地方の小さな居酒屋で、俺は新しい日常を迎えていた。俺は42歳でバツイチだ。仕事でミスをしてこの田舎に飛ばされて、この寂れた町にやってきた。家族も友人もいない見知らぬ土地で、俺は毎日、決まって居酒屋の暖簾をくぐることが習慣になっていた。ここでの晩酌だけが、一日の終わりを感じさせる唯一の時間だった。
その日も、いつものように重たい暖簾を押し上げると、焼き鳥の煙とアルコールの匂いが俺を迎え入れた。狭い店内には数人の常連客がぽつりぽつりと座り、静かな時間が流れていた。店主がいつものように「いらっしゃい」と軽く手を挙げる。その瞬間、カウンターの奥に座っていた見慣れた女性の姿が目に入った。真奈美さんだ。彼女はこの店で手伝いをしている女性で未亡人だそうだ。柔らかく微笑むその顔には、どこか寂しさが漂っている。
「いらっしゃい、いつものね?」
真奈美さんが俺に声をかける。その笑顔に、俺は自然と心が緩むのを感じた。言葉少なに頷き、カウンターの端に腰を下ろす。彼女のいるこの店が、いつしか俺の安らぐ居場所になっていた。
「おい、あんちゃん、うちの娘をもらってくれないか?」
突然、店主の親父が笑いながらそんな言葉を投げかけてきた。俺は一瞬、聞き間違いかと思ったが、視線を上げると真奈美さんが顔を赤らめてうつむいていた。
「え?娘って…まさか、真奈美さんのことですか?」
俺は驚きのあまり声を上ずらせた。彼女をずっとパートさんだと思っていたのに、娘だったなんて。店主さんはもう80を超えているように見える為、予想外の事実に戸惑いを隠せない俺に、店主は朗らかに笑いながら続けた。
「真奈美可愛いだろ?こんなに可愛くて真面目でな。もうそろそろ幸せになってもいい頃だろうって思ってな。なぁ、真奈美?」
「やめてよ、そんなこと言わないでよ…」
真奈美さんは照れくさそうに笑いながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。その横顔には、夫を亡くし、ずっと一人で娘を育ててきた彼女の苦労と孤独が滲んでいた。5年前に夫を亡くしてから、彼女はこの町に戻ってきて、今は高校生の娘と二人暮らし。娘がいるとは思えないほど若々しく美しい彼女に、俺はいつの間にか心を惹かれていた。
「真奈美さん、大丈夫ですか?」
気がつけば、俺は彼女に声をかけていた。彼女は少し驚いたように俺を見つめ、かすかに微笑んだ。
「ありがとう。大丈夫よ、でもちょっと恥ずかしいかな…」
その笑顔には、言葉にできない寂しさが含まれていた。俺もバツイチ。再婚なんて考えたこともなかったが、彼女の笑顔はいつもどこか心に引っかかっていた。居酒屋で顔を合わせるたびに、少しずつ彼女との距離が縮まっているような気がしていた。
それからも、俺は仕事終わりにこの居酒屋に通い続けた。店主は毎度のように「うちの娘を頼むよ」と冗談めかして俺に声をかけてきたが、真奈美さんはそのたびに恥ずかしそうに目を伏せていた。最初は軽く流していたが、彼女を意識する自分に気づいた時、俺の心の中で何かが変わり始めていた。
ある夜、俺はいつもより深酒をしてしまった。どれだけ飲んだのか覚えていない。気がつけば店の座敷で横になっていた。ぼんやりとした視界の中、ふと横を向くと真奈美さんが俺の隣で眠っていた。彼女の横顔は安らかで、まるで何かに守られているようだった。
「真奈美さん…」
俺はその瞬間、心の奥で押し込めていた感情が一気に溢れ出すのを感じた。こんなに近くで彼女を見るのは初めてだった。彼女の唇がかすかに開き、穏やかな寝息が漏れる。胸が熱くなり、どうしようもない衝動がこみ上げてくる。
そんな時彼女が目を覚まし、恥ずかしそうにバッと起き上がった。
「…すみません、私も寝ちゃってました…」
彼女が目を覚まし、少し恥ずかしそうに俺を見つめた。俺も気まずさを感じながら、彼女に視線を合わせる。
「いや、俺こそ…酔いつぶれちゃって、すみません。迷惑かけました。」
「起きるまで寝かせてあげようと待ってたら、私もそのまま寝ちゃったみたい。ごめんなさい。」
真奈美さんの声には優しさが溢れていて、その一言一言が俺の胸に染み渡る。俺は彼女に惹かれている。その気持ちを否定するのは、もう無理だった。
「真奈美さん、本当にありがとう。きみの優しさが身に沁みるよ。」
「…そんな、私はただ…」
彼女は言葉を濁し、照れたようにうつむく。その仕草がまた可愛くて、俺は思わず彼女の手を取り、軽く引き寄せてしまった。
「えっ…?」
真奈美さんは驚きに目を見開く。俺も自分の行動に驚いていたが、その瞬間、この時間が間違いではないと感じた。
「ごめん、真奈美さん。俺、ずっと…きみに惹かれていたんだ。でももう我慢できない…」
俺の言葉は震えていた。真奈美さんの目には涙が浮かび、しかしそれでも微笑んでくれた。
「私も…あなたに惹かれていたの。お父さんが気を使ったみたいで。でも…」
「でも?」
「私には娘がいるし、再婚なんて簡単には考えられなくて。」
彼女の言葉は痛いほど真剣だった。だが、それでももう後戻りはできない気持ちが俺にはあった。
「真奈美さん、俺…あなたの娘さんも大切にする。だから、俺に時間をくれないか?」
真奈美さんはしばらく黙り込み、考え込んだ後、小さく頷いた。
「…うん。でも、急がないでね。私もあなたと一緒に少しずつでいいから、もう一度幸せになりたいって思ってる。」
その言葉が、俺には何よりの救いだった。二人の関係は、急ぐことなくゆっくりと動き始めた。真奈美さんの笑顔が俺の日常の支えになり、彼女と過ごす時間が日々の楽しみになった。娘さんと顔を合わせる日も、いつか来るだろう。その時、堂々と胸を張れるように俺は生きていくと決めた。
「また明日も、待ってるからね。」
真奈美さんの言葉が心に響く。俺は彼女の手を優しく握り返し、微笑んだ。
「うん、また明日。」
新しい日々への期待と共に、俺たちは笑い合った。人生の歯車が少しずつ動き出し、俺たちの未来がこれからゆっくりと始まるのだと感じながら。
数年後、俺は脱サラして、真奈美さんと一緒にお義父さんの居酒屋を引き継いでいた。あの頃の寂しげな店内は今や、真奈美さんの笑顔と美味い料理に惹かれた客で賑わっている。そして、先月からは結衣ちゃんも手伝いに来てくれるようになった。高校生だった彼女も、今では大学生になり、店の看板娘として明るく振舞っている。
俺はまだ、結衣ちゃんにとってまだまだ「父親」と言えないのかもしれないが、少しずつ信頼を築けている気がする。でも今この場に真奈美さんはいない。彼女は現在、出産を控え病院にいる。
病院の廊下は静かで、時計の秒針が刻む音だけが響いている。俺は緊張しながらも、心の奥で湧き上がる感動を抑えられなかった。いろいろなことがあった。仕事で失敗してここに飛ばされ、見知らぬ町で出会った彼女と俺たちの時間は重なり合い、今この瞬間に繋がっている。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」
看護師の声が、俺の心を震わせた。ガラス越しに見える小さな命は、俺たちが紡いできた時間の結晶だった。真奈美さんの顔には疲れと共に、満ち足りた笑顔が浮かんでいる。俺は彼女の手を握りしめ、その手の温もりを感じながら、胸の奥で静かに誓う。この家族を、ずっと大切に守り続けていくと。
「これから、よろしくな。」
俺は小さな命にそっと声をかけた。まだ始まったばかりの俺たちの新しい日々。けれども、確かに俺たちの絆はここにある。暖簾をくぐると聞こえる、あの賑やかな笑い声に包まれて、俺たちはまた明日を迎えるだろう。