今日は、いつもねちねちと馬鹿にするように絡んでくる取引先の社長との会食に、妻を同伴させていた。
「いつも主人がお世話になっております」と麗子が優雅に微笑みながら頭を下げる。
「あ、あぁ。こちらこそ和男くんにはお世話になっているよ。それにしても、こんな美人な奥さんがいるなんて和男君も隅に置けないな」と、取引先の社長が苦笑いを浮かべながら言った。
俺の名前は二宮和男。勤続30年のサラリーマンだ。だが、人付き合いが苦手な俺は昇進には程遠く、係長どまりの立場だ。ただ、職場の雰囲気は良く、居心地も悪くない。給料面に関しても大きな不満はなかった。逆に昇進すると責任が増加し、増える給料とは見合っていない気がするので、この立場で十分に満足していた。ただ、男ばかりの職場ということもありなかなか女性に縁が無く、この年になるまで結婚はできていなかった。
そんな仕事の中で一つだけ大きなストレスになることがあった。それは取引先との仕事だ。この取引先の社長がかなりのワンマンで、人への当たりが強い。元々は同僚が担当していたのだが、この社長のせいで精神的に被害を受けていた同僚から、見るに見かねて担当を代わってあげていた。それ以降、十数年俺が担当している。基本的には社長の話をのらりくらりとかわしていればいいのだが、月に一回は必ずこの社長との会食に付き合わないといけない。この社長、普段からねちねちしているのだが、お酒を飲むとさらに悪態をつきだす。
今回も、社長は「だからいつまでたっても独身なんだ」「だから結婚できないんだ」「だから平社員なんだ」と、2時間にわたってねちねちと言われ続けていた。まあここまでは普段通りなので、やっと今日も帰れると思っていた矢先に「親の顔が見てみたいわ」というセリフに、ついぶちっと切れてしまった。
「私は結婚しています!」と咄嗟に嘘をついてしまった。
「え?結婚しているのか。なんで言わない」
「会社にも言っていませんので」と嘘に嘘を重ねた。だが、この社長も嘘だと気付いているのだろう。ニヤニヤしながら「では今度連れてきなさい、じゃないと次の仕事は回さないよ」と軽く脅してきた。俺はしまった、なんてことを言ってしまったんだと後悔していたが、すでに後の祭りだった。
次の日、行きつけの小料理屋でお酒を飲みながら、誰かに妻の代わりをしてもらえないかなどと悩んでいたら、「二宮さん、今日はどうしたんですか?」と女将さんに声を掛けられた。俺が今唯一女性と話す機会がある人と言えばこの女将さんしかいない。言うか言わまいか悩んだが背に腹は代えられないと思い、女将さんに事の顛末を話した。「何それ、酷い社長さんね」「じゃ、このサービス使ってみたら?」と女将さんがあるサービスを教えてくれた。
それはレンタル妻というサービスだった。実際にスマホで調べてみると本当にあった。今回の俺のように見栄を張ってしまった人や、本当の妻を合わせたくない場合などに使ったりするらしい。「女将さん、ありがとう」と感謝し、翌日すぐにそのサービスを申し込んだ。細かい要望を入力し、社長との食事の前日に打ち合わせでその女性と会うことになった。
その女性に会う当日、そわそわしながら早めに喫茶店に到着し女性を待っていると、カランコロンとお店のドアが開いた。なんとそこに偶然女将さんが入ってきた。女性との打ち合わせを見られるのは嫌だなと思い、気付いていないふりをし顔を背けた。しかし、女将さんはまっすぐこちらに向かってきて、軽やかに俺の前に腰を下ろした。
「え?どういうこと?」と驚く俺に、女将さんは「ふふっ」と悪戯な笑みを浮かべていた。普段とは違うワンピース姿の女将さん。俺は内心ドキドキしていたが平静を装い、詳しく話を聞くと小料理屋さんだけでは売上が厳しく、女将さん自体がこのサービスに登録しているそうだ。そこで本部に連絡し、今回自分から俺の相手に立候補したそうだ。
「私じゃ駄目でした?」「いや、そんなことないです。あなたなら十分すぎます。」と照れながらも打ち合わせを始めた。女将さんの名前は恵美というらしい。本当の年齢は内緒らしいが、40代前半に見える若々しい女性だ。俺は内心ドキドキしていた。恵美さんは結婚していると思っていたし、いつも酔っぱらって恵美さんにいろんなことを話していたのが急に恥ずかしくなっていた。だが、逆に俺がどういう人間か深く説明をする必要はなく、簡単な設定だけ決めてその後は、場所を変え二人で食事を楽しんだ。女性との二人きりの食事に俺は社長との会食の事なんてどうでもよくなるくらい浮足立っていた。
社長との会食で、彼女は見事に妻を演じ切ってくれた。まるで本物の妻がそこにいるかのような錯覚を覚えた。社長も「何で言わないんだよ、和男君も隅に置けないな」と謝ってくるくらいだった。無事社長との会食も上手くいき、恵美さんをお店の前まで送り届けた。
その時「さっきはちゃんと食べられなかったでしょ?」中に入って打ち上げしましょうと誘ってくれた。簡単なおつまみとビールを出してくれた。この時、今までのお客と女将さんという空気ではなく、温かい空気が流れていた。
「恵美さんのおかげで全てうまくいったよ。今日は本当にありがとう」と最大限の感謝の意を伝えた。
すると恵美は躊躇いながらも「今日だけなんですか?」と優しい笑みを浮かべながら言ってきた。「え?」と返答に躊躇し固まっていると「本当にお鈍さんなんですね」と恵美はそっぽを向いてしまった。
さすがの俺も、ここまで言われて気付かない人間ではない。「恵美さん!僕とお付き合いしてください」頭を下げて右手を出した。恵美は何も言わず、俺の手を握り恥ずかしそうにうつむいていた。俺はゆっくりと恵美を引き寄せ、そっと抱きしめた。
「私はずっと和男さんのことを見ていたんですよ」「ようやく私のことを見てくれましたね」
俺たちは自然と引き寄せられ、その瞬間、静かに唇を重ねた。
ひょんなことから始まった、妻をレンタルするというサービスから始まった恋。俺にとっては、嘘も方便に最良の1日となった。
あの憎たらしい社長が、急に愛のキューピットに感じられるほど俺は社長に感謝していた。