私は中川慎二、65歳の定年間近の会社員です。退職金やら老後の生活費やら、そんな計算ばかりしているうちに気がつけばこの年になりました。自慢できるような人生ではありませんが、家族だけは大事にしてきたつもりでした。特に妻の美和子とは、若い頃から苦楽を共にしてきた仲でした。しかし、そんな彼女が私を裏切るなんて…そう思い込んでいた日々が、今となっては遠い過去のようにも感じます。
10年前、美和子の浮気が発覚しました。ある日、家に帰ると彼女の携帯電話が机の上に置きっぱなしになっていました。普段ならそんなことに気を留めない私が、ふと画面に光るメッセージを見てしまったのです。そこには、男の名前とともに「今日会えて良かったです」という文言が浮かんでいました。
不安に駆られた私は、次第に彼女の行動を観察するようになりました。週に何度も夜に出かける美和子。帰りが遅い日が続き、言い訳はいつも仕事関係や友人との食事。それまで彼女を疑ったことなど一度もありませんでしたが、次第にその言葉に説得力を感じなくなりました。とうとう私は直接問いただしました。彼女の顔が蒼ざめるのを見た時、浮気は確信に変わりました。美和子は私の問いに答えませんでした。ただ一言、「ごめんなさい」とだけ。何に対する謝罪なのか、問い詰めてもそれ以上の言葉は出てきませんでした。怒りと悲しみが渦巻く中で、私たちは別居という形を選びました。
それから数か月が経ちました。私は一人暮らしに慣れることもなく、ただ仕事に逃げる日々でした。家に帰れば、冷たい空気と沈黙が待っているだけです。そんなある日、不意にチャイムが鳴りました。
ドアを開けると、そこに立っていたのは40代と思われる男性でした。スーツを着たその男は落ち着いた声で言いました。
「中川さんですか?初めまして、伊藤と申します」
聞き覚えのない名前でしたが、その目には覚えがありました。美和子のスマホに映ったメッセージの送り主である浮気相手だとすぐに分かりました。
「何の用だ?」と冷たく返すと、彼は深く頭を下げました。
「突然お邪魔して申し訳ありません。ただ、中川さんにお伝えしなければならないことがあります」
私は彼を中に通しました。どうせ言い訳をするのだろう、そう思っていました。しかし、彼の口から出てきたのは想像もしなかった言葉でした。
「実は、美和子さんが病気を患っていらっしゃることをお伝えするために来ました」
病気?何を言っているのか理解できませんでした。彼は続けます。
「美和子さんには数年前から重い病気が見つかっていました。彼女はそのことを中川さんには話していません。理由は、中川さんに負担をかけたくなかったからだそうです」
私は思わず言葉を失いました。彼の話は続きます。
「浮気をしていたように見せかけたのは、自分がいなくなった後に中川さんが一人でも生きていけるようにと思ったからだと、美和子さんが言っていました。本当に浮気はしていません。ただ、悲しい結末を中川さんに見せたくない、それが彼女の思いだったそうです」
「それで、今はどこにいるんだ?」私は声を震わせながら尋ねました。
「病院に入院しています。申し訳ありませんが、残された時間は長くないと思います。彼女にぜひ会ってあげてください」
心の奥底で何かが崩れ落ちる音がしました。なぜそんな大事なことを隠していたのか。怒りと悲しみが入り混じりながらも、私は伊藤の言葉を信じるしかありませんでした。
私は彼を見送るとすぐに身支度を整え、病院へと向かいました。心臓が早鐘を打つように鳴り、頭の中はぐちゃぐちゃでした。ただ一つ分かっていたのは、今すぐに彼女のもとに行かなければならないということだけでした。
病院に着くと、彼女の病室はすぐに分かりました。ドアを開けると、そこにはやつれた美和子の姿がありました。
「美和子…」と声をかけると、彼女がゆっくりと目を開けました。
「あなた…」とつぶやいたその声が、私の胸を締め付けました。
病室の中は静かで、聞こえるのは機械の作動音と美和子の微かな呼吸音だけでした。やつれた彼女の顔を見た瞬間、胸の奥に刺さる痛みを感じました。こんなにも細くなってしまった彼女を前に、何もできなかった自分が情けなくなります。
「どうして俺に黙っていたんだ?」
椅子に腰を下ろしながら、声を絞り出しました。美和子は弱々しい笑みを浮かべ、かすれた声で言いました。
「ごめんなさい…。あなたに心配かけたくなかったの…」
「心配なんて当然だろう。なんでそんな馬鹿なことをしたんだよ。俺たちは夫婦だろう?」
思わず声が震えました。彼女の瞳には後悔の色が浮かんでいるように見えました。
「私は…、あなたが私のせいでこれ以上苦しまないようにしたかったの。それに、自分がいなくなった後、あなたが一人でも生きていけるように、そう思ったの…」
「そんなの勝手な思い込みだろう。俺に何も言わないで一人で抱え込むなんて…」
言葉に詰まりました。怒りというよりも、悲しさが胸を占めていました。美和子が自分なりに考えた結果だったとしても、なぜ相談してくれなかったのか。ただ、彼女の気持ちが痛いほど分かったからこそ、責めきれませんでした。
「でも、浮気をしたように見せるなんて…どうしてそんなことを?」
美和子は一瞬目を伏せました。そして、震える声で続けました。
「私はあなたに嫌われたかったの…。そうすれば、私がいなくなった後も、あなたは前を向いて生きていけるんじゃないかって…。でも、本当に浮気なんてしていないの。あの人、伊藤さんには、ただ話を聞いてもらっただけ。彼は、あなたと話すべきだって、ずっと言ってくれていたのよ」
「嫌われたかった?馬鹿なことを…俺が、お前を嫌えるわけないだろうが」
思わず目頭が熱くなりました。浮気なんてしていなかった。それどころか、私を想うがあまりにそんな行動を取ったのだと知り、やり場のない感情がこみ上げてきました。
「…私は、あなたと出会えて本当に幸せだったのよ。最後までそれだけは分かってほしいの」
彼女の目には涙が浮かび、その声はかすれていました。私は彼女の手をそっと握りしめました。骨ばった手が信じられないほど軽く、か細いことにまた胸が痛みました。
「お前がどう思っていたかなんて関係ない。俺は、お前がいない人生なんて考えられないんだ」
彼女は微かに笑い、涙をこぼしました。その顔は、出会った頃のように優しく、どこか安らかに見えました。
「ありがとう。本当にありがとう…。でも、もう私は…」
「言うな!」
思わず彼女の言葉を遮りました。そう言われるのが耐えられなかったのです。
「俺はお前がいなくなるなんて考えられないんだ。だから、お前には絶対に元気になってもらう。医者だってまだ希望があるって言ってるじゃないか」
美和子は何も答えず、ただ私の手を握り返しました。彼女の手の温かさを感じながら、どうにかして助けられないものかと心の中で叫びました。
その後、病室でいろんな話をしました。出会った頃のこと、結婚したばかりの頃のこと、子供たちの成長、そして一緒に過ごしてきた数々の思い出。彼女は静かに頷きながら、時折微笑みを浮かべていました。
「あの時は、あなたが本当に怒ってて怖かったわ…」
美和子がふと微笑みながら言いました。結婚初期の喧嘩の話です。互いに若さゆえの意地を張って、大喧嘩になったことを懐かしそうに話していました。その思い出話をしている間だけは、まるで時間が戻ったかのような気持ちになりました。
しかし、時間は残酷です。面会時間の終了を告げる看護師が病室に入ってきた時、現実に引き戻されました。帰る時間が来たのです。
「ありがとうね。本当に、こんな私を最後まで愛してくれて」
「最後なんて言うな。明日も来る。明後日も、ずっと来る。お前を一人には絶対しない」
美和子は微笑んで頷きました。その笑顔を胸に刻みながら、私は病院を後にしました。
その後、彼女との時間は残り少ないものでしたが、私は毎日病室を訪れました。そして彼女が息を引き取った日、私は涙を流しながらその手を握りしめ、「ありがとう」と何度も繰り返しました。
彼女が私に教えてくれたのは、愛する人と共に生きることの大切さ、そしてその時間を決して無駄にしないこと。彼女を失った悲しみは大きいですが、それ以上に感謝の気持ちが私の胸を温めています。
今は彼女の仏壇に手を合わせ、こう語りかけています。
「美和子、俺は元気にやっているよ。これからも見守っていてくれ」
そして、私は新たな一歩を踏み出しました。美和子が望んだように、前を向いて生きていくために……
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