびに、ないものねだりをするのではなく、これからの達彦との生活を楽しもうと気持ちを切り替えていました。
だけど、私の54歳の誕生日が過ぎてしばらく経った頃にとんでもないことが発覚したのです。それは達彦が不倫をしていたということ、それだけではなく相手の女性が妊娠しているということです。鈍器で頭を殴られるような思いというのは、まさにこのことを言うのでしょう。
「頼む。離婚して欲しい。俺は父親になりたいんだ」
一緒に不妊治療を乗り越えて「ふたりの老後を楽しもう」と言ったその口で達彦は「父親になりたいから離婚しよう」と残酷なことを言ってきたのです。一瞬、これは何か悪い冗談なのではないか、ドッキリでも仕掛けられているのではないかと思いましたが、達彦の表情を見る限りとても冗談には見えませんでした。
「いつから、不倫をしていたの……?」
私はなるべく冷静に話せるよう、ぎゅっと拳を握りしめながら問いかけました。達彦の話を聞くと、どうやら不倫関係は2年ほど続いていたそうです。相手は職場の事務員らしく、会社の飲み会で仲良くなってそのまま男女の関係に……と達彦は話していました。
「子供は諦めてふたりで幸せになろうって言っていたじゃない」
「それは、そうなんだけど……でも、子供ができて俺も父親になれると思ったら……」
百年の恋も冷めるとはまさにこのことなのでしょう。達彦の口から言葉がこぼれるたびに失望しかこみ上げてきません。こんな男のどこを愛していたのかさえ分からなくなるほどです。
「和江には悪いことをしたと分かってる。だけど、俺も父親になりたいんだ!」
みっともなく土下座をしながら「離婚してくれ」と言ってくる達彦に未練なんてありません。だからと言って、このまま離婚をして達彦だけが幸せになることも許せないのです。私はもう50代半ば、この先誰かと出会って新しく結婚生活を過ごすこともできないでしょう。こんな裏切り方をされるのであれば、もう結婚なんてまっぴらごめんです。
「……分かった、離婚してあげる」
こんな男に縋りつくほど私は馬鹿じゃない。だけど、こんな裏切られ方をしたのだからひとつくらい復讐をしてもいいはずです。きっと私がこれからすることは最低なのでしょう。達彦からも相手の女性からも非難されるかもしれません。だけど、不倫なんて最低なことをした人たちに非難されても痛くも痒くもありません。
「離婚する代わりに相手の女性と話をさせてください。慰謝料の話もしたいから」
相手の女性に会わせてほしいということを最初達彦は承諾しませんでした。もしかしたら、私が相手の女性に何かするかもしれないと思っていたのかもしれません。もし、そんな風に思われていたのであればどこまで私を馬鹿にするのかと詰め寄ってやりたいくらいです。結局、私が引かなかったことで相手の女性と達彦、そして私の3人で話し合いをすることになりました。
話し合いの場はファミレスでした。恐らく他の人の目があるところで話をすることで、私が何もできないだろうなんて考えていたのでしょうね。この頃になると達彦が何かをするたび、何かを言うたびに嫌悪感しか出てきませんでした。
「奥様には本当に申し訳ないことをしてしまい……」
わざとらしく泣く不倫相手に私の気持ちはどんどん冷めていきます。その女に寄り添う達彦も気持ち悪くて仕方ありません。それから、3人で慰謝料の話をしました。私としては長引かせたくなかったので、相場の慰謝料を貰えれば引き下がるということを伝えると2人は本当に嬉しそうな顔をしました。まだ私と達彦が婚姻関係にあるということさえ分かっていないのでしょうか。脳内お花畑なのかなと怒りを通り越して憐みすら覚えてしまいます。
「さて、これからが大事な話なのですが」
そう前置きをして、私は古い書類を出しました。これは私が不妊治療をしていた時のものです。もちろん達彦にも検査を受けてもらい、その結果が残っています。
「これは?」
「私と達彦が不妊治療をしていた時の検査結果です」
そこに示されている検査結果を見て、達彦も不倫相手も顔面蒼白になりました。そりゃそうでしょう。検査結果、達彦は子供を作れない体質だったのですから。当時、私はこの検査結果を達彦には隠していました。当時は不妊と言えば女性の問題と思われがちでしたし、男性不妊という言葉もあまり浸透していなかったからです。それだけではなく、達彦がショックを受ける姿を見たくなかったので私は隠したままにしていました。ある意味、達彦が子供を作れない体質だったことで私は子供を諦めることができたんです。私が諦めれば達彦を傷つけずにすむし、ふたりで幸せに暮らしていけるだろうと考えていました。だけど、達彦は不倫をして、挙句に子供を理由に私を捨てようとしました。同じ不妊治療を乗り越えたはずなのに、お互いに向いていた道がいつの間にか違うものになっていたようです。
「この検査結果の通り、達彦は子供を作れない体質です。それでもあなたは妊娠したとのことですから、これはもう奇跡でしかないですよね。他の男性の子供でもない限り」
「嘘だ、お、俺が原因?そんなこと、一度も言わなかったじゃないか」
「あなたを傷つけたくなかったの。だけど、その私の優しさがこの結末を招いたのよね」
きちんと達彦に話しておけば、こんなことにはならなかったのでしょうか。だけど、ここまで最低なことをされたのですから、きっと形は違えど私たちは離婚することになっていたのかもしれません。
「おい、俺の子じゃないのか!?」
「そ、そんなはずないじゃない!た、多分、たっちゃんの子供だよ!」
「多分ってどういうことだよ!他に男がいたっていうのか!」
夕方のファミレスということで多くの人がいました。その中で大きな声で喧嘩を始めるのだから見苦しいことこの上ないですね。私を警戒して人の多い場所を選んだようですけど、結局それが自分たちの首を絞めることになりました。
「達彦、あなたとの離婚は受け入れます。慰謝料はちゃんと払ってね」
「ま、待ってくれ、俺の子供じゃないなら離婚なんてしたくない!」
この言葉も予想していたものでしたが、実際に言われるとはらわたが煮えくり返る思いですね。自分の子供じゃなかったから私の元に戻ってこようなんて都合が良すぎです。
「残念ね、私の方があなたなんかもういらない。ひとりで過ごす老後の方が幸せそうだし」
それだけ言葉を残して私はファミレスを出ました。それからすぐに引っ越しの準備をして、とりあえずマンスリーマンションで暮らすことにしたのです。どうやら達彦は不倫相手と破局したらしく、何度もやり直したいと電話をしてきましたが私の方がお断りです。達彦が話し合いに応じなかったので弁護士にお願いをして、時間はかかりましたが無事に離婚できました。
離婚した後、私はペット可のアパートを借りて猫と一緒に過ごしています。達彦は周りの人に自分がしたことがバレて総スカンを受けているそうです。あんな男なんてさっさと捨ててやればよかったと思う反面、悪いことばかりでもありませんでした。これまでの自分を否定しないよう、馬鹿だったなんて思わないようにこれから先は自分の幸せを探して生きていきたいです。