
俺は、あの夜を一生忘れることはないだろう。妻の母である陽子さんの、熱を帯びた指先が、俺の頬に触れた瞬間を。
誰にも許されない、誰にも知られてはならない関係。それでも、あのときの俺たちは、もう引き返せなかった。
罪悪感も、恐れも、すべてを押し流すような、甘く、狂おしい夜だった。
「お願い……少しだけでいいから……」 掠れる声でそう言った陽子さんを、俺はもう拒むことは出来なかった。
なぜ、こんな関係になってしまったのか?
どうして俺は、妻ではなく、義母である陽子さんに心を奪われたのか?すべては、あの日、病院のロビーで始まった。
俺の名前は、佐伯 涼介。32歳。地元の中小企業で営業をしている、ごく普通のサラリーマンだ。
妻の香織とは会社の先輩後輩だ。教育係として出会いそのままもうアプロ―チの結果、交際4年で結婚した。
いまはまだ小さな賃貸マンションで二人きりの暮らし。特別裕福ではないが、ささやかな幸せを築いているつもりだ。そんな平穏を打ち砕いたのが、義母の陽子さんの事故だった。
病院に駆けつけたとき、陽子さんはベッドに横たわり、両手、右足をギプスで固められていた。
「ごめんね……迷惑かけて……」顔をしかめながら、陽子さんはそう言った。肩まで伸びた栗色の髪。年齢を感じさせない滑らかな肌。どこか香織に似ていながら、もっと大人びた艶やかさを纏っていた。
俺は戸惑った。香織の母親でありながら、年齢は俺とわずか13歳しか違わない。
「お義母さん」と呼ぶには、どこか不自然な若さがあった。香織は決めたように言った。
「退院したら、しばらくお母さんも一緒に住んでも良い?」俺は頷くしかなかった。ただこの時香織には言えなかったのだが、陽子さんを招き入れるのは少し抵抗があった。もっと母親ほど年が離れていたらそれほどだったと思うが、変に意識してしまい若干気まずかった。
それでも状況が状況なだけに仕方ないことだった。そして介護生活が始まったのだ。陽子さんはかなり不自由だった。腕は肩以上に上がらないし、手も満足に動かせない。買い物、風呂、着替え、すべてに手助けが必要だった。といっても、俺自身が手伝えることは買い物と抱えてあげるくらいだったが…
「涼介くん、本当にごめんね……こんなことまでさせちゃって……」申し訳なさそうに陽子さんは笑った。その笑顔が、妙に胸に引っかかった。香織とは違う、しっとりとした、女としての笑みだった。最初はもちろん意識しないよう努めた。相手は義母だ。そしてこれは介護なんだ。そんなことを考えるべきじゃない、と。ある晩、香織が夜勤で家を空けた。何かあれば香織が電話してくれれば良いと言っていたのだが、それでも二人での空間には少し緊張していた。何もないことを祈っていた時、陽子さんから声が掛かった。「涼介くん……ちょっと、いい?」リビングのソファに座る陽子さんが、俺を呼んだ。俺は彼女の前に座った。「ごめんね。足が……疼いて…少しだけ…さすってくれない?」
「わ、わかりました」俺は義務感に駆られるように、陽子さんの足に触れた。柔らかく、温かい感触が指先に伝わる。思わず息が止まった。「……ごめんね、変なこと頼んで」
「い、いえ……気にしないでください」陽子さんは、うっすらと微笑んだ。足首からふくらはぎへ、そっと撫でるようにマッサージを続けた。ほんの数分だったが、部屋の空気がどこか甘く、湿っぽく変わった気がした。それから、俺と陽子さんの距離は、少しずつ、確実に縮まっていった。
最初は「介護」という名のもとに。 だが、次第に俺は言葉にできない感情が芽生えはじめていた。
何気ない会話、ふとした視線、指先が触れる瞬間。それらすべてが俺を変に意識させたように思えた。
「涼介くん、ごめん。頭を洗ってくれないかな?気持ち悪くて…」ある夜、浴室から陽子さんが顔を出した。タオルを手に、小さく首を傾げながら、俺を見上げる。普段頭は香織がいるときしか洗わない。手を上げられないからだ。思わず、胸が高鳴った。バスタオルを一枚を巻いてくれてるとはいえ、ぴたっと貼りついて体の線が出ている。これは……まずい。だが、断る理由も、勇気も、俺にはなかった。
「……はい」
声が少しだけ震えた。俺はバスルームに入り、そっと陽子さんの髪の毛を洗った。女性の髪の毛を洗うなんて生まれて初めてのことだった。難しい。そしてどうしようもない感情が渦巻いていた。見ないように、何も感じないように、俺は世界経済のことを考え、ただただ無となり彼女の頭を洗った。
「……あぁ」陽子さんが微かに吐息を漏らした。
その声が、やけに耳に残った。それから、俺たちはますます”曖昧な距離”を保つようになった。陽子さんは何かと俺を呼ぶ。足のむくみ、髪の乾かし、買い物の付き添い。最初は介護の延長だったはずだ。
けれど、いつからか、互いに求める理由を探しているように思えた。
「ねえ、涼介くん……香織とはうまくいってる?」ある夜、陽子さんがふと呟いた。二人で夜風にあたっていたベランダ。 涼しい風が肌を撫でる中、彼女はワイングラスを揺らしていた。
「……はい。たぶん、それなりに…だと思います。」
「そう……」陽子さんは微笑んだ。しかしその笑顔は、どこか寂しげだった。
「私も涼介くんみたいな人と、もっと……早く出会えてたら女手一つで苦労しなかったのにな」ワインの酔いか、それとも本心か。陽子さんの声はかすかに震えていた。ダメだ……
心の中で何度も自分に言い聞かせた。これは越えてはいけない一線だ、と。けれど、夜が深まるたびに、俺の理性は少しずつ、蝕まれていった。陽子さんがふと俺に触れるとき。
俺を見るその視線が、娘を見る母親のそれではないと、はっきりわかるとき。
俺の中で、大きくなってはいけない気持ちが膨らみ始めた。
これ以上陽子さんいたら俺は…そんなある晩のことだった。
「涼介くん、手……貸して?」
ベッドに横たわる陽子さんが、俺に手を伸ばした。足が痛くて、立ち上がれないという。俺は手を取った。細く、温かい手だった。「……ごめんね、こんな……女の手なんて、触りたくないよね」
「そんなこと、ないです」思わず、声が漏れた。陽子さんは、じっと俺を見上げた。濡れたように光る瞳。小さく震える唇。「涼介くん…あの私…」次の瞬間、俺たちは、そっと唇を重ねていた。それは、自然な流れだった。
まるで最初から、そうなる運命だったかのように。陽子さんの手が、そっと俺の頬に触れた。
俺は彼女を抱き寄せ、壊れもののようにそっと抱きしめた。
「……こんなこと、いけないのに」耳元で囁かれた陽子さんの声は、泣きそうだった。それでも、俺は彼女を離さなかった。
罪悪感と背徳感が交錯するなかで俺は彼女への思いが香織より強くなっていることがわかっていた。
俺は今この陽子さんを、確実に”女”として求めている…そう気づいたんだ。陽子さんの体は、驚くほど細かった。触れると、すぐにでも壊れてしまいそうなほど。俺は、腕の中の彼女を、ただそっと抱きしめた。何かを確かめるように、額を彼女の額に重ねる。
「涼介くん…」陽子さんが、俺の名前を呼んだ。それだけで、胸の奥が、熱く疼く。
「……本当に、いいの?」陽子さんの震える声に俺は一瞬正気に戻った。目の前にいるのは香織の母親だ。いくら身内とはいえ、この先のことを続けてしまえば不倫になる。だったら今すぐにでも止めるべきだろう。それにこれから先も香織との結婚生活を続けていくのだとすれば、陽子さんと関係を持つなどあってはならない。
そう…頭ではわかっていたんだ。しかしそんなものを全部、捨て去ってしまいたいくらい、彼女を抱きたかった。「もう、止められないんです。もう我慢できません…」自分の気持を振り絞るかのように口に出した。
すると陽子さんの瞳から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「ありがとう…」その涙は、悲しみではなかった。俺にはわかった。
ゆっくりと、陽子さんの肩に手を添えた。バスローブのような寝間着が、音もなく滑り落ちる。月明かりが、彼女の肌を優しく照らす。
俺は、言葉もなく、そっと彼女の身体を抱き寄せた。頬を寄せ、首筋に唇を落とす。陽子さんは、小さく息を呑んだ。ベッドの上で、俺たちは互いを確かめ合うように、そっと手を伸ばした。触れるたびに、陽子さんの体が小さく震える。
背中を撫で、肩を抱き寄せ、頬を寄せ合う。か細い声で名前を呼ばれるたび、胸の奥が熱くなる。まるで、今この瞬間だけ、世界で二人きりになったようだった。やがて、俺たちはそっと重なり合った。何も言葉はいらなかった。
互いの存在を、体温を、心を、深く深く確かめ合った。そこには義母と娘の夫とのしがらみはなく、ただの男女の交わりだった。
どれくらい時間が経ったのかわからなかったが、外が明るくなっていたところを見ると何度求めあったのかわからないほど熱中していたようだ。ただ朝になって現実に引き戻されたこともある。俺は、越えてはならない一線を越えてしまったのだと。
数時間後。疲れてそのまま眠ってしまった俺は目を覚ました。隣には、まだ眠る陽子さんの姿。柔らかな寝息を立てながら、俺の腕を掴んで離さない。俺はそっと彼女の髪を撫でた。そうだ。俺はこの人と一夜を共にしたんだ。このまま、時間が止まってしまえばいい。
本気でそう思っていた。しかし、現実はそんなに甘くない。
家のチャイムが鳴った。
「ごめん開けて―。両手塞がってるのー」
香織の声だった。心拍数が一気に跳ね上がる。この状況は非常にまずい。
俺は、陽子さんを起こさないように、そっとベッドを抜け出した。寝室のドアに手をかける。
だが、その瞬間。後ろから、陽子さんの細い指が、俺の手首をそっと掴んだ。
「……行かないで」寝ぼけた声。
無意識に口をついて出た、そんな一言が、俺の胸を締めつけた。猛烈な罪悪感が、胸に押し寄せる。俺は、陽子さんの手をそっと振りほどき、深呼吸をしてドアを開けた。
「お母さんまだ寝てるの?」 「あ、ああ、昨日遅かったみたいだよ」俺は、ぎこちなく笑った。自分でもわかるほど、不自然な声だった。香織は、不思議そうに俺を見つめた。もしかして気づかれたのか…?そう思ってしまうほどにまっすぐ俺を見ていたんだ。
それから数日。俺と陽子さんは、まるで何事もなかったかのように振る舞った。
だが、以前のように元通りというわけにもいかない。やはり意識はしてしまうものだ。目が合うたび、ドキッとしてしまう。言葉を交わすたび、喉が渇くような感覚に襲われる。昼間、陽子さんがふと俺に微笑みかける。そのたびに、胸が痛んだ。夜、廊下ですれ違うとき、わずかに手が触れた。その時俺は理性が飛びそうになったのだが、懸命に堪えた。
こんなこと、続けられるわけがない…ある夜。俺は、陽子さんがリビングでひとり、俯いて座っているのを見た。その肩は、小刻みに震えていた。「……陽子さん」呼びかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「ごめんね……涼介くん」涙ぐんだ目。苦しそうな表情をする理由がよくわからなかった。何かあったのだろうか。すると陽子さんはゆっくりと語り出した。
「このままじゃ駄目よね…」「え、何がですか?」「このままじゃ、全部、壊れちゃう気がする……。香織も、あなたも、私も……」俺は、言葉を失った。陽子さんがどれほど葛藤していたか。どれほど、自分を責めていたか。やっと、理解できた気がした。
俺たちはやはり越えてはならない一線を越えてしまったのだとこの時改めて、気付かされた。
「俺も、正直言うと怖いです」陽子さんに対しての言葉はそう絞り出すのが精一杯だった。
次の日。
ふとした瞬間に、香織が俺をじっと見つめることが増えた。
「最近、お母さん、様子が変じゃない?なんか元気ない…」
何かを疑っている…それは間違いなさそうだった。俺は、何も答えられなかった。香織はやはり気づき始めている。
夜、陽子さんと二人きりになったとき、俺は決心した。「陽子さん…今日で、終わりにしましょう」陽子さんは、一瞬驚いた顔をした。しかしすぐに笑みを見せた。わかっていた、というように。
「うん……」ただその一言だけを残した。そして俺と陽子さんはその日何度も何度も激しく互いを求め合った。その最中で彼女はこんなことを口にしていた。
「終わりたくない…」もちろん俺だって同じ気持ちだ。だがこのままいけば二人で香織を傷つけることになる。
いやもう傷をつけているのかもしれない。だったらまだ引き返せる位置にいるならば、今関係を断つべきだ。
そう思ったんだ。そして互いに精根尽き果てた頃、俺は陽子さんに言葉を残した。
「今までありがとうございました…」これで終わりだ…
そして俺達の関係は終わりを迎えた。
それから数日してからのことだった。春の匂いが、街に満ちていた。陽子さんは、リハビリ施設への転院することが決まった。
しばらく家を離れて、治療に専念することになったのだ。これは陽子さん自身が決めたことだ。
だが陽子さんがそう決めた時、不思議と香織は反対しなかった。
きっと俺達の関係が普通ではないことを何となくわかっていたのだろう。
だから離れるべきだと判断したのかもしれない。
引っ越しの日。
俺は、荷物を運びながら、胸の中で小さな痛みを抱えていた。これでいい。これで、よかったんだ
玄関で最後の挨拶を交わすとき、陽子さんは微笑んだ。それは、あの夜の涙とは違う、すっきりとした笑顔だった。
「……元気でね、涼介くん」
「お義母さんも。無理せずお元気で…」たったそれだけの言葉に、想いが詰まっていた。
もう、触れることも、抱きしめることもできない。けれど、俺たちは、確かにお互いの心に触れたのだ。
二人の関係だけは、この先も消えない。陽子さんを見送ったあと、俺はリビングのソファに腰を下ろした。
隣には、香織がいる。
「お母さん、元気そうだったね」
「そうだな」
ぎこちなく笑う俺に、香織は不意に顔を近づけた。
そしてふわりと、俺の肩にもたれかかってきた。
「涼介……これからも、ずっと一緒にいようね」その小さな声にはまるで不安もあるかのようだった。
すべてを許すかのような、温かい囁きだった。俺は、強く頷いた。今度こそ守らなきゃ。
二度と香織を裏切ることは許されない。
数日後。
ポストに、一通の葉書が届いた。差出人は、陽子さんだった。
「リハビリ、頑張ってます。まだまだ綺麗な字は書けないけど、春になったら、またみんなでお花見しましょうね。元気でいてください」
最後に、小さな花のイラストが添えられていた。俺は、葉書を胸に当て、そっと目を閉じた。
あの日々は、もう戻らない。