頭からビールをかけられた日、私ははっきりと思った。この結婚はもう終わっている、と。冷たい液体が髪を伝い、シャツの中に染み込んでいく感触。それは肌寒い二月の夜、風呂に入る前にシャワーを浴びるような感覚。不意を突かれる冷たさだった。でも、その冷たさよりも心に広がる虚しさに、私は耐えられなかった。
「早く作れよ」背後から飛んできた夫の声は、まるで鈍器のように私の耳を打った。怒鳴り声でもなく、静かでもなく、ただ冷たかった。その冷え切った声が、空気に染み渡るたび、私の身体はどんどん小さくなる気がする。
振り返ると、夫の武は缶ビールを新しく開けながら、ソファにふんぞり返ってテレビを見ていた。ソファの肘掛けに足を乗せ、まるでそこが自分の玉座だと言わんばかりだ。その姿に、心の中でふと浮かんだ言葉があった。「この人、本当に人間なの?」と。
頭皮にビールの匂いがこびりついていたが、それを気にしている余裕はない。床に飛び散ったビールのしずくを拭きながら、私はキッチンに向かった。フライパンを握る手が微かに震えている。震えが怖さからなのか怒りからなのか、それともその両方なのか、自分でも分からない。ただ、ガスコンロの火が音を立てるたびに、胸の奥がざわついた。
何をしているんだろう、私は。これは本当に「妻」の仕事なのだろうか。心のどこかでこんな問いが浮かんでは消える。けれど、問いかける自分自身が滑稽に思えて、すぐに振り払った。考えても無駄なことだ。私の暮らしは、このキッチンの中で完結するもの。それが現実だ。分かっている。でも、心の奥では抗うように小さな声が響いている。こんな生活、いつまで続ければいいのかと。
私の名前は博美。40歳。スーパーでパートをしている、どこにでもいる普通の主婦だ。夫の名前は武(たけし)。車の整備士をしていて、帰宅時間は毎日バラバラだ。夕方5時に帰ってくることもあれば、深夜を過ぎることもある。武の不規則な生活に合わせて、私は自分の時間を切り詰める。夫のための食事、夫のための洗濯、夫のための掃除……私は夫の生活を回すための道具のような存在だ。
道具に自我は要らない。そんなふうに自分に言い聞かせてきたけれど、それでも心のどこかで私の中の「何か」が悲鳴を上げているのを感じていた。
そんな生活の中で、妹の葵と会うのが、唯一の息抜きだった。妹の葵は私より二つ年下。大学時代に知り合った圭太さんと結婚し、幸せそうに暮らしている。圭太さんは喫茶店でバリスタをしていて、柔らかい笑顔が似合う人だ。葵の家に行くと、圭太さんがいつも美味しいコーヒーを淹れてくれる。それが私にとって、唯一心がほっとできる時間だった。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫?」ある日、葵の家で泣きながら愚痴をこぼしていた私に、葵が困ったような顔をして言った。
「……もう限界かもしれない。でも、離婚なんて怖くて……」
「なんで? 別れちゃえばいいじゃない。圭太なんて、いつも『僕の家族も幸せにしなきゃ』って言ってるし、離婚してお姉ちゃんが頼れば何とかしてくれるよ」
葵の呑気な口調に、正直、苛立ちを覚えた。でも、それは葵のせいじゃない。彼女には分からないのだろう。離婚という二文字がどれほどの恐怖と重さを伴うものか。葵は良い夫に恵まれ、愛されているから、そんな軽い言葉を簡単に口にできるのだ。それに比べて私は……。言葉を飲み込んで、黙ったまま湯飲みを握りしめた。ぬるくなったお茶の温度が、妙に寂しさを際立たせる。そのときだった。隣に座っていた圭太さんが、静かに口を開いた。
「博美さん、無理する必要はないですよ。夫婦って、限界が来たら手放していいものなんです」
彼の声は柔らかく、けれどしっかりと力強さを持っていた。膝に置いていた私の手に、そっと圭太さんの大きな手が重なる。
その手は、驚くほど温かかった。長い間、冷え切った心に触れたその温もりに、私の目から涙が溢れそうになった。でも私は堪えた。泣いてしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がしたからだ。
「美味しいコーヒーでも淹れてきますね」そう言って圭太さんが立ち上がり、キッチンへ向かう。彼の背中をぼんやりと見送っていると、葵がいたずらっぽく笑いながら言った。
「じゃあ私が代わりに懲らしめてあげるよ!」
「え?」
「一カ月間私達入れ替わろ?その間に教育してあげるよ」その言葉は最初は冗談かと思った。けれど、冗談ではなかった。あれよあれよという間に話が進み、私は圭太さんと「夫婦」として1か月間暮らすことになった。
圭太さんとの生活は、それまでの結婚生活とはまるで違った。家事をすべて一緒にこなし、食事のたびに「美味しい」と褒めてくれる。そんな当たり前のことが、私には新鮮で、どこか不思議な感覚だった。些細なミスにも怒られることはなく、むしろ「大丈夫ですよ」と笑顔でフォローしてくれる。その笑顔を見るたび、心の中の冷たい塊が少しずつ溶けていくのを感じた。
ある日、私がお皿を割ってしまったときも、彼は真っ先に私の手を取って言った。
「怪我がなくて良かった。本当に良かった」
その言葉に、私は思わず涙を流してしまった。こんなに優しい言葉を、私はいつ以来かけられたのだろう。そう考えると、涙が止まらなかった。その1か月の終わり、圭太さんが静かに切り出した。
「あの二人、昔から出来ているんですよ」
「え!?」彼が差し出した証拠写真。そこに写っていたのは、私の妹と夫……信じたくない光景だった。
頭がくらくらして、倒れそうになる私を、圭太さんが支えてくれた。
「博美さん、大丈夫です。あなたはもう、自由になれるんですから」
「あんな奴と一緒にいる必要はもう無いですよ」その言葉に、私は救われた気がした。
その翌日、私と圭太さんは葵と夫の元に向かった。鍵を開けて忍び込み、寝室の扉をそっと開けると、そこには裸で抱き合っている二人が……。私たちは彼らの姿を写真に収めた。私の手は震えていたが、それでもシャッターを押す指には、妙な力が入った。
「慰謝料はたっぷり頂くから。抵抗したら職場にも連絡するから」圭太さんの静かで恐ろしいほどの冷酷な声、そして表情が、彼らに反論を許さなかった。
その翌週、圭太さんの誕生日の夜、緑色のマフラーをプレゼントした私に、彼は満面の笑みでこう言った。
「ありがとうございます。一生、大切にします」
その言葉を聞いて、私はそっと彼の手を握り返した。彼の手は相変わらず温かく、私の未来をそっと包み込んでくれているようだった。
これから私は、この温もりとともに歩んでいく。それが私の新しい人生の始まりだ……。