
「お義母さん、俺、ずっと――」それ以上の言葉は、喉の奥でつかえて出なかった。
彼女は静かに微笑みながら、テーブルの上に置かれたカップに視線を落とした。
時計の針は22時を回っている。リビングの明かりは薄暗く、暖色のランプが優しく部屋を照らしていた。
妻は先に寝室に入ってしまい、俺と義母だけがこの場に残されていた。
「……そんな顔をしないで。」彼女の声は、まるで過去の記憶をそっと撫でるような響きだった。
俺と彼女は、最初からこんな関係だったわけではない。彼女は俺の義理の母。つまり妻の母親だ。
初めて会ったのは、結婚の挨拶の時。妻の実家で緊張しながら正座をしていた俺に、彼女は優しく微笑んだ。
「娘をよろしくね」そう言ってくれた彼女の笑顔は、どこか儚げで、美しかった。
年齢は俺より十数歳上。けれど、年齢を感じさせないほどに、上品で落ち着いた雰囲気を持っていた。
俺はいつしか彼女に惹かれていたのかもしれない。
いや、それは認めてはいけない感情だった。彼女は妻の母親であり、俺にとっては義理の母という立場の人だ。
だが、ある出来事が俺たちの関係を大きく変えた。
それは、妻が長期の出張で家を空けた三週間のことだった。
「お義母さん、しばらくうちに泊まりませんか?」
「え? でも……」
「ひとりでいるのも寂しいし、それに……」俺は口ごもった。
この家にひとりきりでいるのが寂しかったのは確かだったが、本当は別の理由があった。
彼女がそばにいることで、自分の気持ちを確かめたかった。彼女は少しだけ迷ったあと、微笑んだ。
「……そうね。じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
こうして、俺たちはひとつ屋根の下で暮らすことになった。妻がいない三週間、俺と義母だけの、秘密の時間が始まる。
だがこの選択が、まさか俺たちの運命を大きく変えることになるとは、このときは予想すらしていなかったんだ。
義母がこの家に滞在するようになって、俺たちの生活は少しずつ変わっていった。朝、目を覚ますと、キッチンから包丁の音が聞こえてくる。
焼き魚の香ばしい匂いが漂い、味噌汁の湯気が立ち上る。
「おはよう」エプロン姿の義母が微笑みながら言った。その姿は、妻とはまったく違う柔らかさを持っていた。
「すみません、朝食まで用意してもらって……」
「いいのよ。普段忙しいんだから、こういうときくらい甘えたっていいのよ」妻が家にいたときは、どちらかといえば俺が料理をすることが多かった。
だからこそ、義母の存在は新鮮だった。食卓に座るだけで、温かい食事が出てくること。誰かが自分のために何かをしてくれること。
それが、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。
「ちょっと痩せたんじゃない?」ある日の夕食のとき、義母がふとそんなことを言った。
「ダメよ。ちゃんと食べなきゃ。あなたのこと、心配してる人がいるんだから」義母はそう言いながら、俺の茶碗にそっとご飯をよそってくれた。
「ありがとうございます…」その瞬間、不思議な感覚に襲われた。
義母の手が俺のすぐそばにあることが、妙に意識される。その仕草ひとつひとつが、妻とは違う優しさを帯びていることに気づいてしまう。
それに何か色気のようなものを感じる…
「どうしたの?」
「い、いや……なんでもないです」視線を逸らしながら、俺は少しだけ頬が熱くなった。
そんな日々が続くうちに、俺は徐々に義母との距離が縮まっていくのを感じていた。食事の後、二人でお茶を飲むのが習慣になりつつあった。
義母はソファに座りながら、俺の隣でくつろいでいる。
「うーん、まあ、それなりには…疲れてますかね」
「そっか…じゃあ、肩、揉んであげようか?」
「え?」
義母はそう言って、俺の肩にそっと手を置いた。
「いいですよ、そんな……」
「遠慮しないで。私、こう見えても昔、マッサージ得意だったのよ?」そう言われると、断るのが申し訳なくなってくる。
「じゃあ……お願いします」義母の指先が俺の肩を優しく押さえた。
驚くほど的確な力加減で、凝り固まった筋肉がほぐれていく。
「き、気持ちいいです…」
「ふふ、そう? よかった」柔らかな手のひらが、肩から首筋へとゆっくり移動する。
そして、その距離があまりにも近いことに、俺は改めて気づいた。振り向けば、すぐそこに彼女の顔がある。
年齢を重ねたはずなのに、肌は驚くほどきめ細かく、凛とした美しさを保っている。目が合うと、ふっと優しく微笑まれた。
「危ない…」頭の中で警鐘が鳴る。これは、普通の義母と義息子の関係ではない。
この距離、この温度、この空気……すべてが、俺の理性を試しているようだった。
「そろそろ、お風呂に入ってくるわね」義母は何事もなかったように立ち上がり、浴室へ向かった。
俺は一人、リビングに取り残される。心臓の鼓動が、普段よりも速いのを感じながら。俺は、気づいてしまった。
「俺は…義母に惹かれ始めている」この感情は、認めてはいけない。
そう思いながらも、心の奥底では、この時間がずっと続けばいいと願ってしまう自分がいた。
そして、この思いは、止められないところまで来てしまっているのかもしれない。
義母がこの家に滞在し始めて、一週間が経った。食事をともにし、他愛もない会話を交わし、ときには並んでテレビを見る。
そんな何気ない日常が、俺の心を次第に蝕んでいった。彼女の仕草、微笑み、ふとした瞬間に見せる寂しげな横顔。
ひとつひとつが胸の奥に焼きついて、どうしようもなく惹かれてしまう。
だが、それは許されない感情だった。俺の妻の母親。なのに、ふとした瞬間に、俺は考えてしまう。
「もし、彼女が義母じゃなかったら―」いや、そんなことを考えてはいけない。
そう自分に言い聞かせながらも、気持ちが抑えられなくなっていく。
そして、それを決定的にしたのは、ある夜の出来事だった。
その日は、梅雨の終わりの蒸し暑い夜だった。深夜、外では激しい雨が降りしきり、雷鳴が時折空を裂いていた。
俺は寝室に入ったものの、なかなか寝つけなかった。窓を打つ雨音が妙に耳に残り、心のざわめきを増幅させる。
すると、不意にリビングの方から物音がした。気になってそっと部屋を出ると、そこには義母の姿があった。
彼女は薄手のカーディガンを羽織り、リビングのソファに座っていた。
手には湯気の立つハーブティーのカップ。
「あら、ごめんなさい。起こしちゃった?」
「いえ、俺も寝つけなくて。」
「そう……雨が、すごいものね」義母は窓の外を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「こういう雨の日、昔を思い出すの」
「昔?」
「あなたのお義父さんと、よくこんな夜に話をしたの。
二人で、静かにお酒を飲みながらね……」
彼女の声はどこか寂しげで、過去に想いを馳せているようだった。
「お義母さんは……寂しいですか?」
俺は気づけば、そんな言葉を口にしていた。
彼女は一瞬驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。
「……そうね。寂しくないと言えば、嘘になるわ」その言葉が、胸に刺さった。俺は彼女を、妻の母親としてしか見てはいけない。
けれど今、目の前にいる彼女は、ひとりの女性だった。
「抱きしめたい」そう思ってしまった。彼女の寂しさを埋めてあげたいと、そう願ってしまった。
「お茶、飲む?」義母がそっとカップを差し出す。俺は無言でそれを受け取り、口をつけた。カモミールの香りが優しく鼻をくすぐる。
義母は小さく微笑みながら、俺の隣に座った。心臓の鼓動が、いやに大きく響く。距離が、近い。いつもなら気にならなかったはずのことが、今は妙に意識される。
彼女の髪から微かに香るシャンプーの匂い。かすかに触れそうな肩の距離。静かな雨音が、部屋に響いていた。
「ねえ……」義母がふと、俺の方を見つめた。
「……?」俺も顔を上げる。一瞬、目が合った。その瞳は、いつもの優しさを含みながらも、どこか戸惑いを滲ませていた。
「……ううん、なんでもないわ」彼女はそう言って、そっと視線を外した。
けれど、その一瞬の間に、俺たちは確かに“何か”を共有してしまった気がした。
触れたわけではない。言葉を交わしたわけでもない。
それでも、たった今、この瞬間に、俺たちは越えてはいけない一線の手前に立ってしまったのだと感じた。
「……そろそろ寝ましょうか」義母が静かに立ち上がる。
俺も立ち上がったが、まだ心臓の鼓動が速いままだった。義母が自室へ向かう足音を聞きながら、俺は一人、リビングに取り残された。
この気持ちは、もう誤魔化せない。だけど、この先に待っているものが何なのか、俺には分かっていた。
背徳感、罪悪感そして、抗えない感情。俺たちは、もう後戻りできないところまで来てしまっているのかもしれない。
翌日の夜。また俺はなかなか寝つけずモヤモヤしていた。
数日前にリビングで義母と過ごした時間が、何度も頭の中を巡る。
彼女の柔らかな表情、ふとした仕草、そしてあの夜に交わした視線。寝返りを打ち、天井を見つめる。
今頃、彼女は眠れているのだろうか。同じように、俺のことを考えてくれているのだろうか。そんな考えが浮かんでは、すぐに掻き消す。
いけない、これは間違っている。そう思えば思うほど、胸の奥がざわつく。そして、その感情をどうすることもできないまま、俺は静かにベッドを抜け出した。
もしかしたら義母もリビングに…しかし義母の姿はなかった。
静寂の中、俺はそっとキッチンへ向かい、冷たい水を一杯、喉に流し込む。寝室に戻ろうとしたが、次の瞬間、
「あら?」突然、背後から優しい声が聞こえた。驚いて振り向くと、そこには義母がいた。
薄手のナイトガウンを纏い、ゆるく結ばれた髪が肩にかかっている。その姿が、妙に色っぽく見えてしまう。
「また眠れないんですか?」
「ええ、なんだか…ちょっとね」彼女は微笑みながら、俺の隣へと歩み寄った。カップにハーブティーを注ぎ、そっと口をつける。
喉が動くたびに、静かな空気がわずかに揺れるような気がした。「あなたも、飲む?」そう言って、義母は自分のカップを俺の方へ差し出した。
俺は少し戸惑いながらも、それを受け取り、同じ場所にそっと唇をつけた。わずかに残る彼女の温もりが、唇を通じて伝わる。
義母はそんな俺の様子をじっと見つめていた。 その視線が、まるで俺の心の奥を覗き込んでいるようで、逃げ出したくなる。
「…ごめんね、何かおかしかった?」「い、いえ…そんなことないです」彼女は静かに微笑んだ。
だが、その笑顔の奥には、何か言葉にできない想いが滲んでいるように感じた。
「…少し寒いわね」義母が腕をさすりながら呟いた。
「エアコン消しましょうか?」
「ううん大丈夫よ。ただ…少し近くにいてもいい?」戸惑う俺の前で、彼女はそっとソファに腰を下ろした。まるで、当たり前のことのように、俺の隣へと座る。
距離は、触れそうで触れないほどの近さ。それなのに、彼女の体温を感じてしまう。
「……ねえ」義母の声が、夜の静けさに溶け込むように響く。
「私たちって…変かしら?」その問いに、俺は何も答えられなかった。
「ふふ……ごめんなさい。変なこと言っちゃったわね」そう言いながら、義母はそっとソファの背にもたれかかった。
「今だけ……こうしていてもいい?」拒む理由など、どこにもなかった。俺はただ、彼女の唇を奪った。義母もあっさりと俺を受け入れた。
「本当に…良いのよね…?」
「俺も多分、お義母さん同じ気持ちですから…」
「こんなこと…駄目なのに」
「お義母さん…」そして俺と義母は越えてはならない一線を簡単に踏み越えてしまった。どれくらい時間が経ったかわからない。気づけば俺と義母は身を寄せ合っていた。
これで良かったのだろうか…妻には言えない秘密を、あろうことか義母と…俺は終わってから色々と考え悩み、いつの間にか眠っていた。
翌日、俺と義母はまるで何事もなかったかのように、いつも通りの朝を迎えた。朝食の準備をしながら微笑む彼女。たった一晩の出来事で、俺の中の何かが変わってしまった。
彼女と目が合うたびに、昨夜の静寂と温もりが脳裏をよぎる。 手を伸ばせば触れられる距離、けれど触れてはいけない関係だったのに昨日はあんなことを…
俺たちは、もう“普通”には戻れないのかもしれない。
その日、夕方になると、義母は買い物に出かけると言って家を出た。俺は一人リビングに残され、ソファに深く座り込んだ。
昨夜のことを思い出しては、理性と感情の狭間で揺れ動く。 この気持ちはただの錯覚なのか、それとも――そんなことを考えていると、玄関の扉が静かに開く音がした。
「…ただいま」彼女は小さな紙袋を手に、ゆっくりと家の中へ入ってきた。
「おかえりなさい」
「ありがとう。ちょっと涼しくなってきたわね」
「そうですね」何気ない会話のはずなのに、どこかぎこちない空気が流れる。義母がキッチンで買ってきたものを片付ける様子を、俺はソファから静かに眺めていた。
彼女の指先がふと震えるのが見えた。そして、そのまま動きを止める。俺は無意識のうちに立ち上がっていた。
「お義母さん……?」そっと声をかけると、彼女は振り向き、微笑んだ。
「……ねえ」その声は、どこか不安げで、そして決意に満ちたものだった。
リビングのソファに並んで座り、俺たちは言葉を探していた。彼女がゆっくりと口を開く。
「……昨日の夜のこと」
「……はい」
「私ね、本当はあのときとやめようと思ったの」
「え?」
「でも、止められなかった。拒んだら、一生後悔するような気がして……」彼女の指先がぎゅっと膝の上で握りしめられる。
「こんな関係ダメなのに。でも、どうしても、考えてしまうの。あなたのことを…」彼女の声が震えていた。
「あなたのことを、義理の息子としてじゃなくて、ひとりの人として見てしまう自分がいる」俺は息をのんだ。
言葉にしてしまえば、それは取り返しのつかないものになってしまう。けれど、俺も彼女と同じ気持ちだった。だからこそ、俺はゆっくりと口を開いた。
「俺も……ひとりの女性として見てしまっています」その瞬間、義母の目に涙が浮かんだ。
「……そう、なのね」
「はい」
「……ダメね、私たち」彼女は苦笑しながら、小さく目を伏せる。
「でも、もう遅いんじゃないでしょうか」俺がそう言うと、彼女はハッとしたように俺を見た。そしてゆっくり唇を近づけようとした時、
ガチャ…玄関の扉が開く音がした。俺と義母は反射的に視線を向ける。
「ただいまー!」妻が、帰ってきたのだ。まるで、張り詰めた空気を一気に断ち切るように。
「お義母さん、いるのー?」妻の声が響く。義母は一瞬だけ俺を見つめ、それから微笑んだ。
「ええ、いるわよ」そう言って、何事もなかったかのように立ち上がる。俺は、ただ座ったまま、その背中を見つめることしかできなかった。
現実が、俺たちを引き戻す。今ここで交わした想いは、決して許されないもの。しかし俺はまだ、彼女の香りが残る空気の中で、動けずにいた。
妻が帰宅してから、俺と義母はまるで何もなかったかのように振る舞った。夕食の準備を手伝いながら、義母はいつものように優しい笑顔を見せる。
けれど、その表情の奥に隠されたものを、俺だけは知っている。食卓を囲み、妻と義母は楽しげに会話を交わす。 俺も相槌を打ちながら、その風景をじっと見つめていた。
ほんの数時間前、俺たちは互いの気持ちを確かめ合ってしまった。 けれど、それを言葉にしたからこそ、もう一線を越えることはできないのだと痛感した。
たとえ、どれだけ心が求めても。
「ねえ、お義母さん、今度の連休、温泉旅行に行かない?」妻の何気ない一言に、義母が目を丸くする。
「温泉?」
「うん、家族でゆっくりしようよ」
「ふふ、いいわね」義母は微笑んで頷いた。それは、いつもと変わらない、穏やかな家族の光景。そして、俺もまた、微笑んでそれに同意するしかなかった。
夕食を終えた後、俺は一人で庭に出た。ふと空を見上げると、月が静かに輝いていた。
「……やっぱり、ここにいたのね」背後から、義母の声がした。振り向くと、そっと微笑んでいる。彼女は俺の隣に立ち、夜空を見上げた。そして笑顔でこう告げた。
「…忘れましょう」彼女は静かに言った。俺はゆっくりと目を閉じる。
「な、何言ってるんですか?忘れられません」
「忘れないといけないの…」彼女の声は、どこか寂しげだった。
「はい…でも俺は…」
「そろそろ、戻りましょうか」義母が静かに言う。
「お義母さん…!」するとほんのわずかに躊躇しながら、俺を見つめる。
「……ありがとう」
「えっ?」
「あなたが、私の気持ちを受け止めてくれたこと」
「俺は……」何か言おうとした。でも、言葉にしたら、また何かが崩れてしまいそうだった。だから俺は、ただ微笑んで頷いた。義母もまた、小さく微笑んだ。
そして、俺たちは何事もなかったかのように家の中へ戻る。妻のいる、いつもの温かい家庭へ。
だが、俺たちだけが知っている。この夜、確かに心を通わせたことを。決して許されない想いを抱えながら、俺たちはこれからも「家族」として生きていく。
それが、俺たちにとっての“幸せ”なのかもしれない。義母のおかげで妻を傷つけずに済んだことは感謝しなければならない。
それからしばらくの間、俺と義母は何事もなかったかのように日々を過ごした。時には視線が交わることもあったが、決してそれ以上を求めることはしなかった。
俺たちは、お互いの心の中にだけ、その夜の記憶を秘めている。それは、誰にも知られることのない、秘密だった。
やがて、義母は遠くへ引っ越すことになった。
「また遊びに来てね」妻が笑顔でそう言うと、義母は優しく頷いた。
「ええ、ありがとう」そして、俺と義母は最後に目を合わせる。
「じゃあね」
「……お元気で」
それだけを言葉にして、俺たちは別れた。
さよならの言葉の代わりに…