私の名前は田中明菜。結婚して20年、娘の花梨と夫の幸雄とともに、穏やかな日々を過ごしてきた。愛情と信頼を持ち、家族として支え合い、小さな幸せを分かち合いながら暮らしてきた。
だからこそ、あの日、あの言葉を聞いた時の衝撃は、言葉では言い表せないほどだった。「離婚したい」——その一言が、私の世界を無情に破壊した。音もなく崩れ落ちる砂の城のように、私の心は粉々に砕け散った。目の前の景色が歪み、足元がぐらつく。私は思わず壁に手をついて、立っているのがやっとだった。
冗談だと思った。いや、そう信じたかった。何かの間違いに違いないと、そう思い込みたかった。しかし、幸雄の表情は驚くほど真剣で、その目は私を避けるようにうつむいていた。20年もの間、共に過ごしてきた私たちの間に、こんな冷たい距離が生まれるなんて想像すらしていなかった。
「どうして? いったい何があったの?」私は必死に理由を聞こうとした。喉がカラカラに渇き、言葉がうまく出てこない。それでもなんとか絞り出した声は、今にも消え入りそうだった。
「ただ、もう疲れたんだ。別れたいんだ」夫の声は、まるで心の奥底にしまい込んだ痛みを無理やり引きずり出すように、淡々としていた。彼の心の中でどれほどの葛藤があったかを思うと、私は言葉を失った。彼がこんなにも深く悩んでいたなんて、気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。
「疲れたって……そんなことで離婚するの?……何かもっと別の理由があるんじゃないの?」私は絞り出すように問いかけたが、幸雄は無言だった。その無言は、私の中で不安と疑念を膨らませた。
その日から、私は夫の行動に敏感になった。彼のちょっとした言動が、私の心をえぐるように気になって仕方がなかった。彼が外出する時間、帰宅する時間、スマホを頻繁にチェックする姿……どれもが、私にとっては不安の種だった。
もしかして、浮気でもしているんじゃないか?そんな疑念が私の心に広がり、私の中で無限に膨れ上がっていった。だから、ある日、耐えきれずに彼のスマホを覗き込んでしまった。手は震え、心臓は喉から飛び出しそうなほどドキドキしていた。
だが、そこには何もなかった。彼が誰かと浮気している証拠など、微塵も見つからなかった。通話履歴も、メッセージも、すべてが普通だった。まるで、これまでの私たちの生活と同じように。
それでも、どうして?心の中で何度も問いかけるが、答えは見つからなかった。私の不安は、ただただ深まるばかりだった。
それから何日も、私は悶々とした日々を過ごした。何かを知っているはずの幸雄に対して、何も知らない花梨に対して、私はどんな態度を取るべきなのか分からなかった。会話はますます減り、家の中には重苦しい沈黙が漂っていた。夕食の時間ですら、家族団らんの雰囲気はどこか消え失せ、私たちはまるでバラバラの個々が食卓に集まっているだけだった。
花梨はまだ何も知らない。私たちの間に起こっていることを、彼女には知られたくなかった。彼女の無邪気な笑顔を守るために、私はできる限り耐えようとした。でも、その努力ももう限界だった。心の奥底で、何かが爆発しそうなほど膨れ上がっていく。そう、私はずっと一人で耐え、我慢し、沈黙を守っていたのだ。
そして、ある日、夕食の場でとうとうその沈黙が破ってしまった。「どうしても離婚しなきゃいけないの?」思わず口をついて出たその言葉は、私の胸の奥から溢れ出してきた。声が震え、手も震えていた。
「今、その話はやめよう。花梨もいるし……」夫は目を逸らし、フォークで料理をかき混ぜながら言った。彼の言葉に込められた罪悪感が、私の心をえぐった。
「花梨がいるからこそ、話さないといけないのよ!」感情が高ぶり、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえながら私は続けた。「私たち、家族でしょう?こんな大事なこと、隠している場合じゃないのよ!」
その時、花梨が驚いて顔を上げた。「お母さん、何があったの?お父さん、離婚ってどういうこと?本当に離婚するの?」彼女の声は震えていた。私たちの会話の内容に混乱し、恐怖を覚えているのが、その目から伝わってきた。
「ごめん、花梨。お父さんが勝手に言ってることだから」私は娘に向けて、できる限り優しく言ったが、心の中では絶望と諦めが渦巻いていた。何を言っても、もう夫の気持ちは変わらないのではないかという考えが、私の心を支配していた。
でも、次の瞬間、花梨が突然泣き出した。「お父さん、お願い、離婚なんて言わないで!私、そんなの嫌だよ!お母さんとお父さんと一緒にいたいよ!どうして?理由があるなら教えてよ!」
娘の必死な訴えに、私ももう抑えきれなかった。「私もよ!どうしても受け入れられない!家族なんだから、何が理由なのか、教えてほしい。花梨だって、私だって、あなたと一緒にいたいの。どうしてそんなに急に離婚なんて……」私は涙を流しながら、花梨も私の手を握りしめ、同じように泣いていた。
夫はしばらくの間、何も言わずに座っていた。私たちの涙を見つめ、苦しそうに顔を歪めていた。その沈黙の中で、私は彼の葛藤と悲しみを感じ取った。彼もまた、苦しんでいるのだ。私たちと同じように。
そして、彼は観念したように、深いため息をついて椅子に沈み込んだ。「実は……実家の工場が倒産したんだ。経営がうまくいかなくなって、もうどうしようもない状態になった。それだけじゃない。借金は2億円だ……これからどうなるかわからない」
彼の言葉は重く、私たちの頭上にのしかかった。まるでその重さで、家全体が押し潰されるかのような圧迫感だった。私は耳を疑った。2億円……?そんな途方もない金額を、どうやって返すのか?そんな大金、私たちだけで解決できるわけがない。
「……2億円……?」私は震える声で繰り返した。理解できなかった。彼が今、言ったことが現実だなんて、信じられなかった。まるで悪夢の中にいるような感覚だった。
「お前たちに、この借金を背負わせたくなかったんだ。それが、俺が離婚を決めた理由だ。だから、離婚してほしい。お前たちに負担をかけたくない……」夫の声はかすれ、悲しみに満ちていた。彼は私たちを守るために、離婚を選ぼうとしていたのだ。
私はその言葉に、息を飲んだ。彼は私たちを愛しているがゆえに、離れようとしていたのだ。その思いが、私の心を鋭くえぐった。愛しているからこそ、私たちを守ろうとしたのだ。けれど、それは間違っている。そう思った瞬間、私は彼に向かって叫んでいた。
「違うわ!そんなのは違う!あなたひとりで背負う必要なんてないのよ。私たちは家族でしょう?2億円なんて途方もない金額かもしれないけど、3人で力を合わせれば、なんとかなるはずよ。一緒に頑張りましょうよ!」
花梨も涙を拭きながら「そうだよ、お父さん。私もアルバイトしてお金を稼ぐから、だからお父さん、私たちを置いていかないで。3人で一緒にいようよ……」と、必死に訴えかけた。彼女の声は震えていたが、その目には確かな決意が宿っていた。
幸雄は私たちの言葉に、深くうなだれた。そして、長い沈黙の後、彼は小さく頷いた。「……ありがとう。ごめん、ずっと言えなくて。うん、お前たちがいるなら……頑張れる気がする。一緒に頑張ってくれるか?」彼の声はかすれていたが、そこには希望の光が見えた。
その言葉を聞いた瞬間、私は涙が溢れた。夫は、私たちを選んでくれたのだ。私たちと共に、この困難に立ち向かうことを選んでくれた。彼のその選択が、私たちの未来を照らしてくれた。
私は震える手で、夫の手を握りしめた。彼の手は冷たかったが、力強く握り返してくれた。その手の温もりを感じながら、私は彼に顔を寄せ、静かに言った。「ありがとう、これからも頑張ろ。花梨と3人で」
花梨も、涙を拭いながら私たちの手を握りしめ、「ありがとう、お父さん」と何度も繰り返した。彼女の声は震えていたが、その目には確かな光が宿っていた。
彼の目には、深い感謝と愛情が溢れていた。彼は私たちを包み込むように、優しく抱きしめた。その腕の中で、私は深い安心感を覚えた。彼の温もりが、私たちを包み込み、守ってくれる。
「お前たちがいてくれるなら、俺は何だってできる気がする。ありがとう……本当にありがとう」彼の声は震えていたが、そこには確かな決意が感じられた。
私も花梨も、彼の胸に顔を埋めながら、静かに涙を流していた。私たちは家族だ。どんな困難が待ち受けていようとも、この絆があれば、きっと乗り越えられる。夫と花梨、そして私。この家族がいる限り、何も怖くない。そう強く思った。
家族の絆は、決して切れることはない。この愛情があれば、どんな困難にも立ち向かえる。私たちは3人で、これからも一緒に生きていく。どんな苦しみがあろうとも、私たちは家族として共に乗り越えていくのだ。この家族がいる限り、私は何も怖くない。そう強く思っていた。