
俺の名前は高城拓海。
どこにでもいる、ごく普通の会社員だ。
結婚して六年目。妻の歩花とは大学時代の同級生で、交際期間も含めると、もう十年以上一緒にいることになる。
明るく、社交的で、どこにいても自然と人が集まるような女性だった。俺とは正反対の性格だったが、それが逆に心地よくて、気づけば彼女に夢中になっていた。
結婚してからの生活は、決して派手ではないが、それなりに穏やかで、何の不満もない――はずだった。
いや、本当は心のどこかで気づいていたのかもしれない。
歩花の笑顔の奥にある、ほんの小さな違和感に。
夜、同じベッドに横たわっても、彼女から手を伸ばしてくることはほとんどなくなった。最初は仕事の疲れのせいだろうと思っていた。
けれど、ある日、ふと目を覚ますと、歩花は背を向けたまま、スマホの光に照らされていた。その指先が誰かとメッセージを交わしているように見えたのは、気のせいだっただろうか。ベッドの隣にいながら、まるで手の届かない場所にいるような…そんな感覚が、胸に引っかかり始めていた。
そしてあの日。いつもなら日曜日の昼は一人で買い物をすませて、のんびりと遅めの昼食をとるはずの時間。
インターホンが鳴った。ドアを開けると、そこに立っていたのは歩花の親友・由香里だった。
彼女は歩花と違い、静かで落ち着いた雰囲気を持った女性だ。いつも控えめで、人前では決して感情をあらわにしないタイプだった。
だが、その日の由香里の顔には、いつもの穏やかさがなかった。やつれたような表情と、どこか決意を秘めた目つきに、俺はすぐにただ事ではないと察した。
「拓海さん…お時間、少しだけいただけませんか?」声が震えていた。その震えは、寒さのせいではない。
何かを告げるために、長く葛藤してきた人の、覚悟のにじむ震えだった。俺は黙って頷き、彼女をリビングに通した。
差し出した温かいお茶に、彼女は手を添えるだけで口をつけなかった。やがて、唇を噛みしめるようにして、ぽつりと話し始めた。
「歩花が…浮気しているって、ご存知ですか?」最初、何を言われたのか分からなかった。心が受け入れることを拒絶したのか、意味がうまく理解できなかったのだ。
「……え?」俺の声が、情けないほどかすれた。
「その相手…私の夫なんです」由香里の言葉は、静かだった。だが、その一言がもたらした衝撃は、まるで巨大な波のように、全身を襲ってきた。歩花が浮気を?それだけでも信じがたいのに、その相手が――よりによって、由香里の旦那?
俺は言葉を失った。由香里は続ける。
「私、知ってたんです。夫が歩花と…そういう関係になってるって。でも、信じたくなかった。どうしても、現実として受け入れたくなかったんです」
その声には、悲しみと、怒りと、そしてなにより悔しさが滲んでいた。
「仕事から早く帰ったら歩花の車があって…何か嫌な予感がして…見張ってたら玄関出るときにキスしてて…」言葉を詰まらせた由香里の目に、涙が滲んでいた。
「帰った後家に入ったらすぐにわかったんです。このベッドでしたんだって…」その言葉を聞いた瞬間、俺の心は凍りついた。
身体の内側を冷たい何かが這い回るような感覚。胃がねじれるように痛く、息が浅くなる。裏切られていた。しかも、俺の知る限りもっとも信じていたふたりに。
だが――その時の俺は、怒りよりも先に、深い虚しさと、自分の無力さに打ちひしがれていた。なぜ気づかなかったのか。
いや、気づいていたはずなのに、なぜ見て見ぬふりをしてしまっていたのか。
ソファの向かいでうつむく由香里が、ふと顔を上げて俺を見た。その視線には、ただの同情ではない、もっと深い何かが込められていた。
「拓海さん、もし…もし良ければ、私たちで…」由香里が言葉を選ぶようにしながら、こちらに手を伸ばしかけた。
「今もあの二人は仕事なんかじゃなく一緒にいますよ。だからあの二人に…分からせてやりませんか?」
復讐。その言葉が、頭のどこかでこだました。由香里の目に宿る決意。裏切られた者にしか分からない痛みが、そこにはあった。
俺はその時、まだ自分の感情を言葉にできなかったが――その目に、ほんの一瞬、救われたような気がしたのだった。
あの日から、何度も由香里と会うようになった。最初はただ情報を交換するためだった。
歩花と彼女の夫――達也の動きに警戒し、二人の証拠を少しずつ集めていく日々。
LINEのやりとり、レシート、決定的な写真。由香里が用意してくれた資料は、想像以上に痛ましいものだった。
「私、こんなもの集めるつもりなんてなかったんです。でも、現実から逃げられなかった。どうしても、知りたくて…自分を納得させたくて」由香里はそう言って笑ったが、その笑みはどこか壊れかけていた。
「ごめんなさい、こんな話ばかりして」
「いや、むしろ助かってるよ。…由香里がいてくれて、よかった」その言葉を口にしたとき、自分でも驚くほど素直だった。
由香里は小さく目を見開き、そっと視線を落とした。
「……そう言ってもらえて良かったです…」
気づけば、俺たちはお互いのことを少しずつ話すようになっていた。趣味や日常のこと、過去のこと。歩花と結婚する前の、恋人同士だった頃の思い出も。
ある夜、妻が出張中に俺の部屋に由香里を招いた。案の定由香里の夫も出張中だそうだ。
報告する資料の整理があると言っていたが、それが終わっても、由香里はすぐには帰ろうとしなかった。
「……もう少しいてもいいですか?」
ソファに座り、膝を抱えるようにして身を寄せる彼女の声が、妙に近くて、胸に響いた。
「もちろん。…疲れてるんだろ?」
「うん。でも、拓海さんといると、ちょっとだけ…安心するんです。一人は辛いし…」彼女の肩がわずかに震えていた。
俺は何も言わず、そっとその肩に手を置いた。それだけで、由香里の身体が小さく波打つのがわかった。
沈黙が部屋を満たしていた。だが、それは気まずさではなく、何かを共有しているような静けさだった。
由香里がゆっくりと俺の肩に頭を預けた。
「こんなこと、してはいけないって分かってるのに……ね」囁くような声。
髪からは、ほのかなシャンプーの香り。柔らかく触れた頬の温もりが、やけに鮮明に感じられた。
「由香里……」俺が名前を呼んだ瞬間、彼女の顔がこちらを向いた。距離が近すぎて、息が混ざり合うほどだった。
その瞳に、言葉では語れない何かがあった。迷い、痛み、そして…欲。
俺はもう止められなかった。
「ごめん……」そう呟いた瞬間、唇が重なった。柔らかく、湿った感触が、全身を貫くように走る。
由香里の手が、俺の胸元にすがるように伸びる。吐息が漏れ、身体が少しずつ熱を帯びていく。
「あたたかい…」その声があまりに切実で、俺は彼女を抱きしめずにはいられなかった。
指が背中を撫で、髪に触れ、ぬくもりを求めるように重ねていく。お互いの寂しさを埋めるように、心が、身体が、絡まり合っていく。
それは決して軽い関係ではなかった。たった一度きりの慰めでもなかった。由香里の目から、涙がひとすじ流れたとき、俺は初めて気づいたのだ。この人もまた、ずっとひとりで闘ってきたんだと。
「……拓海さん、ありがとう」由香里の指先が、俺の頬を優しく撫でた。
俺はただ、彼女の手を取り、何も言わずに頷いた。もう後戻りはできない。
だけど、それでもいいと…そう思ってしまった自分がいた。
それから、由香里と俺は、週に一度は会うようになった。それは復讐のための作戦会議という名目ではあったが、本当はお互いを必要としていたのだと思う。静かな部屋で、他愛もない話をしながら食事をし、時には身体を重ね、ただひたすらに寂しさを埋め合った。
「ねえ…私たちって、悪人よね」
ベッドの中で、シーツを胸元まで引き寄せた由香里が、ぽつりとつぶやく。
「先にあっちがそうなったんだから。もう誰かを責めるより、自分たちのことを考えたい」
「私ね…あの人といた頃、何度も何度も冷たくされて、何かが壊れていくのを感じてたの。でも、離婚する勇気もなかった。今から一人で生きていけないって思ってたし…」由香里の指先が、俺の胸の上をなぞる。
その動きに合わせるように、心臓がゆっくりと高鳴った。
「でも、拓海さんといると、変な話…私、女に戻れるの」目を逸らすように呟くその声が、あまりに愛おしく、俺は彼女をそっと抱き寄せた。抱き締めたその肩は、どこか壊れやすく、震えていた。
その夜の行為は、いつもとは違っていた。ただ欲望をぶつけ合うのではなく、確かめ合うように、静かに、深く、時間をかけてひとつになった。髪にキスを落とし、指先で肌をなぞり、重なり合うたびに相手の声に耳を澄ませる。
泣きたいような、笑いたいような、複雑な感情の入り混じる夜だった。
だが、そんな密やかな時間も、長くは続かなかった。ある日、職場で同期の男――和田に呼び止められた。
「なあ、お前浮気してるのか??」
「……は?」
「いや、すまん。変な噂出てるぞ?奥さん以外の人とホテル街を歩いていたって」心臓が一瞬止まったかと思った。
和田は特に悪意のある顔をしていたわけではなかった。ただ、好奇心と、少しの下心を含んだあの目――あれがすべてを物語っていた。
「え?そうなんか。気を付けろよ、お前の友達である俺にまで話回って来てるんだから多分もう広がってるぞ?」
それが職場中に広まるのは、時間の問題だった。
そして案の定、数日後、俺のスマホに一本のメッセージが届いた。
――「今日話がある。歩花より」あの時の動悸は今でも忘れられない。俺は、覚悟を決めて家に向かった。
玄関のドアを開けた瞬間、歩花が立っていた。その顔は、これまで見たことのないほど冷たく、怒りに満ちていた。
「由香里と…寝たの?」開口一番、感情を抑えた低い声でそう言った。
俺は否定しなかった。いや、もう、できなかった。
「……ああ、そうだ」その答えを聞いた瞬間、歩花の表情が一瞬だけ歪んだ。
「それは私が浮気したから仕返しのつもり?」その言葉に、俺は何も返せなかった。だが、歩花の次の言葉が、場の空気を一変させた。
「由香里に、あなたの何が分かるっていうの? 私が苦労して支えてきた部分を知らないくせに。あの女、あなたのどこに惚れたの?」
「……支えてたって言うけど、じゃあ、なんで裏切ったんだよ?」怒りが口をついて出た。言いたくなかった。でも、もう我慢できなかった。
「おまえは自分だけが支えてたって思ってたんだな。お前の目に俺は映ってたのか?支えてるっていう自分に寄ってたんじゃないのか?」
「……」歩花はしばらく黙っていた。その沈黙の中に、たしかに後悔のような気配があった。
「もういいわ。私たち、終わりにしましょう」それが離婚の合図だった。あっけないものだった。
感情のぶつかり合いではなく、あまりにも静かな終焉。でも、それが何よりも悲しかった。
俺たちは静かに離婚届に判を押した。歩花は言葉も交わさずにすぐに出ていった。そして、引っ越しの準備を進めていたある日。由香里から、またメッセージが届いた。
――「荷物、少しだけ持って伺います」
そのメッセージには、それ以上の意味が込められていることを、俺は直感的に悟った。
玄関を開けると、そこに立っていた由香里は、白いコートの下に柔らかなワンピースをまとい、うっすらと紅をさしていた。
まるで、何かを決意してきた女の顔だった。
「拓海さん…」震える声。潤んだ目。そして――俺の名を呼ぶ唇。
俺はもう、自分を抑えられなかった。あの夜、俺たちはもう言葉を交わさなかった。
ただ、互いの存在を確かめ合うように、そっと指を絡め、唇を重ねた。
玄関を閉め、コートを脱いだ由香里は、まるで静かな水面のような目で俺を見つめた。
「……もう、迷わないって決めてきたの」その一言に、俺の心が揺れた。
全てを終えたばかりの俺にとって、それはあまりにも真っ直ぐな想いだった。けれど――その純粋さが、どうしようもなく嬉しかった。
彼女の手を取り、リビングのソファへと導く。灯りを少しだけ落とし、薄暗い空間の中で、お互いのぬくもりを探し始めた。
指先が頬をなぞる。髪をほどいた由香里の香りが、ゆっくりと部屋を満たしていく。
「ねえ、拓海さん…」
「ん?」
「あたたかい……すごく…安心するの」そう言って、彼女は俺のシャツのボタンを、ひとつずつゆっくりと外し始めた。
その指先は、どこか震えていたけれど、その不器用さがたまらなく愛おしかった。やがて、俺たちはベッドではなく、あのソファで向き合いながら重なった。まるで、何かをやり直すように。何も飾らず、何も急がず、お互いの呼吸だけを頼りにして。
唇が首筋を這い、肩に落ち、胸に触れる。彼女の肌は驚くほど滑らかで、指を這わせるたび、少しだけ身体が反応するのがわかる。
「拓海さん………」制止の言葉とは裏腹に、彼女の脚は自然と俺に絡まり、背中を引き寄せる。小さな吐息が、俺の耳元にかかり、深い熱が腹の底から湧き上がってくる。長く、深く、絡まりながら、お互いの寂しさを、悔しさを、静かに溶かしていった。
どちらが先に涙を流したのか分からない。ただ、ふたりの間にはもう、言葉などいらなかった。
すべてを終えたあとの沈黙は、悲しみではなかった。穏やかで、少し切なくて、でもどこか満たされていた。
「これから…どうする?」布団を被ったまま、俺がそう尋ねると、由香里は静かに微笑んだ。
「どこか遠くに行こうよ。誰も知らないところへ…」俺は頷いた。
それがどれだけ世間的に見れば不道徳で、常識外れのことだとしても、今の俺にはそれが一番自然な選択だった。
そして数週間後、俺は小さなアパートを引き払い、由香里と二人で住むマンションを契約した。
「行ってらっしゃい、拓海さん」
毎朝、玄関先まで見送りに来てくれる由香里。その声が、妙に心地いい。
歩花との暮らしでは、一度も感じたことのない安心感。帰ってくれば、温かい夕食の匂い。部屋の隅には、いつも季節の花が飾られている。
「ただいま」
「おかえり。お風呂先にする? ご飯?それとも?」
こんなコメディみたいなやり取りに俺は心が癒されていた。
由香里はいつも微笑み俺を支えてくれた。
もしかしたら、傷つき合った同士慰め合っていただけかもしれない。
もう若くないのに俺たちは毎日のようにお互いを求めあった。肌を重ねるたび、過去の傷が少しずつ癒えていく気がしていた。
そうだ。どれほど傷つき、裏切られ、過ちを犯したとしても――
人はまた、誰かと生き直すことができるのだ。
そして俺は今、ようやく心から思える。
この人となら、これからの人生を、もう一度大切に歩んでいけると。