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「パパ」

いつまでも若く純愛
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カフェの窓際の席に座りながら、平山宗太は窓の外をぼんやりと眺めていた。

小雨が降り出し、舗道のアスファルトがしっとりと濡れている。傘を差す人もいれば、慌てて駆け込む人もいる。寒くなってきたな、と思いながら、手元のコーヒーカップを持ち上げた。

口元に運ぶと、もうほとんど残っていない。カップの底に滲んだわずかな液体を見つめて、ふっと息をついた。

腕時計を見る。待ち合わせの時間を10分過ぎていた。

「遅れるなら連絡ぐらい入れてくれればいいのに……」

独り言のように呟きながらスマホを確認するが、通知はない。まさかドタキャンか? いや、そんな無責任なことをする人じゃない。それでも少し落ち着かず、もう一度窓の外を眺める。

目の前を通り過ぎる人々の顔をぼんやりと追いながら、宗太の思考は過去へと遡っていった。

彼女がいなくなって、もう七年か。

今井由香。

大学時代に付き合い始め、社会人になっても続いていた唯一の恋。結婚を意識し始めた矢先、突然の事故で由香はこの世を去った。あまりに唐突な別れだった。夢の中ではいつも彼女が微笑んでいる。だけど、目が覚めると、そこにはもう誰もいない。あの頃から宗太の時間は止まったままだった。周囲の友人たちが結婚し、家庭を持ち始めても、自分には関係のないことだと思っていた。紹介された女性とデートをしても、どうしても気持ちが動かない。

「由香に会いたい」そんなことを考えながら毎日を過ごしていた。そして月日は過ぎ、七回忌の墓参りに向かった。

墓前に花を手向け、静かに手を合わせる。由香の笑顔を思い浮かべながら、心の中で「久しぶり」と呟いた。そのとき、背後から声をかけられた。

「宗太くん……?」振り返ると、そこには由香の母が立っていた。少し小柄になったように見えたが、目元の優しさは変わらない。

「お久しぶりです」そう言うと、彼女は一瞬、懐かしそうに微笑んだあと、急に険しい表情になった。

「あなた…いつまでもこんなじゃ、由香が悲しむどころか怒るわよ!」宗太は、驚いて言葉を失った。由香が怒る? そんな発想はなかった。ずっと「彼女は悲しんでいる」と思っていた。

「ちゃんと幸せになりなさい。でないと、由香も安心できないわ」由香の母の言葉が、胸に深く突き刺さった。

それから、宗太は婚活を意識するようになった。とはいえ、いきなり結婚相談所に登録するほどの覚悟はない。そこで始めたのが、マッチングアプリだった。

初めて使うアプリは、思っていたよりも簡単だった。画面をスクロールするだけで、いろんな女性のプロフィールが次々と表示される。

けれど、どこか味気なかった。何人かとやり取りをしてみたものの、実際に会いたいと思える相手はいなかった。そんなとき、一人の女性が目に留まった。

丸尾美雪、32歳、シングルマザー。プロフィールの自己紹介には、こう書かれていた。

「一度傷ついたけれど、前向きに生きたいと思っています」短い文章だったが、不思議と心に響いた。試しにメッセージを送ってみると、すぐに返事が返ってきた。彼女は、言葉の一つ一つが飾らず、誠実だった。どこか安心感がある。

やり取りを続けるうちに、自然と「会ってみたい」と思うようになった。

そして、約束した初対面の日。待ち合わせ場所に現れた美雪は、写真よりもずっと柔らかい雰囲気を持っていた。

長い髪を後ろで束ね、シンプルなワンピースにカーディガンを羽織っている。優しげな笑顔が印象的だった。だが、宗太が驚いたのは、その隣にちょこんと立っていた小さな女の子だった。

「すみません、娘の優奈です。一人で置いてくるのが難しくて……」美雪は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、大丈夫です。優奈ちゃん、よろしくね」宗太が優しく声をかけると、優奈は大きな目をぱちくりとさせ、それからニコッと笑った。

「おじちゃん、だれ?」

「おじちゃん……か……」宗太は苦笑しながら、しゃがんで優奈と目線を合わせた。優奈はじっと宗太を見つめ、突然、彼の手をぎゅっと握った。

「おててつなご!」小さな手が、宗太の大きな手をしっかりと掴む。その瞬間、胸の奥に何か温かいものがじんわりと広がった。

この子は、ずっとこうして誰かと手をつなぎたかったのかもしれない。そんな気がして、宗太は優奈の小さな手をそっと握り返した。美雪と優奈とのデートは、いつも三人一緒だった。最初は少し戸惑いもあった。婚活というよりは、子供連れの友達付き合いのような気もした。しかし、そんな気持ちも、優奈がすぐに懐いてきたことで薄れていった。

「おじちゃん、見て!」カフェでジュースのストローをくるくる回しながら泡を作って見せたり、公園で遊んだ後に「疲れたー」と言って宗太の膝の上に座ったり。まるで前から知っている親戚の子のように、優奈は無邪気に距離を縮めてきた。

「なんでこんなに懐いてるんですかね」宗太が苦笑しながら美雪に聞くと、美雪は少し困ったように笑った。

「不思議です。人見知りする子なんですけどね…」

「…そうなんですね」

「元夫が亡くなったのはまだ1歳だったから男の人は苦手だったはずなんですけど…」優奈にとって、父親のように思ってくれているのかもしれない。しかし、そう思う一方で、自分がこの子の「お父さん」になる未来を想像することはできなかった。

美雪に対して好感を持っているのは事実だし、優奈も純粋に可愛いと思う。でも、それはあくまで他人としての感情であって、本当の家族になれるのかどうかは分からない。そんなことを考えているうちに、美雪とのデートの回数は増えていった。

ある日の帰り道、宗太はふと切り出した。

「結婚って、どう考えてます?」美雪は、驚いたように目を瞬かせた後、少し考えて答えた。

「私は……籍を入れるだけでいいと思っています」

「結婚式はしないってことですか?」

「はい。今度はもっとシンプルでいいんです」美雪は淡々と話したが、彼女なりに過去の結婚生活に何かしらの傷があるのだろう、と宗太は察した。

「なるほど……」

「それに、私が結婚を考える理由の半分は、優奈のためです。できれば、優奈に父親を作ってあげたい」その言葉を聞いた瞬間、宗太の胸の奥で何かが引っかかった。

結婚相手として見られているのか、それとも「父親役」として求められているのか。それが分からなくなった。宗太は、美雪のことをもっと知りたいと思った。

「今度、うちに来ませんか?」唐突な申し出だったが、美雪はすぐに「優奈も一緒でいいですか?」と聞いてきた。

「もちろん」こうして、美雪と優奈を自宅に招くことになった。休日の午後、マンションのインターホンが鳴った。

「こんにちは、おじゃまします」美雪が穏やかに挨拶する横で、優奈が「わー!」と目を輝かせながら部屋を見回していた。

「おじちゃんち、広いね! それに、いい匂いがする!」

「ん? どんな匂いかな?」

「うーん……パパの匂い!」その言葉に、美雪が「あらあら」と笑い、宗太は少し照れた。そんなやり取りをしながら、三人で夕食を食べ、映画を観て過ごした。優奈は途中で眠くなり、ソファに寝転がると、すぐにすぅすぅと寝息を立て始めた。美雪は、優奈に毛布をかけてから、ふと宗太を見た。

「……久しぶりに、ゆっくり話せますね」

「そうですね」テレビの画面ではエンドロールが流れている。

「……宗太さん」美雪が、小さく呼びかけた。

「ん?」彼女の視線は伏せられていたが、かすかに指先が震えているのが分かった。宗太は、そっと美雪の手を取った。

「大丈夫ですか?」

「……うん」美雪の声は、どこか不安げだった。静かな時間の中で、ふたりは自然に距離を縮めていく。ふわりと、美雪の体温が近づいた。宗太は、彼女の頬を優しく撫で、ゆっくりと唇を重ねた。触れるだけの軽いキス。しかし、美雪は戸惑いながらも、ゆっくりと応じた。唇を離し、もう一度見つめ合う。

「……大丈夫?」宗太が囁くと、美雪はこくんと頷いた。再び唇を重ねる。彼女の背中に手を回し、そっと引き寄せる。美雪も、宗太の胸にそっと手を添えた。そのまま、少しずつ距離が縮まり、彼女の細い肩を優しく抱く。

けれど――

「……ごめんなさい」美雪が突然、身体を引いた。彼女の瞳が、不安に揺れている。

「ちょっと……お手洗い、借りてもいいですか?」

「あ、うん……もちろん」美雪は立ち上がり、足早にトイレへ向かった。宗太は、残されたソファで息を整えながら、違和感を覚えた。

何かが違う。ただの緊張ではない。15分経っても、美雪は戻ってこなかった。心配になり、宗太はトイレの前に立った。

「美雪さん、大丈夫ですか?」沈黙の後、小さな声が返ってきた。

「……ごめんなさい」その声は、泣いているようだった。宗太は、トイレのドアの前でしばらく耳を澄ませた。静寂の中で、美雪のかすかなすすり泣きが聞こえる。

「美雪さん、何もしませんから……落ち着いたら、少し話しませんか?」しばらく沈黙が続いた。

宗太はリビングへ戻り、ドリップコーヒーを淹れる。部屋にコーヒーの香りが広がる頃、ようやく美雪が戻ってきた。彼女は、少し目を赤くしていたが、努めて平静を装っていた。

「すみません……急に……」

「いえ、座ってください」宗太は、美雪の前にコーヒーを置いた。

「…落ち着きました?」

「…はい」カップを両手で包み込む美雪の指先が、微かに震えている。

「無理しなくていいですよ。まだ2年しか経っていないんですから」美雪は黙り込んだ。

「…私も、ずっと引きずってましたから」

「だから、気持ちは分かるつもりです」美雪は、そっとカップをテーブルに置いた。

「…経済的な理由もありました。仕事と育児を両立させるのは、やっぱり大変で……」

「うん」

「でも、それだけじゃないんです」美雪は、少し視線を落とした。

「…一人でいるのが、寂しかったんです」彼女の言葉は、宗太の胸に深く突き刺さった。

「…一人で家にいると、夜がすごく長くて。誰かにそばにいてほしいって思うのに、いざそういう状況になると……怖くなって」

美雪は、まるで自分自身に語りかけるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「今日も……宗太さんが優しくしてくれて、嬉しかったはずなのに……でも、どこかで……」

「後ろめたさを感じた?」美雪は、はっとしたように顔を上げた。

「…ええ」

「ご主人に申し訳ないと思った?」

「…そうかもしれません」

「でも、それは当たり前のことですよ。だって、美雪さんにとって、ご主人は大切な人だったんでしょう?」美雪は、ぎゅっと拳を握った。

「忘れる必要なんてないんです。ずっと心の中にしまっておけばいい。でも……」宗太は、ゆっくりと言葉を続けた。

「でもご主人と、俺を比べることだけはしないでください」美雪の目が、大きく揺れた。

「俺も、昔の恋人のことを完全に忘れることはないと思います。でも、決して美雪さんと彼女を比べたりしません」

「…宗太さん…」

「だから……焦らなくてゆっくり進みましょ」宗太は、コーヒーを一口飲み、美雪をじっと見つめた。

「…ただ、俺もそんなに若くないので、あまり長く待たされると、その…肝心なところが機能しなくなる可能性があるので…なるべく早めにお願いします」

美雪は、一瞬驚いたような顔をして、それから、吹き出した。

「…もう…」声を震わせながら、美雪は、笑いながら涙をぬぐった。

「そういうこと言うんですね……」

「場を和ませたかっただけですよ」

「…ずるいですね」美雪は、ようやく微笑んだ。

その顔を見て、宗太もほっと息をついた。この夜、何も進展はなかった。だが、それでよかった。

それから2週間が経ち、宗太はまだ迷っていた。美雪とは連絡を取り合っていたが、結婚の話については触れないままだった。彼女は結婚を望んでいる。優奈のためにも、安定した家庭を作りたいという気持ちは痛いほど分かる。しかし、宗太の中には、まだ迷いがあった。

このまま進んで、本当に大丈夫なのか。優奈の「父親」になるという責任の重さを、宗太は慎重に考えていた。そんなとき、美雪から連絡が来た。

「今度、水族館に行きませんか?」

「いいですね!」こうして、三人で水族館へ行くことになった。

水族館では、優奈が大はしゃぎだった。大きな水槽の前で、「おじちゃん、見て! お魚がいっぱーい!」と手を引っ張る。ペンギンのショーでは、「かわいい!」と拍手をし、イルカのジャンプには歓声を上げた。宗太は、そんな優奈を見ているうちに、ふと心が温まるのを感じた。自分は、この子の成長をずっと見守っていきたいのかもしれない。そう思い始めた矢先のことだった。

優奈がふと、宗太を見上げて言った。

「ねえ、パパ―!」

「…え?」宗太も、美雪も、驚いて優奈を見た。優奈は、一瞬ハッとして、自分の口を手で覆った。

「…あ…まちがっちゃった…」頬を赤くしながら、恥ずかしそうに目を伏せる優奈。その小さな仕草に、宗太の胸が大きく揺さぶられた。

―間違えたんじゃない。この子にとって、自分はもう、そういう存在になりかけているのかもしれない。宗太は、美雪の方を見た。

美雪も、驚いたまま、目を伏せている。宗太は、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、ようやく決心がついた。

帰り道、宗太はふと、美雪と優奈を見ながら言った。

「今度新しいおうちでも見に行こうか?」美雪は、一瞬驚いた顔をした。

「…え?」

「これから一緒に住むんだいし、見ておいた方がいいでしょう?」宗太は、なるべく自然に言ったつもりだったが、自分の胸が少し高鳴るのを感じた。

「…それって…」美雪は、戸惑ったように宗太を見た。

「俺、美雪さんと優奈ちゃんと、家族になりたいと思っています」美雪の目が大きく見開かれた。

「…いいんですか? 私たちで…」

「美雪さんの事情も、優奈ちゃんの気持ちも、全部含めて考えました」宗太は、リビングのソファに美雪を座らせ、その隣に腰掛けた。

「美雪さんがご主人のことを忘れられないなら、それでいい。でも、これから先の人生を一緒に歩んでいくのは俺です」

「それに……」宗太は、隣で飛び跳ねている優奈を見た。

「この子の“パパ”になりたいと思ったんです」美雪は、口元を手で押さえ、うつむいた。そして、静かに涙をこぼした。

「…ありがとうございます…」彼女の肩が震える。

「私……本当は、すごく不安でした。宗太さんが選んでくれるのか…」

「選びましたよ」宗太は、そっと美雪の肩を抱いた。

「それに……」美雪の涙が止まらないまま、宗太は冗談めかして言った。

「優奈ちゃんにパパって呼ばれた時、嬉しかったですよ」

美雪は、ハンカチで顔を押さえながら、泣き笑いの顔で宗太を見た。

***

11月の終わり、大安の日。美雪と優奈が、新しい生活を始めるために引っ越してきた。宗太の部屋には、新しいベッドが置かれ、優奈の部屋には彼女のお気に入りのおもちゃが並んだ。

「これで、今日から家族ですね」宗太が言うと、美雪は「はい」と微笑んだ。

「今日からずっとパパって呼んでね?」宗太が言うと、優奈は一瞬恥ずかしそうにしたが、照れながら小さく言った。

「…パパ」それを聞いた瞬間、宗太の胸が熱くなった。

「よし、じゃあお祝いにお寿司でも取りますか!」

「やったー!」優奈が大喜びし、美雪も柔らかく微笑んだ。

新しい家、新しい生活、そして新しい家族。宗太は、ようやく由香の母の言葉の意味を理解した気がした。

「あなたが幸せにならないと、由香が怒るわよ!」きっと、由香もこの決断を祝福してくれているだろう。

宗太は、心の中でそっと由香に感謝した。

「ありがとう」そう呟きながら、彼は新しい家族の未来を思い描いた。

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