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漁師の嫁

いつまでも若く恐怖

いつからだったろうか。義父の視線を背中に感じるようになったのは。気づけば、それが消えない違和感として、理央の心にまとわりついていた。

42歳の理央は、漁師である夫の補佐をしながら、義両親と共に暮らしていた。義父も長年漁師として働いていたが、体力の限界を感じていたのか、つい先日引退を決意したのだ。その日、夫と義母は揃って「今までよく頑張ったね」と義父を労わり、ささやかな宴が開かれた。理央も義父のためにご馳走を並べ、穏やかで温かい一家団欒の夜を過ごした……はずだった。

その翌朝から、理央はなんとも言えない孤独と、言い知れぬ不安を感じ始めた。漁師を辞めた義父は、もちろん家で過ごす時間が増える。庭の掃除や納屋の整理をしている姿を見かけるようになったが、理央がキッチンで料理をしていると、義父は何かと理由をつけてそこに現れる。ガラス窓に映る彼の姿が、じっとこちらを見つめているような気がして、思わず背中に冷たい汗が流れる。それがただの気のせいなら、どれだけ良かっただろう。

数週間が過ぎた頃、ある奇妙な出来事が理央の生活に影を落とし始めた。最初は、洗濯物の中にあったはずの下着が一枚、どこかに紛れ込んでしまったのだと思った。忙しさの中で取りこぼしただけだろうと、深く考えなかった。しかし、それが一度きりでは終わらなかったのだ。日に日に増える「無くなったもの」。気づけば、1か月で何枚も姿を消していた。はじめは偶然だと思っていた理央だったが、数えた枚数は2か月で7枚に上っていた。その事実に気づいたとき、理央は背筋が凍る思いがした。

誰かが…?誰が持ち去っているのか…。家族の中に他人などいないはずなのに。だが、いくら考えても答えは出なかった。ただ、どうしようもなく心にこびりついた「疑念」が、理央を夜毎に苛んだ。

夫に相談しても「気のせいだろう」と取り合ってもくれない。そんなある日、理央は思い切って小型のカメラを洗濯干し場に仕掛けた。泥棒が映っていたらどうしようという恐怖もあり、かなり抵抗があったが、それでも知りたいと思いカメラを設置することにした。日々の平穏を脅かす「何か」の正体を、どうしても確かめずにはいられなかったのだ。

そして、恐れていた真実が映像に映し出された。洗濯干し場のカメラに捉えられたのは義父の姿だった。周りを警戒しながらも、堂々と洗濯物に手を伸ばし、私の下着だけを持ち去っていた。ゆっくりと、それでいて大胆に。まるで誰にも気づかれないように、自然な手つきで、一枚の下着を取り出して、それをポケットにしまったのだ。その姿は、まるで何か特別な宝物でも手にしているかのように、慎重で、そしてどこか執着が滲んでいた。

画面の向こうで、義父が理央の持ち物に触れるその手が、わずかに震えているのが見えた。その瞬間、理央の体中に冷たいものが走り、恐怖で息が詰まる。背後で誰かがじっと見ているような気がして、振り向く勇気すら湧かなかった。ただ呆然と、画面に映る異様な光景を見つめるしかなかった。信じられなかった。信じたくなかった。義父が、まさか…そんな…。

夜が明けるまで、理央は布団にくるまり、震えながら眠れぬ時間を過ごした。誰にも話せない。その恐ろしい事実が、心にのしかかる。やがて、意を決して夫に事実を伝えることを決めたのは、その翌日のことだった。

「俺が何とかするから」。夫は確かにそう言ってくれた。が、その言葉はあまりにもあっけなく、頼りなく響いた。夫はその言葉を残して、義父についてその後一度も語ろうとしなかった。それどころか、その問題について触れること自体を避けているようだった。まるで、義父の不穏な行動など、最初からなかったかのように。

「何とかするって言ったのに…」理央は一人で問いかけるように、呟いた。夫の「放置」という形の解決策に、理央の胸には、ひっそりとした諦めが積もっていった。家族すら、頼りにできない。この家で、私は一人なのだ……その孤独な思いが、夜毎に心を蝕んでいく。

義父は「家族」であり、夫はその事実から目を逸らし続ける。理央が感じる異様な空気を、見て見ぬふりをする。それが、この家の「平穏」を保つための暗黙の了解なのだろうか……理央はいつしかそう考えるようになっていた。

孤独に耐えかねた理央は、義母にも相談してみることにした。「最近、干してある下着を盗られている気がするんです……」と、できるだけさりげなく口にした。義母は一瞬驚いたように理央を見つめ、そして、ふと険しい表情を浮かべると義父を呼びつけた。「あんたじゃないよね!」鋭い口調で問い詰めると、義父はうろたえながら、「お、俺じゃないよ」と口ごもる。そのぎこちない態度に、理央は確信を深めるも、それ以上何も言えなかった。

その出来事の後、確かに下着が消えることはなくなった。しかし、それで完全に安心できたわけではない。義母が転んで入院が決まったのは、その直後のことだった。

義母がいない間、夫が夜中に漁に出ている間は義父と二人きりになる時間が増える。家に誰もいない夜の静寂の中で、義父がただそこにいるだけで、理央は息が詰まりそうになった。まるで、見えない鎖に繋がれたように感じる。キッチンで料理をしている時も、背後からじっと見つめられている気がしてならない。ふと振り向くと、義父が無表情で立っていることがあった。何もしていない、ただそこにいるだけ……けれど、その沈黙が、理央の心には重くのしかかるのだ。

「何かありましたか?」と問いかけても、義父はかすかに微笑み、ただ「いや、何でもないよ」と呟くだけ。その微笑には、まるで何かを楽しんでいるかのような歪んだものがあった。理央はその表情を見るたびに、心に冷たいものが這い上がるのを感じた。

ある夜、眠りに落ちかけた時、かすかな軋む音が聞こえた。寝室のドアが、そっと、ほんの少し開く音だった。暗闇の中、誰かがこちらを伺っているような気配を感じ、理央は息を潜めた。恐怖で体がすくみ、声を出すこともできなかった。じっと目を閉じ、息を殺し、足音が遠ざかるのを待つしかなかった。全身を冷たい汗が伝い、布団の中で震える手を握りしめた。

義母が退院して戻ってくるまで、私はこの家で無事に過ごせるのだろうか。背後に感じるあの視線が再び近づいてくるのではないか……その恐怖が、理央の心を蝕んで離さなかった。

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