冬の夜、冷たい風が街路樹の間を抜けていく。その風が、僕のコートの中で震える町田佳代の肩をさらに小さく見せていた。彼女の頬には涙の跡が残り、冷たい夜風に晒されて乾いていたけれど、それでも時折肩が揺れるのを感じるたび、彼女の中にある消えない痛みが、今もそこにあることを教えてくる。
「松井さん、本当に私でいいんですか?」
彼女が小さく呟いたその声は、夜の静寂に溶け込んでしまいそうなほどか細かった。でも、その言葉の重みは、まっすぐに僕の胸を撃ち抜いた。彼女が抱える迷いや、不安、そしてその裏に隠された過去の痛み――それらが全て詰め込まれたその一言だった。僕は黙って、彼女の肩をそっと抱き寄せた。彼女の細い体は、まるで壊れそうなほど脆く思えた。
「いいも何も、僕は君が好きなんだ。それ以上の理由なんていらない」
僕がそう言うと、彼女は一瞬だけ目を見開き、次の瞬間には泣きそうな笑顔を浮かべていた。その笑顔は、どこか戸惑いを残していて、彼女の中の不安が完全に消え去ったわけではないことを物語っていた。それでも彼女は、そっと顔を僕の胸に埋めた。少し湿った髪が冷たい風に揺れるたび、僕の鼻先をかすめる微かな香りが、胸の奥を切なく満たしていく。
この瞬間、僕は心の中で強く誓った。どんな困難が訪れたとしても、どんなに彼女が弱さを見せたとしても、僕は彼女を守り続ける。
けれど、この夜を迎えるまでには、彼女と僕の間にはいくつもの小さな、けれど決して軽くはない出来事があった。佳代が職場で俯きながら仕事に追われていた日々。そして、僕が彼女を救おうと心に決めたあの日――。
彼女の名前は町田佳代は、職場では目立つ存在ではなかった。黒髪を後ろで束ね、黒縁の眼鏡をかけたその姿は、まじめでお堅そうな印象を持っていた。彼女はいつも地味な格好をしていて、決して人前には出たがらない性格をしていた。
彼女を特別美しいと思う人はおそらくいなかっただろう。同僚たちの間でも、彼女について話題になることは滅多にない。「あの子、ちょっと暗いよね」「いつも疲れてる感じしない?」といった心無い言葉がたまに耳に入ることもあった。それでも彼女は気にする素振りも見せず、静かに仕事をこなしていた。けれど、僕は知っていた。あの眼鏡の奥に隠された、彼女の本当の姿を。
数年前、僕は地下アイドルのライブに夢中になっていた。週末ごとにライブハウスへ通い、あの狭い空間の中で彼女の歌声に酔いしれていた。そう、「ヨッカ」と名乗るあまり売れていないアイドル。それが、彼女だった。透明感のある歌声と純粋な笑顔、そしてファン一人ひとりに心から感謝を伝えるその姿に、僕はすっかり魅了されていた。でも、今目の前にいる彼女は、いつも俯いた感じで暗い雰囲気を醸し出している。アイドルをしていたあの頃の輝きをまるで失っていた。彼女の中で何があったのか、その理由を僕は知らない。知ろうとも思わなかった。理由があって隠しているのなら、それを無理に暴くのは無粋だ。それでも、僕にはどうしても我慢できないことがあった。彼女が職場で受けている理不尽な扱いだ。
うちの会社にも例にもれずお局たちがいる。その代表格が立浪や岩崎だ。彼女らは自分たちの仕事を佳代に押し付けている。それを見るたびに僕の胸は怒りで熱くなった。彼女は困ったように「わかりました」と小さく頷くその姿に、心の中で何度も拳を握りしめた。佳代は静かにいつも受け入れる。それが彼女のもめないようにする「対処法」なのだろう。だけど、それが正しいとは僕には思えなかった。
ある日の昼休み、岩崎が彼女のデスクに分厚いファイルを置いた。「これ、明日までにお願いね」と、まるで当たり前のような顔をして彼女に仕事を振っていた。彼女はやはりいつものように小さな声で「わかりました」と答え、仕事を引き受ける。その瞬間、僕はついに耐えられなくなった。
「それ、町田さんの仕事じゃないですよね」静かに、けれど明確に僕がそう言った瞬間、オフィス全体がピタリと静まり返った。空気が一変し、誰もが僕たちのほうを振り向いた。岩崎が振り返り、驚いた表情を見せる。その顔には、僕の言葉が予想外だったことがありありと浮かんでいた。
「え、松井さん?何言ってるんですか?」苛立ちを隠そうともせず、彼女はわざとらしい笑みを浮かべた。その視線には「余計なことを言うな」という無言の圧力が宿っていたが、僕はその目を真っ直ぐに見返した。
「自分の仕事を人に押し付けるのはどうかと思いますよ。どう考えてもおかしいと思います。」岩崎の笑顔が固まり、その奥にある焦りがちらりと見えた。立浪が横で気まずそうに目をそらし、けれどどこか面白がるような表情で肩をすくめる。
「別に、そんなつもりじゃなかったんですけど?」
「町田さんが一人で出来るなら、あんたはリストラされますよ?」
そういうと岩崎はわざとらしく舌打ちをして、ファイルを乱暴に引き寄せた。彼女は立浪と目配せをしながら、ため息交じりにその場を立ち去っていった。
オフィスのざわめきが少しずつ戻り始めた頃、佳代が小さな声で「松井さん……ありがとうございました」と言った。その声はかすかに震えていて、いつもよりさらに小さかった。僕は彼女の方を向き、できるだけ優しい声で答えた。
「すみません、我慢できなくて。でもまた何かあったら言ってください。僕が守りますから」佳代は一瞬だけ驚いた顔をして、それからうつむいた。その瞳の奥にたまっていた涙が、ひと粒だけポロリとデスクに落ちた。彼女は涙を拭うこともせず、ただ小さく頷く。その姿に僕の胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
数日後、僕は彼女を夕食に誘った。特別な意味を込めた誘いではなかった。ただ、彼女に少しでも笑顔を取り戻してほしかった。それだけのつもりだったのに、待ち合わせ場所に現れた佳代を見た瞬間、僕は息を呑んだ。眼鏡を外し、髪を柔らかく巻き、白いワンピースを身に纏った彼女は、まるで別人のようだった。いや、違う、あの頃のステージの上で輝いていた「ヨッカ」がそのまま現れたようだった。
「待たせちゃいましたか?」控えめな声と共に、彼女が恥ずかしそうに微笑む。その笑顔に、僕はしばらく言葉を失ってしまった。
レストランに入り、静かな音楽が流れる中、僕たちは他愛のない会話を交わした。普段の彼女からは想像できないほど柔らかい表情を浮かべる佳代を見ていると、自然と笑顔になってしまう。それでも、彼女はふと真剣な表情になり、ナプキンをいじりながら小さな声で言った。
「松井さん、今日の私、似合ってないですよね?」
その問いに僕は驚き、思わず彼女を見つめ返した。彼女は少し困ったように微笑み、目を伏せた。その仕草が妙に愛おしく、僕は自然と微笑みながら答えた。
「いや、すごく似合ってるよ。でも……」
「でも?」と彼女が首を傾げる。
「僕は眼鏡をかけてる方が好きかな」
「え?……どうしてですか?」彼女の問いに、僕は少し考えてから正直な気持ちを伝えた。
「美人過ぎて心臓が持たないよ。それと、君が美人だって周りに知られたくないから…かな。だから僕だけの秘密にしておきたいし…」僕は少しだけ照れながら自分の想いを吐き出した。その言葉に彼女は一瞬驚いた顔をして、それから頬をほんのり赤く染めた。そして、鞄から眼鏡を取り出してそっとかけ直した。
「これで安心ですか?」と照れくさそうに笑う彼女。その姿が、たまらなく愛おしくて、僕は思わず彼女の手を取った。
「ありがとう」と彼女がぽつりと呟いたその声は、小さくて震えていたけれど、確かに僕の心に届いた。彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。それは、これまでの苦しみが和らぎ始めた証だったのかもしれない。ふと見上げた夜空には星がひとつもなかった。でも、不思議と心は温かく満たされていた。冷たい冬の闇の中で、彼女の眼鏡越しの瞳がまるで夜空に瞬く星そのもののように見えた。
「松井さん、私、本当にこんな私でいいんでしょうか?」再び不安げに漏れたその問いに、僕は静かに微笑みながら答えた。
「君は君のままでいいんだ。僕にとってはどっちも佳代さんだからね」
彼女が瞳を潤ませながら微笑む姿を見て、僕は心の中で強く誓った。たとえどんな困難が訪れようとも、この手を決して離さないと。この笑顔を、そしてこの温もりを守り続けると。
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