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私の名前は田崎哲夫、62歳です。妻の麻衣子とは35年以上連れ添っています。結婚当初はお互い若く、何をするにも楽しかったし、夜の生活だって例外じゃありませんでした。麻衣子も「あなた、ほんと元気ねぇ」なんて笑いながら付き合ってくれたものです。でも、そんなのはもう昔の話。この歳になると、普通は落ち着くものなんでしょう。
ただ、俺の場合は違うんです。自分で言うのもなんですが、この歳になっても性欲が異常に強い。それどころかどんどんと増しているくらいです。年を取っても、毎日求めないと寝られません。正直、自分でも「どうしてこんなに?」って思うくらいで。最初の頃は麻衣子も「しょうがないわね」と応じてくれていました。でも最近では「もう無理」「疲れる」と言われるようになり、最後にはついケンカになってしまいました。そして麻衣子の口から出たのは、「よそに女でも作るか、お店にでも行ってくれない?」という冷たい言葉。正直、その一言には心がズシンと重くなりました。
浮気なんて絶対にしたくないし、風俗なんて興味もありません。俺が欲しいのは、麻衣子との触れ合いなんです。でも、自分の欲求が麻衣子に負担をかけていることもわかっていました。この歳になって「性欲が強すぎる」なんて悩みを抱えるのは恥ずかしくて、誰にも相談できない。だからこそ、自分で抱え込むしかないと思っていました。
そんなある日、久しぶりに医者をやっている旧友と飲みに行く機会がありました。学生時代からの親友で、今では地元でも評判の医者です。酒を飲みながら、昔話や冗談で盛り上がっていると、つい口が滑って「俺さ、この歳になっても性欲が強すぎて困ってるんだよ」なんて言ってしまいました。
普通なら「すげぇな!」と笑い話で済むと思ったんです。でも友人は真剣な顔で、「それ、一度診てもらったほうがいいぞ」と言ってきました。「ただの性欲だろ」と笑い飛ばしましたが、友人は「ホルモンバランスが崩れているかもしれない」と本気で心配してくれて、内分泌内科の診察を勧めてきました。
少し気になりつつも、「まあ大したことないだろ」と思いながら診察を受けてみることにしました。そしてその結果は、俺の想像を大きく裏切るものでした。医者から「甲状腺機能亢進症」なるわけのわからない病名を診断されたんです。
甲状腺ホルモンが過剰に分泌されることで、代謝が活発になり、性欲が異常に高まることがあるそうなんです。医者にそう言われたときは「そんなの聞いたことないぞ」と笑うしかありませんでした。でも、その笑いも医者の真剣な表情で止まりました。「笑い事じゃないですよ。放置すると命の危険もありますから」と言われたんです。
性欲が強いだけだと思っていた自分が甘かったことを痛感しました。その日、家に帰ってから麻衣子に診断結果を伝えました。「実は病気だったんだ」と言うと、麻衣子は驚いた顔をして「え、本当なの?」と聞き返してきました。そして、少し涙ぐみながら「ごめんね、私、あなたを責めちゃって……」と言ったんです。その言葉に胸が詰まりました。麻衣子だって辛かったんだと、ようやく気づいたんです。
治療が始まると、薬のおかげで性欲は次第に落ち着いていきました。あれだけ強かった欲求が嘘みたいに穏やかになり、最初は「これが普通なんだ」と思いました。でも、日が経つにつれて、妙な虚しさが湧いてくるようになりました。性欲が落ち着いたことで、これまで自分の中にあったエネルギーが失われてしまったように感じたんです。「男として終わったんじゃないか」という漠然とした不安や、心のどこかにぽっかり穴が開いたような感覚。治療して健康になったはずなのに、どこか自分が空っぽになったようでした。
その夜も、いつものように一人で布団に入り、ぼんやりと天井を見つめていました。治療が順調だとはいえ、夜の生活も静まり返り、これが「普通の夫婦」なんだろうと思い込もうとしていました。でも心の奥底では、このままでいいのかという疑問が渦巻いていました。
その夜、布団に横たわりながら天井を見つめていると、ふいに布団が動く気配がしました。「ん?」と思いながら振り返ると、麻衣子がそっと布団に入ってきたんです。驚いて「どうしたんだ?」と声をかけると、彼女は少し照れたように「たまにはいいでしょ」と言いました。
その一言が、妙に胸に刺さりました。治療のおかげで落ち着いていたはずの性欲が、麻衣子の温もりを感じた瞬間に目覚めるのが自分でもわかりました。でも、それ以上に嬉しかったのは、麻衣子が歩み寄ってくれたことでした。俺は思わず彼女を抱きしめ、「ありがとうな」とつぶやきました。麻衣子は「私もごめんね、いろいろ我慢させちゃって」と小さな声で答えました。
その夜は、久しぶりに麻衣子と心から愛し合うことができました。治療で性欲が落ち着いていても、麻衣子と触れ合う喜びや安心感は変わらない。むしろ、以前よりももっと深い絆を感じることができました。
翌朝、久しぶりに穏やかな気持ちで目を覚まし、麻衣子がキッチンで朝食を用意している姿を見て心が温かくなりました。テーブルにはいつものようにコーヒーとクロワッサンが並んでいて、麻衣子は「やっぱりあなたは元気ね」と笑いながら言いました。その言葉には、どこか嬉しそうな響きがありました。
それからというもの、性欲の波は穏やかになり、頻度も無理のないペースになりました。以前のような毎日の情熱はなくても、それがちょうど良いバランスだと感じています。そして何より、麻衣子との心の距離が近くなったのが何よりも大きな収穫でした。
ある朝、コーヒーを飲みながら、俺は思い切って麻衣子に言いました。
「麻衣子、本当にありがとうな。お前がいてくれるから、俺は頑張れてるよ」
麻衣子は少し驚いた顔をしましたが、すぐに微笑んで「私もよ」と答えてくれました。でもその顔には、優しさと安心感が溢れていました。
人生は思った以上に短い。そう感じたのは、病気の診断を受けてからのことでした。それでも、麻衣子と一緒にいることで、自分がどれだけ支えられているのかを実感しました。健康を取り戻すのも大事ですが、それ以上に大切なのは、夫婦としての絆を再確認し合うことだったのだと思います。
これからも麻衣子と一緒に歳を重ねながら、小さな幸せを見つけていきたい。そう思っています。