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喪失

いつまでも若く純愛

言葉に出来ない赤色の太陽が沈み、崑崙(コンロン)の風が僕の肌を刺す。荒涼とした大地の先には、白銀の峰が不気味なほど静かにそびえ立っていた。息を吸うたびに肺が苦しく、心臓は暴れるように鼓動を刻む。それでも、僕はシャッターを切る手を止められない。

僕の名前は藤井康弘。36歳。この標高5000メートルを超える厳しい地でカメラを構え続ける理由は、ただ一つ。いや――正確には、二つだ。一つは、この地そのものの魅力。神々が住むとさえ言われる自然の荒々しさ、その中に潜む静けさ。そしてもう一つは――秋華(チウホァ)の存在だ。彼女は僕が今も追い求める女性の名前だ。

大学時代、僕は彼女と出会った。澄んだ瞳、艶やかな黒髪、少し背筋の伸びた凛とした佇まい。彼女は中国内陸部から来た留学生だった。どこか近寄りがたい雰囲気をまといながらも、笑うときだけは子どものような無邪気さを見せる。そんな彼女に、僕は一瞬で心を奪われ恋に落ちた。

偶然にも僕と秋華は、同じ山岳部に所属することになった。険しい山道を一緒に歩きながら、彼女が自然を愛していることを知った。その眼差しは、木々や山肌を慈しむようで、僕は彼女の言葉を聞くたびに、彼女そのものを好きになっていった。やがて二人の距離は縮まり、自然と付き合い始め、学生ながら同棲をするようになった。
「山の中にいると、私の故郷を思い出すの」彼女はよくそう言って、僕に故郷の料理を振る舞ってくれた。独特な香辛料の香り、湯気の向こうで微笑む彼女の顔。どれもが僕にとってずっと続いて欲しいと思える幸せだった。そしていつしか僕たちは、互いの未来を約束するようになった。
「卒業したら、結婚しようね」秋華はそう微笑み、僕たちは何度もその言葉を繰り返すほどだった愛し合っていた。

だが――その未来は、ある日、音を立てて崩れ去った。卒業を間近に控えたある日、僕たちはいつものようにアパートで過ごしていた。秋華は食卓にスープを並べながら、小さな声で呟いた。
「……話があるの…」その声に、僕は一瞬胸がざわついた。彼女がこうして真剣な顔をするのは珍しい。箸を置き、静かに話を聞いた。
「私、帰らなきゃいけなくなったの」彼女の瞳には涙が浮かんでいた。まるで何かを決心したような、その目。それは僕に、これが冗談ではないことを悟らせた。
「どうして?何かあったのか?」焦る僕の問いに、彼女は俯いたまま答えない。ただ、「ごめんこれ以上、迷惑をかけたくない」と何度も繰り返すばかりだった。
「迷惑なんて思うことはない!」声を荒げる僕に、秋華は泣きながら首を振った。
「お願い……これ以上、何も聞かないで」震える声に、僕はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。胸の奥がえぐられるように痛み、涙が喉の奥で詰まった。

数日後、秋華は中国へと帰国した。理由も分からぬまま、彼女を見送るしかなかった僕は、空港で彼女の背中が消えていくのを、ただ呆然と見つめていた。

秋華がいなくなった後の僕の生活は、ただの抜け殻だった。卒業後、会社に就職し、日々の業務に追われることで気を紛らわせようとしたが、ふとした瞬間に彼女の姿が蘇る。夜、ベッドに横たわれば、隣にいたはずの彼女の気配を思い出し、涙が零れる日もあった。「どうしてあの日、もっと彼女に問い詰めなかったんだろう?」
既に電話も解約されており連絡することもできなかった。悔やんでも悔やみきれない。何度も彼女の名前をSNSで検索してみたりもしたが、手がかりは一つも見つからなかった。

やがて、僕は会社を辞めることを決めた。働いているふりをするだけの毎日は、ただ時間を浪費しているようだった。あの頃の僕は、「生きている」というより「息をしている」だけだったのだ。けれど、辞めると決めるまでには、何度も心が揺れた。安定した生活を捨てることへの不安や、この選択が正しいのかという迷い――そうした感情が夜ごと胸を締め付けた。だが、ふと考えたとき気づいた。「このままでは、僕は彼女との記憶の中に閉じ込められたままだ」と。

逃げてはいけない。もう一度、彼女と向き合いたい。たとえ彼女が今どこにいて、どんな人生を歩んでいるのか、僕には何もわからなくても――僕が何かを変えられるとは限らなくても――それでも進まなければ、僕はこの先もずっと同じ場所で立ち止まり続けてしまう。そう思ったとき、答えは自然と決まっていた。僕が探すべき場所は、彼女の故郷――中国だ。そこで何かが見つかるのか、それとも何も見つからないのか、それすらわからない。それでも行かなければならない。たとえ彼女に会えないとしても、少なくとも僕自身が答えを探したという事実が、きっと僕を救ってくれる気がしたからだ。そして、僕は決意した。「行こう――中国へ」と。たとえ叶わないと分かっていても。

中国の広大な大地を旅する中で、僕は一つのカメラを手にした。街並みや山々、そこで暮らす人々の表情――カメラを通して見る世界は、ただの風景ではなく、感情そのものを切り取るようだった。秋華がこの風景のどこかで生きている――そう信じて、シャッターを切り続けた。

次第に、旅先で出会った人々の話を聞き、写真を撮ることが、僕自身を支えてくれるようになった。そして、僕は崑崙(コンロン)の山々に出会ってしまった。この地は彼女が好きだと言っていた山岳地帯だ。その神秘的な雰囲気や、歴史的・文化的な重要性は、古代から現代に至るまで多くの人々の想像をかき立てる。崑崙での撮影は過酷だった。凍てつく寒さ、酸素の薄い空気、それでもその厳しさが僕に生きる実感を取り戻させてくれた。この地で写真を撮り続けるうちに、僕は自分が「カメラマン」として新しい道を歩むことを決めたのだ。

崑崙での生活にも慣れてきたある晩。撮影を終え、テントに戻った僕は、湯を沸かし、簡単な食事をとった。温かいスープが喉を通るたびに、一日の疲れが少しずつ溶けていくようだった。それでも、湯気の向こうに広がる暗い夜空を見上げると、心の奥底にぽっかりと空いた隙間が寒さとともに広がっていく。彼女に会いたい――そう思わなかった日は、ここに来てから一日もなかった。

テントの中でひとり、湯気の消えたコップを握りしめながら、その感情がじわりと胸に染み込んでくるのを感じる。けれど、答えがないのは分かっていた。僕の声も、想いも、どれだけ風に乗せても届かない――そんな気がしていた。眠らない崑崙の風が、テントの布地を揺らしている。その音はどこか遠い彼女の声のようにも聞こえた。けれど、そんなことを思うのはただの疲れのせいだろう。僕は寝袋に身を沈める。やがて、疲れ切った身体が重力に抗えず、意識は深い眠りの中へと引き込まれていった。秋華に会える夢を見ながら…

そのとき。静寂の中、スマホの画面がそっと光った。テントの隅に無造作に置かれたその画面には、一つの通知が浮かび上がっている。

「ひさしぶり」

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