
森智則、38歳。地方都市の中規模な広告制作会社に勤めて、もう十数年になる。結婚歴なし、恋人もいない。仕事はまあまあ真面目にこなしてるけれど、情熱があるかと言われればそうでもなく、かといって辞めたいと思うほどの不満もない。なんとなく続けてるって感じだ。
いつも乗るバスは、会社のある駅まで20分ほど。混む時間帯を少し外してるせいか、空いてることが多い。俺はその時間、だいたいイヤホンでラジオを聴いてる。別に情報通でもないのに、トーク番組や時事ネタが、なんとなく頭に入ってきて、なんとなく心を落ち着ける。
その日も、いつも通りだった。
バスは三つ目の停留所でちょっと長めに停まった。たくさん乗り込んできた中に、やたらと目立つ女性がいた。いや、派手というわけじゃない。ただ、妙に目が吸い寄せられる。背が高くてすらりとしていて、服装はシンプルなのに、どこか洗練されていて、無意識に目で追ってしまった。
そして、偶然にもその女性が俺の隣に腰を下ろした。そのときは、「ラッキー」なんて思ってたわけじゃない。ただ、隣に座られて、ほんのりいい匂いがして、ちょっと姿勢を正してしまう程度。
彼女はスマホをいじることもなく、ぼんやりと車窓の外を見ていた。でも、時折こちらに顔を向けてくる。気のせいかとも思ったけど、やっぱり何かを言いたそうな視線だった。
それからしばらくして、急に話しかけてきた。
「あの…失礼ですけど……」声は柔らかく、でもどこか妙な緊張感があった。
「もしかして……前にどこかでお会いしてますよね?」
いや、こういう展開って、ナンパの逆バージョンか?なんて、ありえない想像を一瞬してしまった。俺は苦笑いしながら、「いえ……たぶん、人違いだと思いますけど」と答えた。
でも、彼女はじっと俺を見ていた。そして――
「思い出した!万引きの人だ!」
……は?
一瞬、自分の脳みそがフリーズする感覚があった。
周囲の空気が変わったのが分かった。バスの中の乗客たちの視線が、一斉に俺に向く。目が合った若い男性が、わざとらしくスマホを見るふりをしてるのが見える。
「いやいや、違いますよ。僕、そんなことしてませんから」
慌てて否定したが、彼女は「あ、ごめんなさい、人違いかも」とは言わなかった。ただ、怪訝そうな顔で俺の顔を見つめている。
冗談のつもりだった?違う。冗談にしてはあまりに生々しい言い方だった。俺の胸の奥に、鈍い痛みが走った。
なぜなら――思い出したからだ。あのときのことを。数年前、地元のスーパーで。
休日の夕方、人の多いレジ前。俺は買い物カゴを持って、列に並んでいた。そのとき突然、後ろの方から甲高い声が響いた。
「あの人、カバンに何か入れてたわよ!お菓子売り場の前で!」
え?……俺?
周囲の視線が突き刺さった。俺はその場でフリーズし、店員に呼ばれ、裏の事務所に連れていかれた。カバンを開けて見せた。もちろん、何も入っていなかった。そして、事務所に別の店員が駆け込んできた。
「やられました……あの中年の女がごっそりお肉を万引きしています!」
監視カメラにばっちり映っていたらしい。結局、俺は無実だった。疑いをかけてきたおばさんこそが、真の万引き犯だったのだ。
店員の注意を引くために俺に濡れ衣を着せたのだ。
その場で店員には謝罪はされた。だが、あの数十人の目の前で、濡れ衣を着せられ、晒された記憶は俺の中から消えなかった。
俺はそのスーパーを二度と利用できなくなり、引っ越した。近くにはそこしかなかったし、あんな場所もう歩けないと思ったから。
そんな過去があるからこそ、今目の前にいるこの女性の一言が、地雷のように胸を突き刺した。
バスが停まった。乗客の誰かが降りる。俺も立ち上がった。降りる必要なんてなかった。でも、無理だった。
この空気、この視線の中に居続けるなんて、無理だった。
降りて歩きながら、俺はしばらく足元しか見ていなかった。
あれは何だったんだ。あの人は……まさか、あの場にいた?あのとき、俺を見てた人間……?
頭の中がぐるぐる回っていた。
翌朝、バス停に立っていると、背後からふわりと香水の香りがした。どこかで嗅いだことのある匂い。振り返ると、あの女性――昨日、俺を“万引き犯”呼ばわりした張本人が、申し訳なさそうに立っていた。
「あの、昨日のこと……本当にごめんなさい」思わず目を見開いた。
まさか謝ってくるとは思わなかった。てっきり、あれっきりもう関わることもないと思っていた。
「びっくりして、ほんと、失礼なこと言ってしまって」
「いや……まぁ、俺もちょっとびっくりしましたけど」まさかそんなふうに声をかけられるなんて、どこのドラマだって話だ。
「それじゃ私の気が済まないので、何か……ご馳走させてください」
まるで会釈のように、頭をぺこりと下げる彼女の姿は、昨日のあの突拍子のない“宣告”とはまるで別人のように見えた。
「いやいや、そんな気を遣わなくても」
「でも……わたし、なんかちゃんと謝らないと気が済まない性格なんです。ちょっとおっちょこちょいっていうか、考えるより先に口が動いちゃって」
その口調は妙に飾り気がなく、まっすぐだった。俺は、少し笑った。
「じゃあ……焼き鳥屋なんてどうです?気軽だし、こっちも気を遣わない」
「えっ、焼き鳥屋……行ったことない!」
「え、マジで?」
「ほんと。ずっと行ってみたかったんですけど、女だけじゃ行けないし。めっちゃ楽しみ!」
そんなノリで、次の土曜日に約束が決まった。
思いがけない展開だけど、悪くない。名前も教えてくれた。「佐倉 彩」と言うらしい。年齢は34歳、俺より少し年下。明るくて、見た目はすごくきれいなのに、話し方がちょっと抜けてて、それが逆に魅力的だった。
土曜の夕方、待ち合わせの駅前に現れた彩は、ラフな服装でもやっぱり人目を引いた。けれど顔色が、どこか良くない。
「大丈夫です?」
「うん、大丈夫です!ちょっと寝不足なだけで……」
そう言いながらも、歩き方がふらふらしている。どう見ても無理してる。
「無理しないで、別の日にしますか?」
「えー、やだ。せっかく楽しみにしてたのに……」そう言った直後、彼女がその場にしゃがみ込んだ。顔をしかめて、お腹を押さえてる。
俺はすぐに察した。姉がよく、同じように苦しんでいたことを思い出す。
月のもの。きっと、あれだ。
「動かないで。いま、タクシー拾います」
彼女は小さく「ごめんなさい……」と呟いたけど、すぐに顔を上げられないほどつらそうだった。
俺は手を差し出してから、そのまま勢いで彼女を抱きかかえた。
「え、ちょ……!」
「いいから、じっとしてて」
お姫様抱っこなんて何年ぶりだろう。彼女は抵抗せずに腕の中で小さくなっていた。姉と同じだ。普段は強がるくせに、こういうときは一気に大人しくなる。
タクシーに乗ると、彼女は俺の服の袖をぎゅっと握って離さなかった。
運転手が住所を聞くと、彩は震える声で答えた。
彼女の家の前に着いたときも、すぐには降りようとしなかった。
もう、放っておける状態じゃない。仕方なく、俺も一緒に降りて、彼女を支えながら部屋に入った。
部屋は広くはないけど、清潔で、柔らかい香りがした。女の人の部屋の匂いって、こういうものなのか……って、変なところで感心してしまった。彼女をソファに横たえ、何かできることはないかと訊いた。
「薬……あります?」
「きれてて……ないの……」ちょっとだけ声が震えていた。
もう、しょうがない。俺は言った。
「ちょっと出てきます。すぐ戻るから、ちゃんと横になってて」彼女の返事を聞く前に、俺は部屋を飛び出した。
ドラッグストアが見えてるとはいえ、距離はそこそこある。走った。久しぶりに、息が切れるくらい走った。
鎮痛剤、貼るカイロ、湯たんぽ、温めるだけで食べられるスープと、生姜湯。カゴに次々と突っ込んでレジへ向かう。支払いを済ませてまた走った。
戻ると、彩はうつ伏せでソファに横たわっていた。顔をしかめながら、じっと耐えている。
俺は水と薬を持っていき、彼女に飲ませた。そして腰にカイロを当て、湯たんぽにお湯を入れてお腹の上に乗せ、生姜湯をそっと口元に持っていく。
少しずつ表情が和らぎ、ようやく「ありがとう……」と弱々しい声が返ってきた。
帰ろうと思った。けれど、彼女の顔を見ると、まだ帰れなかった。暇つぶしにと思って、キッチンで勝手に料理を始めた。冷蔵庫にあった野菜と卵、インスタント味噌汁。簡単な炒めもの。
「ご飯……作ってくれたの?」
「たいしたもんじゃないけど、食べられる?」うん、と彩が小さく頷いた。
その顔が、しおらしくて、妙に色っぽく見えた。普段の明るさが嘘のように、可愛いと思った。ドキドキした。でも、今日はもう帰ろうと思った。これ以上一緒にいたら、抑えが効かなくなる。
「もう、寝たほうがいい。今日はおやすみ」そう言って立ち上がると、彼女は少しだけ、寂しそうな顔をした。でも、引き留めずに見送ってくれた。
俺の胸の奥に、何かが静かに灯っていた。
週が明けて数日後、彩から「そろそろごちそうさせてください」とLINEが届いた。
「血を作りたいから焼肉でどうですか」って、やけに即決。
理由もかわいいし、何よりあの夜のお礼もまだできてないって言ってくれた。俺ももう、会いたい気持ちが抑えられなくなっていた。
土曜の夜、予約してくれた焼肉屋はちょっと高級感があって、入口の引き戸すら緊張した。彩は白いブラウスに黒のタイトスカート。髪をゆるく巻いていて、メイクも少し濃い。会った瞬間、思わず声が出た。
「……なんか、いつもよりすごい綺麗ですね」
「うそ、ほんと?今日は“特別”だから」その言い方が妙に引っかかった。でも、それ以上は聞けなかった。
乾杯してすぐ、彩はグラスを傾け、テンポよく肉を焼いてくれた。手際がいい。慣れてるのかなと思ったが、「こういうお店は初めてで緊張してる」って、子どもみたいに笑ってた。
普段の快活な雰囲気と、今日の大人っぽい雰囲気。その落差に、俺の中の理性が少しずつ削られていった。
肉も酒も進んで、だいぶ打ち解けてきた頃、電話が鳴った。着信画面には「姉ちゃん」と出ていた。
……嫌な予感はした。
でも、出ないわけにもいかず通話ボタンを押すと、案の定だった。
「とものりーっ!おまえ、今どこぉぉ〜〜!もうさぁ〜〜」酔っぱらってる。完全に。
少し離れたテーブルの端で、「うんうん、はいはい」となだめながら、なんとか会話を終えて戻ると、彩がまるで別人のような表情になっていた。
「今の……誰ですか」口調が硬い。目も笑っていない。
「姉です。さっきも話したけど……」
「ほんとに?なんか……恋人っぽく聞こえました」驚いた。こんなに急に空気が変わるなんて。
「いやいや、違うって。電話しよっか?確認してもらってもいいですよ」俺はその場で再び姉に電話をかけた。
出てくれた姉に事情を説明し、彩に代わった。
「あ……佐倉と申します、あの……」
姉が何か話しているのが漏れ聞こえてきた。
電話を終えた後、彩は顔を真っ赤にしてぺこぺこと頭を下げてきた。
「ごめんなさい……なんかすごく親しそうだったから……」
「うちの姉は、酔うとあんな感じなんですよ。昔から迷惑かけられてます」
「……ごめんなさい。本当に」そう言ってうつむいた彩が、急にぐっと距離を詰めてきた。
その日はもう彼女の家に行くのは当たり前のような感覚だった。
部屋に入ると、あの日と同じ、甘くやわらかい香りが鼻をくすぐった。
彩はコートを脱ぎながら、「こっちに、座っててね」とソファを指差した。
俺が座ると、彩も隣に腰かけて、足を組み直す。その動きが妙にゆっくりで、目が離せなかった。
顔を赤らめたその表情が、可愛くて、色っぽかった。
俺は吸い寄せられるように彼女の頬に手を伸ばし、そっと唇を重ねた。
最初はためらいがちだった彩の唇も、やがて俺の動きに応えるようになっていった。
「智則さんって……優しいよね。でも、もっと……強引でもいいよ」
囁くような声が、胸の奥に火を点けた。抱き寄せた体は想像よりずっと細く、けれど温かかった。ブラウスのボタンに指をかけると、彼女は目を閉じて、小さく頷いた。
その夜、何度も何度も確かめ合った。
彼女の体温と鼓動。乱れる吐息と、時おりこぼれる笑い声。やわらかく香る髪と、肌の滑らかさ。その全てが、愛おしかった。
そして、寝息を立て始めた彼女を腕の中に抱きながら、俺は思った。こんなに自然に誰かとひとつになれたのは、いつぶりだろうか。
翌朝、窓から射し込む朝日で目が覚めた。カーテンの隙間から差す光が、ベッドの中をふんわり照らしていた。
隣を見ると、彩がまだ眠っている。毛布にくるまって、俺の胸にぴったりと寄り添っているその姿が、あまりにも自然で、幸せそうで……見ているだけで、胸がじんとした。
目覚ましもテレビの音もない静かな朝。なのにこんなにも、満たされた気持ちになったのは、いつ以来だろう。
ふいに、彩が目を開けた。まだ眠たげな顔で、ぼんやりと俺を見上げたあと、ふわっと微笑む。
「……おはよう」
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「うん。こんなに安心して眠れたの、すごく久しぶり」彼女のその一言に、俺の胸がぎゅっと締めつけられた。
安心できる場所でありたい。彼女にとって、そういう存在になれたら――そんな気持ちが、言葉の前に湧き上がってくる。
お互い、何かしらの孤独を抱えていたんだろう。どこかで傷ついて、それでも笑って、平気なふりして、日々を過ごしてきた。
けれど、こうして同じ布団にくるまって、眠って、目を覚まして、ゆっくりと朝を迎える――それだけで、誰かと一緒に生きていくことの意味が少し分かった気がした。
「ねえ、私……疑り深いところあるし、すぐ口に出しちゃうし、おっちょこちょいだし……めんどくさいところ、いっぱいあると思うけど、良いの?」
「うん、まぁ、姉貴で慣れてるから大丈夫だよ」
「ちょっとー!」
「でも、そこも含めて好きだよ」一瞬、部屋が静まり返った。
それから、彩が小さく声を漏らした。
「……ずるいよ。そういうとこ」その声が、なんだか泣きそうな声に聞こえて、俺は手を伸ばして彼女の頬を撫でた。
俺たちはまた、自然と唇を重ねた。静かな朝の中で、体温だけが確かに響いていた。
それから少し経ったある日、駅前のカフェで昼食をとっていたとき、ふと彩が言った。
「そういえばさ……あの時の、万引きのおばちゃん。あの後違うスーパーで捕まってたんだよ」
「え?まじ?」
「うん、だからすごく覚えてたの。もしかしたら濡れ衣着せたんじゃないのかなって思ってたの。あのおばさんに大声で言われて、すごい人だかりであなたの顔が真っ赤になってたから……」それはまさしく、あのときの出来事だった。
「…そうかぁ、あの時は腹が立って仕方なかったけど、もしかしたらキューピットなのかもしれないな」
「え?」
「あれが無かったら、彩と出会えなかったしさ」
「ほんとだねー。感謝しないといけないのかな?…」 俺たちは顔を見合わせて、笑いあった。
それでいい。少しずつでもいい。こんなふうに、笑って朝を迎えられる日が続いてくれたら、それだけで十分だと思えた。
彼女の笑顔と香りと、あの夜の温もりを、俺はこれからもずっと忘れないだろう。