私は健児、65歳。この春、40年勤めた会社を定年退職しました。
真面目一徹で仕事に打ち込んできたつもりですが、定年を迎えると、何とも言えない寂しさが胸に広がります。妻の靖子とは長い付き合いですが、家族のために働くことが最優先で、二人だけの時間はいつしか後回しになっていました。
この日は部下にもお疲れ様会をされ、全員が祝ってくれました。彼らのような部下を持てたことは私の仕事をしてきた中で本当に誇りに思っています。でもやはり私のような頑固で、難しい性格の男を支えてくれたのは妻の靖子でしょう。ここまで来てお恥ずかしながら気づいたことですが、やはり私のような人間には靖子のような女性しか合わないでしょう。だからこそ彼女には感謝しているのです。飲み会が終わり私はそのまま帰ってきました。
すると玄関の扉を開けると、靖子が玄関までやってきて三つ指をついてこう言ったのです。
「あなた…お疲れ様でした」
靖子が差し出してくれた湯飲みには、私の好きな緑茶が注がれていました。
「ありがとう、靖子…」
定年退職の日、私は安堵と名残惜しさを胸に家の玄関をくぐりました。仕事一筋で走り続けてきた40年。ようやく一区切りついたのです。
靖子は普段と変わらない笑顔で私を迎えてくれました。彼女なりに気を遣ってくれたのだと思います。特別に派手な演出がなくても、私にとってはその一言が何よりの労いでした。
夜には子供たちが家に集まり、小さな退職祝いを開いてくれました。久しぶりに全員が顔を揃え、笑い声が絶えない賑やかな食卓になりました。長男の孝行夫婦に次女の沙織とその家族、そして末っ子の信彦。どの子もそれぞれ家庭を持ち、私たち夫婦のもとを巣立っていきましたが、こうして集まると昔に戻ったような気分になります。
その中で沙織が旅行券を差し出し、「お父さん、お母さん、これを機に温泉旅行に行ってきて」と言ってくれました。孫たちが「おじいちゃん、おばあちゃん、楽しんでね!」とはしゃぐ姿に、靖子も笑顔を浮かべていました。
「これが退職祝いだな。ありがとう、みんな」
私はしみじみと感謝を伝えました。
数日後、旅行の日がやってきました。行き先は近場の温泉地ですが、二人きりの旅行は久しぶりです。子供たちが小さい頃は家族で出かけることが多かったものの、夫婦二人で旅に出る機会はほとんどありませんでした。
車中での会話も、なんだか新鮮に感じます。
「ねぇ、健児さん。仕事辞めてこれからどうするつもり?」
靖子がふと問いかけてきました。
「そうだなぁ。少しゆっくりして、それから考えようと思ってるよ。でも、まずは君に付き合う時間を増やさなきゃな」
靖子はクスッと笑いました。
「ほんと? 長年の社長気取りが抜けるまで時間がかかるんじゃないの?」
「そんなことないさ。これからは俺も主夫業を頑張らないと」
こんな軽口を交わしながら、温泉地に到着しました。
宿に着くと、従業員の方が部屋まで案内してくれました。窓から見える山々は紅葉が始まっており、秋の訪れを感じさせます。部屋に入ると、靖子が荷物を片付けながら言いました。
「昔、こんな旅行がしたいって話してたわよね。子供たちが大きくなったら夫婦二人で温泉に行こうって」
「そうだったな。でも、こうして実現するまで時間がかかったな」
「それだけ忙しかったのよ、あなたがね」
靖子の言葉には皮肉ではなく、どこか懐かしむような優しさが滲んでいました。
その夜、温泉街を散策しました。静かな湯気が漂い、灯りに照らされた石畳がとても美しく感じられました。
「こうして歩いていると、昔を思い出すな」
私がそう言うと、靖子も同意するように頷きました。
「若い頃はよく手を繋いで歩いたわよね」
「じゃあ、今も繋ごうか?」
私が手を差し出すと、靖子は一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐに微笑んでその手を握りました。
「あなた、こんなロマンチックなこと言う人だったかしら?」
「たまにはいいだろう?」
二人で笑い合いながら、のんびりとした時間を楽しみました。この旅行で、これまでの夫婦生活を振り返るきっかけができたように思います。
「靖子、今までありがとうな」
自然と口をついて出た言葉でした。
靖子は少し驚いたように私を見上げ、静かに頷きました。
「こちらこそ、ありがとう。これからもよろしくね」
その時、胸の奥から温かい感情が湧き上がってきました。この人と共に歩んできた人生は決して悪いものではなかった、むしろ幸福だったのだと、改めて思いました。
翌朝、目が覚めると靖子が先に布団を畳んでいました。窓の外からは朝日が差し込み、昨日の温泉街散策で感じた穏やかな気持ちが胸に蘇ります。
「おはよう、よく眠れたか?」
私が声をかけると、靖子は軽く頷きながら微笑みました。
「ええ、とてもよく眠れたわ。あなたは?」
「うん、熟睡したよ。やっぱり温泉の力はすごいな」
朝食の膳が運ばれてくると、私たちは普段よりもゆっくりと箸を進めました。二人きりでこうして静かに食事をするのも、なんだか久しぶりのことです。
チェックアウトの時間が迫り、旅館のスタッフに見送られながら外へ出ると、空は快晴で秋の冷たい空気が心地よく感じられました。帰り道をどうするか相談していると、靖子が突然こう提案してきました。
「ねぇ、健児さん。少し遠回りしていかない? 昔、子供たちとよく行った公園に寄ってみたいの」
「あの公園か。懐かしいな。いいよ、行ってみよう」
車を走らせ、30分ほどでその公園に到着しました。駐車場に車を停め、歩いてみると、そこには昔と変わらない広場や木々が広がっていました。
公園のベンチに座ると、靖子がぼんやりと遠くを眺めながら言いました。
「ここに来ると、本当にいろんなことを思い出すわね。あなた、子供たちとキャッチボールをしてくれたこと、覚えてる?」
「ああ、覚えてるとも。信彦がボールを投げるときにいつも豪速球を狙うから、手が痛かったのを今でも覚えてるよ」
「ふふっ、あの頃はみんな元気だったわね。私も毎日忙しかったけれど、楽しかった」
靖子がふっと笑うと、その笑顔に私の胸がじんとしました。
「靖子、俺、これからのことを考えたんだ」
「これから?」
「定年して、時間がたっぷりできただろう? だから、これからは君にもっと感謝を伝えたいと思ってる。今まで俺が忙しいなんて言い訳して、いろいろ任せっきりにしてきたけど……これからは少しでも君の力になりたい」
靖子は驚いたように私の方を見つめました。そして、少し照れたように言いました。
「そんなこと言われると、逆に落ち着かないわね。でも、ありがとう。あなたがそう言ってくれるだけで嬉しいわ」
その後、帰り道の車中では、これからの過ごし方について二人で話し合いました。
「退職後って暇になるかと思ってたけど、意外とやりたいことが出てくるな」
「例えば?」
「まずは家事を手伝うだろう。それから趣味を見つけたい。散歩したり、写真を撮ったり。君も一緒にどうだ?」靖子は少し考えてから頷きました。
「そうね。一緒に何か始めるのも悪くないかも」家に着くと、孫たちが駆け寄ってきました。「おじいちゃん、おばあちゃん、どうだった?」「とてもいい旅行だったぞ。ありがとう」靖子も笑顔で言葉を添えました。
「本当にありがとう。こんな素敵なプレゼントをもらえるなんて、私たち幸せ者ね」
孫たちが笑い合う姿を見ながら、私は改めて心の中でこう思いました。
これからの人生、靖子と共に穏やかに歩んでいこう。そして、孫たちや子供たちにも、夫婦が支え合う姿を見せ続けたい。
私たちの第二の人生は、こうして新たな一歩を踏み出しました。