宴会の喧騒の中で、その異変に最初に気づいたのは俺だった。
「田中さん、大丈夫ですか?」目の前に座っていた美穂さんが、顔を青白くしてテーブルに突っ伏したのだ。宴会場は一瞬にしてざわついたが、周りにいた上司たちはオロオロするばかりで、誰一人として動こうとしない。
「おい、田中、飲みすぎたんじゃないのか?」
「社長の娘でも酒は弱いんだな。」そんな軽口を叩きながら、誰も美穂さんを助けようとはしなかった。
「俺が部屋まで運びんできます!」そう言って俺は彼女の肩を支え、体を抱き上げた。軽い……そんなことを考える余裕なんて本来はなかったはずなのに、彼女の華奢な体が俺の腕に伝わった瞬間、不思議な緊張感が全身を走った。宴会場を後にして彼女の部屋まで運ぶ間、俺の胸の鼓動は静かに早鐘を打っていた。部屋に着き、ベッドに彼女を寝かせた瞬間、薄っすらと瞼が動いた。
「……中村さん?」その声はかすれていて、小さかったが、彼女の目にはどこか不安と警戒心が混じっていた。
「飲みすぎで倒れたんです。大丈夫ですか?とりあえずすぐにお水を飲んでください。」彼女はしばらくぼんやりと俺の顔を見つめていたが、やがて小さく息をついて静かに呟いた。
「……ありがとう。ごめんなさい、驚かせちゃったみたいで。」
俺の名前は中村徹、40歳のしがない会社員だ。つい半年前に離婚をし、現在絶賛どん底中だ。15年間一緒に暮らしてきた妻がある日、家を出て行った。理由は俺が仕事に没頭するあまり、彼女を顧みなかったからだ。
「あなたは私のこと、全然見てくれないよね。」最後に妻が残した言葉が今でも胸に引っかかっている。妻が出て行った後、静まり返ったリビングのテーブルに座り、一人で飲むコーヒーの味がやけに苦かったのを覚えている。彼女が出て行った後の虚無感は想像を超えていた。夜遅く帰っても、暗い部屋で待っているのは静寂だけ。そんな日々が半年も続いていた。
そんな時に、会社で慰安旅行があると知らされた。温泉地への1泊2日のバス旅行。同僚や上司と親睦を深めるためのものだというが、正直、参加する気力なんてなかった。それでも、断るわけにもいかず、仕方なく重い足を引きずりながらバスに乗り込んだ。バスの中で指定された席に向かうと、隣に座っていたのが田中美穂さんだった。
彼女はこの会社のエリア長で、誰もが認める才色兼備な女性だ。社長の娘という立場もあり、常に周囲から注目されている存在だった。冷静で聡明で、どんな状況でも的確に判断を下す彼女に、社内の誰もが一目置いている。だが、その完璧さゆえに近寄りがたい雰囲気もあった。
「中村さん、隣ですね。よろしくお願いします。」柔らかな声でそう言われ、俺は少し緊張しながらも「よろしくお願いします」と返した。
バスが温泉地に向かう間、俺たちはなぜか不思議と自然に会話を交わした。仕事の話から趣味の話、最近観た映画の話まで、話題は尽きなかった。彼女は見た目の冷静さとは裏腹に、親しみやすさも持ち合わせており、意外なほど話しやすかった。
「中村さんは相変わらず真面目ですよね。そういうところ、すごく尊敬します。」突然の言葉に、俺は驚きと照れくささを感じながら答えた。
「いや、不器用なだけです。真面目にやるしか取り柄がないんですよ。」そんなやり取りをしているうちに、俺の心は少しだけ軽くなっていた。
温泉地に到着してからも、自然な流れで彼女と行動を共にすることが増えた。昼間の観光地巡り、温泉街の散策、そして夜の宴会。旅行そのものには気乗りしていなかったはずが、彼女と過ごす時間だけは不思議と楽しかった。だが、その夜の宴会で上司に呑まされ続け彼女が倒れるという事件が起きたのだった。
その出来事があってから、俺たちは少しずつ距離を縮めることになった。時折一緒に食事をし、彼女が抱える悩みを打ち明けてくれるまでになった。その中で、彼女がどれほど苦しんでいたのかを知ることになる。
「社長の娘ってだけで、常に偏見で見られてるし、中々認めないし………あのタヌキおやじどもめ」と彼女は冗談めかして言っていたがその言葉には明らかに怒りが込められていた。
「私が何を言っても、親の七光りって決めつけられるんですよ。頑張ってるんだけどなぁ……。」知らなかったとはいえ、美穂さんは会社の中で、既得権益にしがみつくような古い体制の上司たちと戦い続けていたのだ。彼らは彼女の提案をことごとく却下し、自分たちの地位を守るための策を巡らせていた。美穂さんの提案がどれだけ優れていても、実現することはほとんどなかった。
「いつも、壁にぶつかってばかりなんです。でも、中村さんはちゃんと見てくれるから…。なんか不思議と力が湧いてくるんですよね。」その言葉に俺は胸が熱くなった。あれから、俺は彼女のために何ができるのかを真剣に考えるようになった。ただ彼女の愚痴を聞くだけでは、きっと何も変わらない。彼女があれほど頑張っているのに、俺が何もできないままでは、俺自身が情けなかった。
でも、実際に何かをしようと考えても、俺はただの平凡な社員だ。エリア長である美穂さんのように影響力を持っているわけでもないし、社長室に意見を直接届けられる立場でもない。俺にできることなんて、きっと何もない。そう思いかけていた。
そんなある日、俺は美穂さんの頼みで、新しいプロジェクトの資料を手伝っていた。彼女が提案した新しい販売戦略について、プレゼン資料を作り直すためだ。彼女が直々に頼んでくれるなんて、正直嬉しかった。何かの役に立てるなら、それがどんな小さなことでも、俺にとっては意味があった。
「ごめんね……。手伝ってくれてるけど、この案も結局、きっとまた却下されると思うんだ。」いつも凛としている美穂さんが、こんな弱気な言葉を口にするなんて、俺は驚いてしまった。
「なんでですか?この案、すごくいいと思いますけど。」
「ありがとう。でも、きっとまた“実現不可能”だとか、“今のやり方で十分だ”とか、そんな理由をつけられて終わるんです。」
彼女の瞳には微かな光が宿っていたが、その光はどこか遠く感じられた。彼女の提案を妨害しているのは、社内で既得権益を守ろうとする古参の上司たちだった。会社の未来のために動こうとする美穂さんを快く思わない彼らは、彼女が提案するどんなプロジェクトにも反対し、進展を妨げていた。
「それでも、やるんですか?」俺は思わず聞いてしまった。彼女の努力がいつも報われないのを見ていると、俺まで悔しくなっていたからだ。
「……続けますよ。だって、諦めたらそこで終わりじゃないですか。」そう言って微笑む彼女の表情には、少しだけ苦さが混じっていた。その強さと弱さの同居した表情に、俺は心を打たれた。その言葉を聞いたとき、俺の胸に湧き上がったのは悔しさだった。こんなにも努力している彼女が報われないなんて……そんな現実が許せなかった。
それから数日後、社内の大きな会議で事件が起きた。美穂さんが提案した新しい販売戦略の案。それは、現状を抜本的に変える大胆な内容だった。しかし、その案が披露されると、古参の上司たちは一斉に反発を始めた。
「新しい販売戦略だと? そんなリスクを取る必要がどこにある!」
「実現性のない机上の空論だ。現実を見なさい!」彼らの声は冷たく、彼女の努力を嘲笑うかのようだった。美穂さんは冷静を装っていたが、その肩がわずかに震えているのを、俺は見逃せなかった。
「ちょっと待ってください!」会議の場で、俺はついに声を上げた。
「田中さんの案を否定するのは簡単です。でも、この会社の未来がどうなるか、考えてますか?」古参の上司たちの怒声が響く。その圧力は尋常ではなかった。だが、それでも俺は続けた。
「見てもいないのに頭ごなしに否定してるなら、こんな会議は必要ない!彼女は、今じゃなく未来を考えているんです!それを足蹴にするのは、この会社にとって損失でしかない!」会議室はしんと静まり返った。しばらくして、社長が重々しい声で口を開いた。
「中村くん、後で私の部屋に来なさい。」
社長室に呼び出された俺は、正直言って覚悟していた。俺の発言は、上司たちのプライドを傷つけた。おそらく厳しい叱責が待っているだろうと思っていた。だが、社長の口から出た言葉は意外なものだった。
「……よく言ってくれた。」その声は低く、そしてどこか感謝が込められていた。
「会社が現状こんな状態なのは、私も分かっていたつもりだ。ただ、父親として、社長として、動けなかったんだ。」そう言って社長は深いため息をついた。
「君のように真っ直ぐに意見を言える社員がいて、この会社はまだ大丈夫だと思ったよ。ありがとう。」その言葉を聞いた瞬間、俺の中にあった緊張がすっと溶けていった。そして同時に、改めて美穂さんのために頑張ろうという決意が胸に芽生えた。
それから、会社は少しずつ変わり始めた。古い体制が徐々に解体され、美穂さんの提案が受け入れられる環境が整えられた。そして彼女は副社長に昇進し、より大きな責任を担うことになった。
そして、俺たちは……なんと結婚することになった。夕焼けに染まるチャペルの中で、俺は目の前にいる彼女を見つめていた。彼女の瞳には、揺れるキャンドルの光が映っていた。どこか夢のような、穏やかな光景だった。こんな時間が俺に訪れるなんて……半年前には想像すらできなかった。俺は改めて思う。この出会いが、俺の人生を、そして俺たちの人生を変えたのだと。
YouTube
現在準備中です。しばらくお待ちください。